帰還、再会


 ギィ……ばたん。ぱたぱた。がたん!ぱたぱた、ぱたぱた……。
 以前も何処かで聞いたような音が扉の奥から聞こえてくる。こういうところは全く成長していないんだな、と呆れながら声をかけようとしたその時勢い良く扉が開いた。

「あら、ホメロス」

「あら、ではないぞ間抜け!全く、準備くらい前日に終わらせておけ」

「ふふ、ご心配なく!以前の失態をもう一度犯すような事はしませんわ。ほら、出港の時間にも余裕ありますし」

 あの時は間に合いそうになかったので、仕方なく手伝ってやったが今回はその必要がないらしい。隙間から見えた部屋の様子も、片付けが済んでおり特に気になる点もなかった。将来は城のメイドとして働くのだからそれくらいは出来て当然なのだが、まあの事なのでそういった些細な成長も評価してやるべきだろうと思う。

 今日は、長らく世話になったこのクレイモラン王国を離れ、故郷であるデルカダールに帰る日だ。初めは凍てつくような、この地方特有の寒さに苦労したが、数年過ごすうちに何となく慣れて今ではそれが日常となっている。けれどその寒さとも暫くはお別れだ。万年雪の国であるクレイモランとは違い、デルカダールは温暖な気候なので、少し暑く感じたりするのだろうか。早く故郷の地を踏みたい気持ちと、この慣れ親しんだ雪の感触を惜しむ気持ちが混じりあって複雑な感情を抱く。帰りたいような、帰りたくないような……。オレはこの留学を経てかなり成長したと思うが、ソルティコで修業をしているグレイグのことを思うと心配になってくる。もしオレ以上にあいつが成長していたら?二人で最強の騎士になる、というあの約束がオレのせいで果たせないとしたら?そう考えると、まだ帰還するのは早いのではないかとか、もう少しやれることがあったんじゃないかと不安になってくる。

(あまり考えすぎるのもよくないか―――。)

 あれこれ考えたところで、どうせ期間を延ばせるわけでも強くなれるわけでもないので、オレは一旦そのことを忘れることにした。オレが考え事をしている最中、はこちらでできた友人へ挨拶まわりをしていたようで、廊下の奥の方で和気藹々と話し込んでいる。
 「、いくぞ」と声をかけると、何故かではなくその友人らが振り向き黄色い声を挙げた。肝心のの返事はその黄色い声に邪魔をされて聞こえず、オレの声が聞こえていたのか不安だったが、遅れてその輪の中から抜け出しこちらに駆けてくるのが見え安堵する。

「挨拶はもう大丈夫か」

「えぇ、ひと通り済ませました。ホメロスは?」

「―――そんなもの必要ない」

 少し困った顔で「そうですか」とが言う。
 別に友人がいないとか、そういうわけではないが特段挨拶するような親しい友人をこちらでは作らなかった、ただそれだけの事だ。遊ぶためにここに来たわけではないし、最初からそんなものに期待をしていないので、どうでもいい。だが彼女はそう思っていなかったらしく、どうにも浮かない顔をしていた。とはいえ、オレに嫉妬して裏であることないこと吹聴する奴らと仲良くなったところで得をするわけでもないのだ。オレにはグレイグとがいればいい。他の奴らがどうこう言ったところで、オレの事を信じ、傍に居てくれるこいつらがいれば。

「……行くぞ、クレイモラン王にも謁見しなければ」

「そうですわね。では、皆さんまたどこかで―――」

 はその友人たちに向かって控えめに頭を下げ、ひらひらと優しく手を振った。「、お元気で!」「またお会いできるのを楽しみにしています」と笑顔で彼女に答える者もいれば、表面では笑顔を浮かべつつもどこか興味のなさそうな振る舞いをする者もいる。後者は恐らく、をダシにしてオレと接触したかったのだろう。そんな下心などお見通しだったので、誘いも全て断っていたが正解だったな。こういう輩ですら信用してしまうのはの悪いところだ。性善説で生きている彼女は、他人を疑うという事を知らない。やはり放っておけん。オレがそんなことを考えているとは夢にも思わんだろう。

 寮長にも別れを告げ、寮の外へ出るとクレイモランにしては珍しく晴れ間が覗いていた。そのまま王宮へ向かい、クレイモラン王との謁見も済ませた頃にはデルカダール地方行きの船が港へ着いたとの連絡があった。もう少しゆっくりクレイモランの地を見て回りたい気持ちもあったが、仕方ない。先輩兵士が、オレの姿を見つけ大きく手を振っているのが見えた。

「……よい国だった」

「えぇ。色んな事がありましたけど、楽しかったですわ」

「そうだな」

 荷物を引きながら桟橋を渡る。サクサクと足を進めるたびに鳴る雪の音が心地よい。この感覚とも暫しのお別れだ。船に乗り込み、一度船室へ荷物を置きに行く。とはもちろん別室なので一度別れ、部屋へと向かった。グレイグと別れ、オレとがこの地へ降り立った時と何ら変わりない船だというのに、あの頃に比べると船室が少し狭く思えた。心だけではなく、身体もしっかり成長した証だ。思い返せば、あまり変わらなかったとの身長差もここに滞在している間にだいぶ開いてきたように思う。この調子で、グレイグの背も軽く抜かせているといいのだが。あいつに見下ろされるのはなんだか癪だからな。
 が呼びに来る間に、軽く荷解きをし、オレは日記を取り出した。以前までは日頃の出来事をつらつらと書いていたが、今は日々学んだことをまとめる用途で使っていた。読み返すだけで何を学んできたのか分かるようにまとめていた自分を褒めてやりたい。今後も重宝するだろうそれを読み返しつつ、留学最中色々あったなあなどと思い出に浸っていると、コツコツとヒールの音が聞こえてきた。

「ホメロス~、いいかしら?そろそろ港を出るそうですわ」

「あぁ、分かった。今行く」

 そう返し、と共に甲板へ上がった。晴れ間が覗いているものの、さすがは雪の国。晴れているにもかかわらずちらほらと雪が舞い太陽に照らされて美しく輝いている。凛とそびえ立つクレイモラン城を見ていると、汽笛が鳴った。それと同時にゆっくりと船が動き出す。船は段々とスピードを上げていき、クレイモランから離れていく。オレとはお互いに何も言わず、ただただ遠くなっていくクレイモランの地を見つめた。やがて何も見えなくなり、風が少し肌を刺すようになった辺りでようやく口を開く。

「あっという間でしたね……。本当に良い国でした、楽しい思い出ばかりですわ」

「フン、貴様のせいで何度叱られた事か。いくつになっても傍迷惑な奴だ」

「ふふ、そうですか?その割に何だか楽しそうでしたけどね、ホメロスも」

「……うるさい。別に楽しくなかったとは言ってないだろう」

 そう言えばは右手を口元にあて、くすくすと笑う。調子が狂う、と思いつつも暫くはこのノスタルジックな雰囲気に包まれていたい気分になった。もう肉眼では確認できないクレイモランの地を黙って見つめているだけで当時の思い出が蘇ってくる。
 クレイモランに来てすぐ、が野蛮な男と言い合いしていたことにはさすがにまずいと思って止めに入ったのを思い出す。あの頃大の大人と張り合っていた少女は、数年の時を経て今やその面影を残しつつ大人の女性へと成長する過程にいる。元々は出会った頃から綺麗な顔立ちをしていたが、近ごろは本当に美しく成長しており、こうして黙っているとその容姿に騙される人も少なくないのではと思う。まあ口を開けばそれが幻影だと分かってしまうのだが。全く、本当に訳の分からん女だと一瞬そちらに目を向けると、それに反応するように彼女もこちらを向く。

「―――ホメロス、今何か失礼なことを考えていませんでした?」

「どうだろうな。当ててみたらどうだ」

「そうですねえ……アホのとか、間抜けとかですか?う~ん……」

 そう言いながら真面目な顔で考え込むものだから、それが純粋に面白くてつい口元が緩む。

「ふっ……!お前、何故自分の悪口を真剣に考えているんだ……!?」

「えぇっ、当ててみろと仰ったのはホメロスでしょう?」

「いや、確かにそう言ったのはオレだが……。―――ふはっ、ははは!!」

 何が可笑しいの?とでもいう様に、困った表情を浮かべるを見てついに耐えきれなくなり、思わず腹を抱えて笑う。この女は一挙一動がオレの想像の斜め上をいくので見ていて飽きない。昔こそやけに鈍間でマイペースを崩さない様が目に付いていたが、それにもいつの間にか慣れ、笑えるようになったのはいつ頃からだろう。グレイグに対しても最初こそ良い印象を抱かなかったが、例の件以降はあいつだけが唯一の親友となった。あの日の事は今だって忘れたことがない。
 ……オレの母上に会いに行こうと二人で内緒に城を抜け出したあの雪の降る日のことを。

 ―――もうそろそろ、こいつにもあの話をしてもいいかもしれない。

 未だに真剣に考え込んでいる彼女を横目に、そんな事を考えた。あれこれと思い出に花を咲かせるなどらしくないが、まあそれもこの女と一緒にいるせいだと自分に言い聞かせる。うんうんと唸る彼女に声をかけ、先に船内へ戻ることにした。一緒に戻るのかと思いきや、はもう少し風にあたっていたいとのことで、一旦別れ船室のドアを開ける。ふと何気なく後ろを振り返ると、船の手すりに寄りかかりながら何かを思っているかのような顔で空を見上げているの姿があった。幼いころから変わらない、絹糸のような髪を靡かせながら、深く煌びやかな青色の瞳に空を映している。―――美しいな、と思った。己の想いを抜きにしても。思わず息を飲んだ。
 けれど、普段の事を考えるとやはりどうにも納得できない。数秒見惚れてしまった自分に怒りを覚えた。

(ちっ……。つくづく気に食わん女だ。)

 自分の気持ちに理解を示せない。無性に腹が立ってきたので、わざと大きな音を立ててドアを閉めてやった。自室に向かう際にすれ違った兵士に彼女の事でちょっかいをかけられたが軽く睨みつけ、そのまま早足で部屋まで歩く。本当にどいつもこいつもオレを不愉快な気分にさせる。
 気持ちを落ち着かせるために本でも読もうかと頁を捲るが頭に入ってこない。興味のない宗教の本でも読んでいるかのように目が滑っていく。オレは諦めて本を閉じた。まだ眠るには随分と早い時間ではあるが、ひと眠りしようと思いベッドに潜り込む。落ち着いて読書もできないとなると本当にする事がないのだ。こんな状態では勉強もできないだろう。身体を動かすにも船の上だ、周囲の迷惑にもなる。

(―――風の音が強いな。あいつはもう船室に戻ったのだろうか)

 そんな事を考えながら、目を瞑る。気を張っていたのか、心地よい揺れと共に、オレの意識はそのまま深い眠りへと落ちていった。

***

 目を開ける。懐かしい草木の香りと、切り立った山々が連なる大地。ここがデルカダールの地だとすぐに分かった。―――ホメロス、とオレを呼ぶ声が聞こえる。優しく耳障りのよい声色だ。女性の声であることはわかるが、いったい誰の声だろう。にしては随分と落ち着いているし、城のメイドの誰かか、または王妃さまか……否、どれでもない。
 と、すれば。オレを知る女性などあの人しか思い浮かばなかった。

「は、母上―――?」

 何故母上がオレの名を呼ぶのだ。呼べるはずがない。母上はとうの昔に亡くなっているのだから。しかし、相変わらず姿は見えぬというのに声だけがオレの耳に入ってくる。

「母上!どちらにいらっしゃるのか!!どうか姿を現してはくれませぬか!!」

 そう叫んでも一向に母上らしき人物は姿を現さない。声だけがずうっと響いており、声色は優しいはずなのにどこか不気味だ。とにかく、母上に会わなければという思いを抱き足を動かそうとするが、その一歩が踏み出せなかった。下を見ても特に変わった様子もない。何度か藻搔いてみるも、オレの足が動くことはなかった。ただ、そうやって藻掻いている間にも母の声は聞こえてくる。なんて夢だ。母上の夢などとっくに見なくなったというのに、ここにきて何故こんな夢を見るのか。忌々しい。

 段々と声の聞こえる位置がオレに近づいてくる。得も言われぬ恐怖に襲われ、思わず足が震えた。何者かがオレの背後に立っているような気配さえ感じる。後ろを振り返ようとするも、足だけではなく既に全身が動かない。だが、一瞬だけ身体じゅうに縛り付けられた鉛が取れたのかと思う程に今まで感じていた力から解き放たれる瞬間があった。その隙を狙って、その場から逃げようとしたその時だった。

「ホメロス」

 背筋が凍る。オレの横には誰もいないはずなのに、母の声が直接響いてくる。

「なんてこと。どうしてそんな子に育ってしまったのでしょう」

 懐かしい母上の声。だが、その声が紡ぐのは愛でも称賛でもなく、オレに対する失望だった。

「は、母上。なにを……」

 反射的にそう口にしてしまった。誰もいないはずなのに、それに答えるようにまた頭に直接母が語りかけてくる。

「国一番の騎士になるですって?どの口が言うのかしら。グレイグにも勝てないような貧弱な体で、どうやって一番になるというのでしょう」

「―――っ!」

「何を驚いているの、ホメロス。私は本当の事を言っているだけじゃない。ねぇ……かわいそうなホメロス。貴方はグレイグには追い付けない」

「やめろ!!!それ以上口を開くな!!!」

 虚空に向かって叫ぶ。刹那、ひやりとした感触がオレの腕を掴む。女とは思えない程の力で掴まれており、振りほどこうにも振りほどけない。がっしりとオレの腕を掴んだ""それ""は人間の手にしてはあまりに冷たく、掴まれた部分だけ氷海に無理やり沈めたられたように感じる。……背後に、""なにか""が忍び寄ってきた。身の毛がよだつ。吐き気がする。膝が笑う。全身から脂汗が滝のように溢れ、今にでもここから逃げ出したい気分だが、先程と同じような金縛りにあって動けない。

「―――逃げようというの?本当に悪い子ね、ホメロス」

 ぐい、と肩を押されて、その""なにか""と目が合った。
 ―――生気が全く感じられない目だ。髪は抜け落ち、皮膚はぼろぼろで青白い。記憶の中の美しく慈悲深い母上の影は見当たらなかった。いつも優しい笑みを浮かべて、オレに温かいココアを淹れてくれたあの母上とは似ても似つかないその姿。オレを膝上に乗せながら、オレの話を楽しそうに聞いては頭を撫でてくれたその手は骨ばっており、木乃伊のようだ。その手でオレの腕をしっかりと掴み、逃がさんとばかりにぎりぎりと力が入っている事が、指の食い込み方で分かる。

 これが、母上の最期の姿なのか―――?

 その考えが頭を過った瞬間、オレは腹の底から何かがせりあがってくるのを感じた。気持ちが悪い。ふら、と気が遠くなる。視界が暗転し、オレはそのままその場に倒れた。

***

「―――ろ、……ス……!」

 何者かがオレを呼んでいる。

「ホ……!どう、―――て!」

 ―――誰だ。騒がしいな。

「ホメロス!ホメロス!!」

「うっ……、く―――!」

 がばっ、と飛び起きた。
 最初に目に飛び込んできたのは、薄暗い船室に差し込む月明りだ。窓の外を見ると、穏やかな波に揺られて船がゆっくりと進んでいることがわかる。クレイモラン領は既に抜けたようで、吹雪も止んでいた。落ち着いた景色とは裏腹に、窓の映ったオレの状態はそれは酷い有様だ。顔は汗でびしょりと濡れており、自慢の髪がべたべたと張り付いている。背中もじっとりと汗ばんでおり、気持ちが悪い。全身も冷え込んでいて、布団に入っている気が全くと言っていい程しなかった。
 だが、一ヶ所だけ人肌の温かさが残る場所がある。そこに目をやると、ふるふると細かに震えてはいるものの、オレの手をしっかりと掴んで離さない""それ""が目に入った。無言でオレがそれを見つめていると、横にいつの間にか座っていたそいつが口を開く。

「ホメロス、貴方―――、とてもうなされていたのよ。ほらこんなに汗で濡れて……。大丈夫ですか……?」

「……

 眉尻を下げ、不安げな顔で彼女はオレを見ていた。何か嫌味の一つでも言ったら今にも泣きだしそうな、そんな面持ちだ。何をそこまで心配しているのか。そもそも、何故こいつがオレの部屋に居る?鍵だってしっかりかけたはずなのに。もしや、かけ忘れていたのか……?全く、らしくない。だとしてもこれは立派な不法侵入だ。訴えてやってもいいところではあるが、生憎、酷い悪夢を見たせいでそんな気にもなれなかった。
 ―――寧ろ、目が覚めて傍に居たやつがこいつでよかった、などと柄にもない事を思ってしまうくらいには、オレも相当参っているらしい。こんな悪夢らしい悪夢はとうの昔に見なくなったはずなのに、なぜここにきてこんな夢を見なければならないのか。留学を終えて気が抜けたのか、もしくはデルカダールに戻るにあたって、己の力量に不安が尽きないからなのか。いや、オレは留学中にできうる限りの努力はしている。心配することなど何一つないのだ。……グレイグの成長の事以外には。

 二人でこの国一番の騎士になる。そしてあの何者にも染まらない威厳のある漆黒の盾を王から賜るために、二人で努力するのだ、と約束した。おそろいのペンダントにもそう誓ったのだ。グレイグならば、きっと相応に成長しているのだろう。オレは果たして、あいつの隣に立てるほどの力を付けたのだろうか。そんな事ばかり考えていたのが悪かったか。あの、母上のような何かが口走った事も、自分自身でも感じえぬくらいの心の奥底で不安に思っていた事なのだろう。全く、忌々しい……とひとつ溜息をこぼす。考えても答えなどでない。少なくとも、今の時点では。

 ひとまず、この悪夢の原因は置いておくとして。

「―――おい」

「はい?」

「……はい、ではない。いつまでオレの手を握っているつもりだ?早く離せ」

「はっ!……ごめんなさいホメロス。でも、本当にずっとうなされていたから心配で……酷い悪夢でも見られたのですか?」

 相変わらずの表情で彼女はこちらを見ている。いい加減鬱陶しい奴だ。そんなに心配せずとも、もう既に目覚めているし、そもそもこいつがオレを心配する義理なんてそれこそ皆無のはずだ。わざわざ年頃の男の部屋まで来て、本当に何を考えているのか見当もつかぬ女だと心の中で悪態づく。

「別に。貴様には関係のない事だ」

「……そうですか?でも、辛くなったらいつでも仰ってくださいね。話すことで楽になる事もあるかもしれませんし」

 そう言って、やっと普段の間抜け面に戻った彼女は優しく微笑みを浮かべた。いちいち余計な……とは思えどから向けられる優しさに、悪い気は一切しない自分も本当にどうかしている。留学期間の途中からどうもこの女には振り回されてばかりだ。面白くない。言ってやりたいことも大いにあってぐるぐると頭の中をめぐっているのに、それが言葉として発せられない事も癪だ。どうしてここに居るとか、人の部屋に勝手に入るなとか、年頃の女がしていいことではないとか、喉まで出かかっているのに、どうしてもその言葉が出てこない。その理由も分かっている。だからこそ癪なのだ。

 何故、このホメロスともあろう男がこんな女の逐一の動作に感情を振り回されなければならないのか。
 彼女がここに居る理由も、わざわざ部屋に入ってきて、うなされていたオレの手を握っていた理由も聞かなくたって理解している。心配していたから、と彼女自身が言っていた通りなのだ。その言葉に、馬鹿みたいに浮かれてしまう自分がいる。本当に腹立たしい。彼女がこのオレの為に時間を割いているという事実に、こんなにも頭が回らなくなる自分が大嫌いだ。この女の事だって、いつもいつもオレを振り回す傍迷惑な奴だと感じているし、生意気な奴だとも思っているはずなのに。

「貴様に話したところで、何の解決にもならん」

 故意的に彼女の顔から目を離し、窓の外を見ながら素っ気なく言い放つ。窓に映る己の顔が、妙に赤いのは気のせいだと思う事にする。だが、どんなに酷い言いぐさで返事をしたところで彼女の答えは大抵、いつもと変わらない。

「まあ、ひどい!―――けれど、そう言い返す気概がある事はいいことですわ。ホメロスが元気になられたようで、よかった」

 そう言って、オレが見ていないと分かっているのに、微笑みを浮かべるのだ。彼女の慈悲深さは、もう嫌という程知っている。最初こそ、どうせ偽善だと信じて疑わなかったが、そうではない事ももう分かっている。誰にでもこうして接していることも理解しているのに、心の臓が早鐘を打っているのは何故なのだろう。本当に、馬鹿みたいだ。

「……あぁ、もう元気になったから、さっさと部屋へ戻れ。オレはもう寝る」

 本音を零すと、全く眠れる状態ではない。心臓がうるさいし、またあの悪夢を見るのではないかという不安が消え去ったわけでもないからだ。けれど、この状況がいつまでも続くことにも耐えられなかった。とにかく一人にしてほしいのだ。妙なことを考える前に、冷静になる時間が欲しい。その思いで言ったわけだが、彼女は存外すんなりと受け入れた。そうですね、と一言呟き洗練された動作でベッド近くの椅子から立ち上がる。月明りに照らされた彼女は、どこか愁いを帯びておりその姿でさえ美しいと思ってしまうオレは本当に頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
 コツコツとヒールを鳴らし、ドアの前まで歩いてそのまま部屋から出ていくかと思いきや、「あ……」と呟き、彼女はふと何かを思い出したように振り返りこちらに駆け寄ってきた。

「―――どうした」

「いえ、これを渡そうかと思って」

 ごそごそと何かを探したかと思えば、ゆっくりとこちらに手を差し出してきた。無言でそれを受け取る。開くと、手のひらに収まるくらいの小さな白い布袋がそこに在った。何か入っているようだが、中身は取り出せない作りになっているようだ。

「これは……」

「お守りです」

「お守り……?見たところかなり古い物のようだが」

 ぱっと見は分からなかったが、翌々見ると布の端々がほつれていたり、少しよれている事が見て取れる。貴族出身のが持っているものにしては随分と庶民的だと感じた。手作りの物なのだろうか。そんな疑問を感じ取ったのか、彼女はオレが口を開く前に率先して話し始めた。

「はい。……私のおばあ様が、作ったものだそうです」

「……それは、」

「私がユグノアへ奉公に出る前に、お母様が渡してくれたんですよ。離れていても、心は一緒だと。ずっと元気でいられるように……と。お母様も、お父様と婚約して家を出る際に全く同じ言葉でお母様のお母様……つまり、私のおばあ様からそのお守りを渡されたそうです」

「―――大事なものではないのか」

 ええ、もちろん……とオレの目を見ながらは言う。母親から娘へ受け継がれているものを何故オレに渡そうとするのか。そこまで大切なものならば、普通なら自分が肌身離さず持っておくべきだろうに。実際に今の今まで自身がお守りとして持っていたからそれはここにあるわけで、言わばオレとグレイグが所持しているペンダントと似たような意味を持つものに変わりはあるまい。そんな大切なものを易々と他人に渡すだなんて、本当に何を考えているのやら。そういったオレの考えさえ既にお見通しとでも言いたそうな顔で彼女は続ける。

「だからこそ、ですよ」

「……は?言っている意味が分からないのだが?オレは何も言っていない。何のことだ」

「何故このような物を自分に渡すのか―――と言いたそうな顔をしているわ」

「フン、だから何だというのだ。オレの心中を読もうとするな、不愉快だ」

 いわばそれは単なる八つ当たりだった。
 が人の心中に聡い女だという事もオレは知っている。それだけ人の事をしっかりと見据え、相手の事を考えられる女なのだ。彼女の深く青い、海のような瞳を見ると全てを見透かされているようでほんの少しの恐怖と苛立ちを覚えるくらいには、このオレの考えなどすぐに伝わってしまうらしい。曰く"分かりやすい"との事だが、そんな事をオレに言うのはグレイグとくらいだ。本当にこの二人の阿呆はオレの調子をいくら狂わせれば気が済むのだろう。迷惑だ、と思いながらオレもオレで傍を離れないのだから、言ってしまえばそれが答えなのだが―――気に食わない。だからこうやって、すぐに嫌味や八つ当たりで返してしまうのだ。何とも幼稚で、自分自身呆れている。

 けれど、嫌味や八つ当たりを返したところで彼女―――は大人しく言葉を紡ぐことをやめる女ではない。

「ふふ、ごめんなさい。でもねホメロス、これだけは伝えておきたいの」

「なんだ」

「……貴方は私にとって、とても大切な人よホメロス。考え深い貴方の事でしょう、きっと私には思いもよらない事を今でも考えているのでしょうね。けれど、そんなに深く考えなくていいの。―――私が、貴方の事を大切に思っている。だから渡すのです」

「―――なっ、何を言って……!」

「何を、と言われましても……。本心を述べただけですわ。それではホメロス、おやすみなさい。良い夢を」

 にこやかにそれだけ告げて、彼女は部屋から去っていく。
 ひとり部屋に取り残されたオレは、彼女から手渡されたお守りをただただじっと見つめることしか出来なかった。辺りは静かな波の音と、それに反してやたらうるさい自身の心音が不協和音を奏でている。
 もう何も考えず眠りにつこう。そう思って布団にもぐったが、案の定の言葉が反響して眠るに眠れず、そのまま朝を迎えるのだった。

ホメロスって既に自分で答えが出ている事でも、いちいち悩んでいそう。認めてしまえば楽なのに、絶対に認めようとはしないんですよね。

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