愛とはつまり、

 愛とは何だろうか。友愛、家族愛、恋愛―――ひとことで「愛」と言っても、その種類は数多く存在し、正解はない。私はこの悪夢の塔に幽閉されてからというもの、それだけを毎日、ただひたすらに考えていた。毎日といっても、それが正しい表現なのかはわからない。この悪夢の塔のバルコニーから見えるのは、どこまでも続く闇だった。だから、今が朝なのか夜なのかすらわからないのだ。私をここに閉じ込めた張本人は、最近は忙しいのかあまり顔を出さなくなった。私に与えられているのは、デスマドモアゼルという魔物の使用人と、何処から捕らえてきたのかわからない二匹のスノーベビーだけ。初めはこちらを警戒していたスノーベビーも最近は私の膝上によじ登り、ゴロゴロとのどを鳴らして甘えてくるようになった。私は無言でその子たちののどを優しくなでる。きっとこの気持ちだって愛。……あの人には、獣に愛情をかけるなど馬鹿馬鹿しいと笑われてしまうかもしれないが。

「―――夫人さま」

 不意に、扉の前に立つデスマドモアゼルが口を開いた。

「夫人さま、そろそろ司令がお戻りになられるようです」

「そう、ですか。―――ごめんなさいね、少しだけ待っていて。すぐ戻るから」

 行かないで、と言いたそうな瞳をこちらに向けるスノーベビーたちをゆっくり床に降ろし、椅子から立ち上がる。瞬間、軽いめまいが襲ってふら、とよろけるとすぐさまデスマドモアゼルがふわふわと近寄って支えてくれた。―――まだ、うまくこの体に魂が馴染んでいないのだ。"生きていた時"と同じように動こうと試みても、なかなか思い通りに動かすことができないでいる。

 そう、私はすでに事切れた身。とある魔物に殺されて、魂だけがこの世を彷徨っていた。それからはずっと、愛するあの人を見守っていたのだが魔王に私の存在を勘づかれ無理やり私の魂を別な"入れ物"に移し替えられたのだ。大樹が落ちて魔王がその強大な力を得てからというもの、あろうことか魔王は死んだ人間の魂を魔物へと変えて使役し始めた。大樹が落ち、行く当てがなくなった魂は冥府を永遠に彷徨うと言われている。魔王はそれを利用した。それと同じ原理なのだろう、結果こうして望まぬ形で私は今ここに立っている。

「大丈夫ですか、夫人さま」

「えぇ……お気になさらず。いつもの立ちくらみです、まだ慣れていないだけですわ」

「そうですか。……ではこちらへ。いつものように私の鳥かごの中にお入りください。入り口までお連れします」

 ありがとう、と一言声をかけ彼女のドレススカートの下をくぐろうとしたその時だった。ギィ……、と軋むような音を立てて、私の背丈の何倍もある大きな扉が開いた。目を凝らすと、どうやってその扉を開けたというのか、私と数十センチ程度しか変わらない人型の魔物がそこに浮いている。それが部屋の中に入ると同時に、扉は勝手に閉まり、一瞬の静寂が部屋を覆った。その静寂を先に破ったのは、入ってきた魔物―――魔軍司令ホメロス、その人だった。

「……お元気そうで、何より。夫人殿?」

「―――ホメロス」

 私をこの暗く、時が止まった場所に閉じ込めた張本人……魔軍司令ホメロス。"生前"の私の婚約者であり、この人こそが私の愛そのものだった。今ではその愛は見る影もないのだが。

「ふむ、だいぶ話せようにはなってきたな。どうだ、その入れ物にはもう慣れたか」

「……そう見えますか」

 デスマドモアゼルの手を借りて、ぶるぶる震えながら立つ私を見て彼は歪んだ笑みを見せる。あぁ、どうして、そういう意地悪なところは一切変わっていないのに、今では彼がとても遠く感じてならない。物理的な距離はそこまで遠くないというのに、心の距離は奈落の崖に阻まれているような気にさえなってくる程だ。―――そうさせたのは、紛れもなく私だろうと信じて疑わなかった。あの時、私がこの世を去った瞬間から彼は独りになってしまった。誇り高く、人に対して壁を作りがちだった彼の唯一の心の拠り所は私だったから。これは自惚れでも何でもない。彼が闇に染まった原因の一つは私にある。私のせい、私のせい……何度悔やんだって過ぎ去った時は戻らないと分かっているけれど。

「デスマドモアゼル、夫人と話がしたい。そこの魔物二匹を連れてお前は席をはずせ。私が呼ぶまで戻るなよ、いいな」

 血の通わない、紅く冷たい目をデスマドモアゼルとスノーベビーに向けながら彼は言う。彼女―――デスマドモアゼルは感情を一切見せず「かしこまりました」とだけ言い残し、スノーベビーを連れて部屋を出ていった。ズン、ととても扉が閉まる音とは思えない音を立てて扉が閉まる。それだけあの扉は重いのだろう。私では到底開けられるはずがないな、と意識を向けていると彼が不機嫌そうに口を開く。

「夫人―――いや、。我が愛よ、私がせっかく来てやったというのに全く嬉しそうではないな。あぁ嘆かわしい、私はこんなにもお前に会いたかったというのに、何故目を背ける?」

「そんな事は……。ただ考え事をしていただけで、」

 特に深い意味はない、と言いかけたところでいきなり首が締まる。苦しい―――否、違う。ただ痛みを感じるだけだ。苦しいと思うのは、"まだ人間だったころ"の記憶がそうさせている、と目の前に立ち私の首を絞めているホメロスが教えてくれた。

「ほう、口答えか。随分と生意気な態度を取るようになった……よ。苦しいか?それとも痛いか?答えてみよ」

「―――、……痛い、わ。ホメロス、はな、し……て」

「そうか」

 私が返事をすると、彼はパッと手を放す。途端に、大量の空気が肺……にあたる器官に入り込みげほ、けほっと軽く咳を込んだ。

「お前がその肉体を得てからというもの、既に数ヶ月が過ぎている。まだ慣れぬのか?相変わらず鈍くさい女だ、何も変わってはいない。そういうところが堪らなく愛おしいぞ、我が愛よ」

(本当はそんな事、一切思っていないでしょうに。―――ひどい人。)

 心の中で小さく反抗する。下手なことを言うと、また彼を不機嫌にしてしまうから。ただでさえ魔軍司令という立場上、多忙であるはずで、欲望に塗れた下等の魔物の指揮など彼が国の軍師として人を動かしていた頃よりも困難だろうと推測する。こうして私に会いに来る彼は、いつも嗅ぎ分けることができないほどの大量の血肉の臭いを纏っていて、どこか不機嫌だ。きっと下界に降りて一縷の望みと希望を胸に抱き、必死に抵抗を重ねる人間との戦いに明け暮れているのだと思う。……それか"栄養補給"と称して獣やら人間やらを喰らっているか。
 基本的に魔物はけもの系やドラゴン、鳥といった種類に分類されるもの以外は特に何を喰らうでもなく生きていける。私と彼は何に分類されるかは知らないが、別段、食を必要とする魔物に倣い血肉を喰らわんでも、人間だった時と同じものを食せばいいのに、この人はわざとそれらを喰らっているのだ。人間を捨てたのだ、と私に自覚させるために。

(……本当に意地悪の悪い人ね。そうやって、私の愛を否定するなんて。でも、そうさせてしまったのも私。)

「どうした。何か思うことがあるなら遠慮なく言ってくれたまえ」

「何でもないわホメロス。ねぇ、少しお休みになりませんか?―――好きだったでしょう、甘いレモンティーが」

 伏し目がちにそう問うてみた。また殴られるだろうか。それとも今度は背中に切り傷をつけられるのだろうか。別に魔物と化した身体なのだから、そんなことをされても痛くも痒くもない。けれども、心は違う。そうやって身体に傷をつけられる度に感じるのは、いつだって心の痛み。彼はそれさえもお見通しなのだろう、何も言わずとも「これが私がお前に返す愛だ」と言わんばかりに嬲られるのだ。傷つけることで、私を試しているのでしょう?魔物化しても、慣れない身体に鞭打ってこうして話しているのだって、私なりの彼への愛なのに、彼はそれを受け入れない―――否、"愛"と認めようとしない。そのせいで、私はずっと"愛とは何か"なんて、答えのない事を考え始めるようになったのだ。

「……レモンティーか。久しく口にしていないな。いただこう。角砂糖は、」

「四つ。……四つですわ。心配せずとも覚えています。―――それだけではありません、貴方が好きだった茶の温度、茶器の種類、付け合わせの菓子だって覚えているわホメロス」

 ぴくり、と彼の肩が揺らぐ。あぁこれ以上はいけない気がする。殴ったり切り傷をつけられるだけでは済まない。でも、きっと言葉で伝えなければいつまで経っても彼には伝わらない。そういう人だから。頭がいいのに、とても不器用で、真っ直ぐに愛を伝えるのが誰よりも下手な、私の愛。

「ねぇホメロス。貴方は信じてくれないのかもしれないけれど、私はまだ貴方を愛しているわ。愛してる。どうすれば分かってもらえるの?教えて、ホメロス」

「は、くだらん。……馬鹿馬鹿しい。興醒めした、夫人よ。もういい、わからないならばいつもと同じようにその身体に教え込むまでだ。全く、貴様はいつまでたっても馬鹿で鈍間な、私の大嫌いなのままだ」

 ぐ、と乱暴に腕を捕まれ、そのままベッドの方へ投げ飛ばされた。ダン、と大きな音を立てて無様な形で放り出されるとすかさずホメロスは私の上に馬乗りになり、以前の、私が何度も恋をした美しい琥珀色の瞳ではなく、妖しくもどこか哀し気なルビー色の瞳でこちらを見据える。
 ホメロス、ホメロス……あぁ、本当にひどい人ね。それでいて、とても可哀想な人。―――いいえ、そうさせたのは私なのでしょうホメロス。だから、どうかそれで貴方の気が済むのなら、いくらでも私に傷をつけてほしい。もういっそ、誰も愛せなくなるくらいに。

魔軍司令の話も書いてみたかった。また書きたいですね。

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