心の中で短くため息をついた。この世はとかく不公平で理不尽だ、と思う。何故この私が無能なネズミ共―――もとい上司らに頭を下げねばならないのか。その地位に胡坐をかいてあれこれと指図しながら偉そうにふんぞり返っている奴らを、いつ蹴落としていいように使ってやろうかと模索する日々に私はうんざりしていた。同僚のグレイグは別の課で業績を伸ばし、もうすぐ昇進するというし、何故こうも私が無能共の尻拭いばかりさせられ輝かしい、『昇進』という名の華の道を歩ませてもらえぬのか。あぁ苛々する。
チッ、と舌打ちしながらビルの自動ドアを通り、いつものようにエレベーターに乗ってオフィスへ向かおうとしたその時だった。向こう側から長い白髪を揺らしながらこちらに歩いてくる女を目にしたのだ。基本的にこのビルには自社の人間か取引先の営業マンなどの関係者以外は立ち入ることが許されない。数年この会社で働いているが、その女は一度も目にしたことがないに関わらず、どこか既視感を覚えた。思わず呆けてその女を見ていると、オレの視線に気づいたのかふ、と柔らかい笑みを浮かべる。
「―――どうか、なさいましたか?」
刹那、鈍器で頭を殴られたかのような衝撃が走った。
「……っ!」
思わず頭を抱える。別段、何かされたわけでもなく、その女はオレに微笑みかけただけ。にも関わらず、それがどうにも尊く懐かしいような、本来あり得ぬ出来事に思えて仕方がなかった。突如ふらり、と近くの壁に寄りかかるオレに彼女は慌てて駆け寄ってくる。その一連の様子でさえ、オレが心の底から望んでいたことのように思えてしまう。―――そうだ、そうやってお前は"いつも"オレを見つけると駆け寄ってくるのだったな、なんて初めて目にした女に向ける思いではないはずなのに。
「だ、大丈夫ですか……!?体調が優れませんか、それとも何か持病が―――」
「……いや、問題ない。気にするな」
「そうですか?」
「あぁ」
駆け寄ってきた女の顔をさり気なく覗くと、不安そうな表情でこちらを見ている。碧い瞳が海のように美しく、程よく艶のある唇はうすい桃色で全体の儚い雰囲気とのアンバランスさが余計に色気を感じさせていた。なかなかの上玉で、きっと啼かせたらこの上なく気分がいいのでは……と下卑た感想は己の心のうちに置いておくとして、何故このような女にこのオレがここまで興味を惹かれているのかを解明せねば気が済まない。女などに気を惹いている場合ではないからだ。
「……失礼を承知で伺うが、君はこの会社の者か?」
「あ、はい!数ヶ月前に異動が決まって、こちらに配属されました」
「名は?」
「、と申します」
。当然のように全く聞き覚えがなかった。ただ、その響きは異様に懐かしさを感じさせる。気持ちが悪い。たかが女にこれ程執着している自分自身に吐き気がする。無能なネズミ共がよく自社の女社員を己の欲に塗れた薄汚い視線で舐めるように見てはあれこれと値踏みをしていたが、このオレもそのレベルまで落ちたとは死んでも思いたくないのだ。かといって、ここまで惹かれている事をあの言葉で表現するにも抵抗があるし、そもそもそういう感情はもうとっくに投げ捨てている。女などはオレが少し目をかけてやればいくらでもその気にさせられるし、こちらが労力をかけてまで相手をするものではないと結論付けているのだ。あのむっつりな同僚とだって、比べられたくはない。
「……、か」
「はい。―――あの、そちらは」
「あぁ、すまない。申し遅れた……」
ホメロス、と自身の名を伝えようとしたが、それは目の前の女の言葉でかき消された。
「ホメロス」
女が名前を呼ぶ。
「―――ホメロス。そう、貴方は、ホメロスというのですね」
絶対に知る筈のない、オレの名を。ゆっくりと、一言一言を噛み締めるように。
何故、と聞かれると察したのか女―――は、オレが首から提げていた社員証を指さし微笑む。
「珍しいお名前ですね。親御さん、かの詩人のファンでしたりするのでしょうか?」
「さぁ、どうだろうか。しかし珍しいといえば、そちらも同じでは?それこそかの詩人の作品の名前をもじったような……」
そう返すと、「私の父がどうやら好きだったようで」と苦笑する。そのような他愛ない話に花を咲かせながらふと腕時計に視線を移すとそろそろ出社の時刻が迫っていた。気になることはまだまだ数え切れないほどあるが、そうも言っていられない。少しでも遅れると、あの無能共は余程オレが気に食わないのかあれやこれやと重箱の隅を楊枝でほじくるように苦言を呈すのだ。ほとほと呆れる。の方も同じように感じたのか、時計を見ながら少し焦ったような表情を見せた。
「……あの、ホメロスさん」
「あぁ、そろそろ出社の時間だな。引き止めてすまなかった。では―――」
また機会があれば、と懐に潜めていた名刺を取り出そうとしたその時だった。
「つかぬ事をお聞きしますが、私たち……以前どこかでお会いしましたでしょうか。あの、変なことを言っている自覚はあるんです。でもどうしてでしょう」
ふと彼女は顔を下げた。しん、と自分たちだけが世界に取り残されたかのように、都会特有の雑踏や喧騒が一瞬にして無に変わる。
彼女はいったい何を言い出すのだろう。今、どんな表情を浮かべているのだろう。顔を下げた彼女は一向に顔をあげず俯いたままだった。よく見るとその肩は僅かに震えており、密かにぐすり、と鼻を啜る音が耳に入る。……泣いているのか、彼女は。
途端に、どうしようもない感情が心を支配した。湧き上がる熱情に伴って、心臓が早鐘を打ち始める。彼女に触れようと手を伸ばすも、何故か手が震え思い通りに動かない。例えるならば、好きな女を前に何もできない経験皆無のガキに戻った気分だ。我ながら馬鹿馬鹿しいと思う。女など飽きるほど手を付けたがのめり込むほどのものではなかったと思っていたのに、どうやらそれもここまでのようだ。
「会いたかった」
彼女がやっと顔をあげる。
「ホメロス、ずっと会いたかったわ」
涙に濡れた顔を惜しまず晒して、微笑みながら彼女は言う。
「―――やっぱり、可笑しいですよね?でも、何故かこの気持ちを抑えられないのです。あぁ、本当に、私はどうしてしまったのでしょう……」
「おかしくなどない」
涙を拭う彼女の手を取り、オレは彼女にはっきり告げた。
「……おかしくなどない、。会いたかったと言ったな。オレもそう思う。会いたかった―――、"また"こうしてお前と会えたことが奇跡のように感じてならない」
今、自分がに向けて抱えた気持ちをひとつひとつ確かめながら口にすると、彼女の瞳がまた涙で濡れていく。手の震えはもう止まっていて、今度こそオレはここが社内であるということも忘れて彼女を自身の腕の中へ引き寄せた。
「会いたかった、我が愛よ」
あぁ、そうだ。先程まで絶対に認めるものかと思っていたが、この感情こそが―――愛なのだ。
前に、付き合ってた?
ホメロス、来世では本当に幸せになってほしい。