結局お願いは叶えないまま

 ―――お互いに少し落ち着いたら、貴方の大好きなスイーツを一緒に食べに行きたいの。……だめかしら?
そう言ってアイツはいつものように笑った。対するオレは、無愛想に「勝手にしろ」だなんて返事をしたのを昨日のことのように覚えている。あぁ、あの時もう少し素直に喜んでおけばよかっただなんて今更すぎる話だ。

私室に置いてある机に向かい、王宮のメイドが用意した紅茶を片手に先週の会議の資料やら報告書やらと睨み合いをしながら、そのような事をふと思った。はぁ、と短くため息をつく。とうの昔に置いてきた記憶だと自分では思っていたのだが、生憎こうして、紅茶の隣に置いてある、気を利かせたメイドが作ったパンケーキを見ただけで抑えていた記憶が蓋を開けて溢れてくる。
そのせいか、作業をする気力を失くし、休憩がてらパンケーキをひと口放りこんだ。ふわっとした生地に、甘いメープルシロップが染みていて口の中に優しい甘さが広がる。どこか懐かしさを感じる味だった。
より深く味わおうと思い、オレはゆっくりと目を閉じた。視覚が失われた事で味に深みが出るという科学的根拠はないが、どうも旧い知り合いの癖がうつってしまったらしい。当時はよく「そんなはずがないだろう、貴様は本当に馬鹿だな」なんて言っていた本人がこれなのだから、アイツに知られでもしたら何て反応をするのだろうか。要らぬ心配ではあるのだが。

目を閉じると同時に、あの頃の記憶がより鮮明に蘇ってくる。そういえば、あの日の夜もこのようにオレが書類作業に追われている時だった。睡眠時間を削り、書類捌きに精を出していると、控えめにドアを叩く音がしたのだ。こんな夜更けに礼儀知らずな奴だと思いつつドアを開けてやると、見知った顔がそこに立っていた。

「ホメロス、少し休憩しない?」

窓から射し込む月明かりに照らされた、絹糸のように美しい白髪を惜しみなく晒し、普段通りの優しい微笑みを浮かべた女―――。それと同時に、ふわりと紅茶のいい香りと、甘い菓子の匂いが鼻を擽る。彼女の手を見ると、湯気がたったティーカップと小さなパンケーキを乗せたトレイがあった。

「……わざわざ作ってきたのか」

「ええ。お疲れかなと思って!あ、でも迷惑だったかしら……?時間を見ずに私ったら、お菓子を作るのに夢中になってしまって」

ころころと表情を変えながら、彼女はそう言った。眉をへの字にしながらこちらを覗き込み、反応を伺っている。迷惑かと聞かれれば、作業を中断せざるを得ない為、仕事が片付かなくなる。そう考えれば迷惑だ。しかしこれが彼女なりに気を利かせた結果なのだろう。それに、確かに連日まともに休まず仕事をしていたせいか、頭が鈍っている感覚があるのも事実だった。
辺りを見回し、誰もいない事を確認する。

「速やかに入れ、誰かに見られると困るからな」

オレの言うとおり、彼女はサッと部屋に入った。それと同時に、静かに部屋のドアを閉め、念の為鍵もかけておく。

「……あら、鍵も?」

「以前、城の兵士が夜な夜な女をとっかえひっかえしては噂になった事、貴様も知っているだろう。下手に勘違いされてみろ、オレの尊厳と名誉に関わる」

「ふふ、そんなに警戒しなくとも何もしませんよ。貴方の名前に泥を塗るようなこと、すると思います?」

そう言いながら、彼女は手にしたトレイをそっとテーブルの上に置く。その仕草はかなり洗練されたもので、元々気位の高い家出なこともあり、このオレとあろう男が数秒見惚れる程度には美しかった。落ちぶれた出処であるオレは、それが少しだけ羨ましい。気品のある動作なんてものは身につけようと思えば幾らでも身につくものだが、彼女のように身体の内から溢れるそれは間違いなく生まれ持った資質そのものなのだろう。トレイをゆっくり置き、そこからカップとパンケーキを乗せた皿を置くその動作一つとっても自分には絶対に真似出来ないだろうなと思った。

彼女の動作に気を取られていると、その視線に気付いたのか「ホメロス?そんな所にいないで、お座りになって」と目前にあるソファに目を向ける。いや、ここはオレの部屋なのだが?と突っ込みを入れたくなったが、生憎そのような元気もなかった為、彼女の言うとおりソファに腰掛けた。ふわり、と体重にあわせて沈むソファはとても座り心地が良い。作業イスと比べるものではないが、連日同じところで作業していたものだから身体のあらゆる疲れがどっと押し寄せてもう二度と立ち上がるまいと思える程度の心地よさだ。足を組み、後ろに思い切りもたれ掛かると思わずこのまま寝入ってしまいそうになる。

「一体いつからお仕事されていたのです?まさか、一睡もしていないとか言いませんよね?」

「そのまさかだと言ったら?」

「……まあ!だめじゃない、しっかりお休みを取らないと戦場で怪我しますよ。もっと自分を大切にしないと」

つい先程までにこにことしていた表情がむむ、と眉を顰め険しい顔つきになる。とはいえ、迫力も何もあったものではない。彼女からすれば多少凄んだつもりなのかもしれないが、オレからすれば城下町を出た周辺を彷徨く魔物のほうが迫力があると思える。その様子が何だか愉快で、思わずふ、と声を漏らすと「笑い事ではありません!」とさらに眉を釣り上げたが面白さが増しただけで、オレにとっては逆効果だった。ああ駄目だ、もう限界だ。こみ上げる笑いを抑えきれず、柄にもなく噴き出して肩を揺らした。

「ふはっ……お前それで……っ、凄んだつもりか……!?」

「なっ、笑わせたい訳じゃ……!もう、真剣に聞いてます?」

「真剣に聞いてほしいのなら、もっと真面目な顔して話したらどうだ」

そう伝えると、今度はスンと表現を消したものだから更に笑いがこみ上げた。わざとやっているのか?と問いたくなるほどに愉快な百面相だ。
それからというもの、……ふぅ、とやっと一息つける程度に落ち着くまで軽く数分を要した。気づくと、目尻に涙まで浮かべていた事に自分自身驚く。普段、どれだけ可笑しくてもここまで大笑いする事はなかった。これだけ笑ったのは幾年ぶりだろう。ユグノア王国が魔物に襲われ滅びてからというもの、働き詰めで碌に休暇すら与えられていなかった為にこうして誰かと数分でもゆっくりする時間が取れずにいた。先程まで書類のことでいっぱいで回らなくなっていた頭も大分すっきりしたように思う。

「はーっ、はぁ……クソ……。ふざけているのかお前は」

「ふざけてません!はぁ、せっかく淹れたての紅茶を持ってきたのにすっかり冷めてしまったじゃない」

「誰のせいだ、誰の」

「ふふ、淹れなおして来ましょうか。温かいほうが落ち着くでしょう?」

「……いや、いい。このまま飲む」

そう?と目を丸くしてこちらを見る彼女を余所に、冷たくなったティーカップを持ってくい、と一口喉に入れる。冷めてしまったために芳醇な香りこそしないものの味は特に変化もなく、これはこれでアリなのではないかと思った。サマディー地方へ遠征に行く際には考えてみてもいいのかもしれない。あのような砂漠で熱い紅茶など地獄でしかないからな。
次いで、紅茶と共に彼女が作ったというパンケーキを口に入れる。こちらも若干冷めているものの、ふわりとした食感とメープルシロップの仄かな甘みが作業で疲れ果てた身体を優しく癒やしてくれた。もっと甘いほうが好みではあるが、彼女のことだ、夜分遅くにあまり糖類を取らないよう計算してのことだろう。

「……美味しい?」

「まあまあだな。―――だが、その、なんだ。一介のメイドにしては上出来だし、練習すればもっとオレ好みの味に……」

「あら、貴方にしては随分と素直に褒めてくれるのね」

「は?……あっ。いや、ち、違う。今のは……!」

「ふふ、分かってるわ。私が作るもので良かったらいつでも持ってきます。今度はもう少し甘さを調整して、貴方好みのパンケーキにしましょう。でも、私も作るだけというのは……あ、そうだ」

「どうした?」

彼女は、あの、と珍しく少し照れた様子で、手をもじもじさせながら上目遣いでこちらを伺う。早く言え、と態度で表すと早口に「……ひとつだけ、お願いがあるの」と言った。

「いいだろう、言ってみるがいい」

すると、その優しげな目を輝かせながら―――お互いに少し落ち着いたら、貴方の大好きなスイーツを一緒に食べに行きたいわ。だめかしら?といい、いつものように微笑んだ。
オレはというと、そのお願いに度肝を抜かれていた。普段控えめで、どちらかというと大人しい彼女にしては随分大胆なお願いだったからだ。別段、一般市民であれば男女でスイーツを食べに行くことくらい日常を切り取ったひとつの出来事ではあるが、オレたちは違う。オレはこの国の兵士で、軍師でもある。対して彼女は城のメイド長を任せられる程度の身。彼女ならまだしも、オレがおいそれと休暇を取ることは難しいし、何よりも城の皆より先に、オレたちがこういった関係であることを知られるのはまずい。国の軍師が城のメイドを誑かしているだなんて変な噂を立てられても困るし、恋人関係にあると事実を広められても困るのだ。ユグノアが滅ぼされたことで、国政が乱れ慌ただしくしている中で、国の軍師がそのように浮ついている訳にはいかない。だが、そう思う反面こうして彼女と一緒に居る時間が恋しくもあった。仕事に追われる中で、城中を忙しなく動き回る彼女を目で追っては「うつつを抜かすわけにはいかんな」と己を律していたのも事実だが。

「しかしだな、オレたちの関係を公にするのは……」

「―――もちろん、貴方が懸念していることもわかるわ。でもねホメロス、私、心配なのよ。魔物と戦うべく戦場に赴く貴方の背中は頼もしいけれど、いつ何があるか分かったものじゃないわ……。もし、貴方が居なくなってしまったらと考えると、私……」

そう言って、ふ、と彼女は一瞬悲しげな表情を浮かべた。しかし刹那の出来事ですぐにいつもの表情へと変わり「なんて、貴方の事ですもの。そんなことありませんよね?」と語るのだった。
オレはかける言葉もわからず、ただただ彼女を見つめることしかできなかった。我が友のように鈍感ではないが、不思議と彼女の前では回る舌も回らなくなってしまう。問いかけにどう答えていいかもわからず考えていると、オレの思っている事が伝わったのだろう、彼女の方からすぐに「困らせてしまってごめんなさい。……そろそろお暇しますね」と切り出した。何を思ったのか、自身もわからず無意識にオレはソファからすくり、と立ち上がる彼女の手を咄嗟に掴んでいた。

「どうしたの、ホメロス?」

「―――あ、いや。……わからん。何故だろうな」

「変なホメロス。……お疲れなのよ、今日はもう作業をやめて、しっかり休養をとってくださいね」

「あぁ。引き止めてすまない。……それと、お願いの件だが―――勝手にするがいい。単に甘味を食べに行くくらいならある程度誤魔化しも聞くだろう。オレも休暇がほしいのは事実だし、まあ、一緒に……居たくないわけでもないからな」

そうオレが言うと、照れたのかほんのりその白い頬をさくら色に染めて「ええ、楽しみにしていますね」と言い部屋を出て行った。この程度のやり取りでああも嬉しそうな顔をする彼女をみて、そこまで己を律しなくとも、もう少し時間を取っても罰は当たらないだろうと感じた。それに、彼女の言うとおり、いつ何があるかわからないのだ。そう思いながら再度ソファに沈み込み、手元にあるパンケーキをもう一口―――。



「……ッ!―――あぁ、寝落ちていたか。フン、それにしても、随分とまあくだらん夢を見たな」

よほど疲れていたのか、目を閉じたのと同時に軽く寝入ってしまっていたようだ。随分とくだらなく、そして懐かしい夢を見た。

―――彼女が亡くなってから、軽く十年は経っただろうか。幼い頃からの知り合いで、オレは彼女のグズでのろまな所が気に食わずよく揶揄ってはグレイグに止められたものだ。当の本人は気にすることもなく、更にそれが癪に障ったが、気持ちとは裏腹に彼女から目を離す事はできなかった。今思えば、嫌よ嫌よもなんとやら、みたいなものだったのかと我ながら青臭いと感じる。

結局、あの後も忙しない日々が続いて碌に休暇など取れず彼女の「お願い」も叶えないままに、彼女は空へ旅立ってしまった。「貴方が居なくなってしまったら」と心配していた本人が、オレより先に亡くなってどうする?愚かだとは思うが、彼女が亡くなってから初めてオレは、彼女の存在が己の支えになっていたことを自覚した。もう少し大切にしてやれれば、もう少し一緒に居てあげていれば、もう少し、もう少し。

「―――オレが、奴のように強ければ、お前は死ななかったのかもしれんな」

呟いた自身の言葉が、もう後戻りできない程に歪んだ己の心に、更に影を落とすかのように、ずしりと沈んでいった。

ホメロスを幸せにしたいのにこういう話が描きたくなるバグ。

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