序章

形容しがたい気分だ。夢のようで、夢ではないような、はっきりしない意識のまま私はこの場に立っている。ここはどこだろう。戸惑いつつ辺りを見回した。すると、突然誰もいなかったはずの背後から「ちゃん」と己の名を呼ぶ声が聞こえたのだ。誰、と言いつつ振り返るが、もちろんそこには人影などありはしない。――おかしい、と感じた瞬間例えようもない恐怖感が襲う。あ、これダメなやつだ。そう思ったところで後の祭りだった。名前を呼ばれて振り返った瞬間から"私は狙われていた"のだ。
 私は、随分小さな頃から"そういうもの"が視える体質だった。父方のお祖父ちゃんは神主さんだから、きっとそのせいもあるのだろう。よくお父さんからは「知らない人に声をかけられても絶対に答えちゃいけないよ」と教えられていたのに、迂闊なことしちゃったな、なんて危機感のない事を考えながら声のした方からゆっくり遠ざかる。けれども今度は、最初声のした方と反対の方――つまりは今向かっている方から名前を呼ばれた。

(あ~、ほんと嫌だなこれ。早く解けて、早く早く早く――!)

 そう願ったところで、今この場にいるのは私一人なのだから、誰も来るはずがない。子供ながらにそう悟った私は、その場にうずくまることしか出来なくて――。子供?否、私はもうそんな歳じゃない。何故子供、なんて思ったのだろう。あぁこれはやっぱり夢だ。
 だんだんはっきりしてきた頭を必死に動かしながら状況を整理した。そうだ、これは私が今よりもずっとずっと小さかった、あの頃の記憶だ。この薄暗い場所は、今ではもう一つの実家のように入り浸っているあの場所。小さかったから、この時は知らない場所はどこも怖くて、何をするにもお母さんについて回ったものだけど、丁度はぐれてしまったんだっけ。それで……、そうやってうずくまってすすり泣く私に手を差し伸べてきたのは、今よりももっと頑固で、偉そうに説教ばかり垂れる生意気な――。
 
 出会いは、そんな感じだった。小さかった私は、そうやって助けてくれた男の子を"絵本に出てくる王子さまみたいだ"って思ったんだ。

***

~!いつまで寝てるの!?いい加減起きなさい!」

 下の階からお母さんが大声で叫んでいる。うるさいなあ、もう少し寝かせてよ……と思いつつ寝ぼけまなこで手元にあったスマートフォンの電源を押す。瞬間、ぱっ、と光が目に飛び込んできて一瞬くらりとした後に表示されている時刻を見て一気に目が覚めた。

「……え!?ちょっ、もうこんな時間じゃん!!お母さんなんで起こしてくれなかったの!?」

 何回も起こしたでしょ!とお母さんが答える。ベッドから急いで飛び起き、パジャマを投げ捨ててすぐさまクローゼットの中にある、新しい制服の袖に腕を通す。一度も着たことのないそれはまだ身体に馴染んでいなくて、少し着心地に違和感を感じた。制服に着替えた後、昨晩珍しく用意していた学生カバンを持って洗面台に直行する。きっちり整える時間は残っていないので、寝ぐせをある程度直して化粧水をぱぱっと手早くつけた。歯を磨き終えたら、リビングに向かい、食器を洗っているお母さんに一言声をかける。

「お母さん、お弁当持ってくね!!」

「はいはい、気を付けていってらっしゃい。あ、そういえば――」

 お母さんが何か言いかけたがそれをゆっくり聞く時間もなく「行ってきます!」と元気よく玄関のドアを開けた。途端、桜の香りと暖かな春の香りが鼻を擽る。今日という日にはとても似つかわしい天気だ。春特有の、優しい日差しに包まれて背伸びをした。すると、突然、塀の近くから盛大なため息と共に人影が現れる。

「……おい貴様、十五分も遅刻するとは何事か!早くしないと俺まで遅刻するだろうが!!」

「も~、だったら先に行けば良かったじゃん!」

「そういう問題ではない!全く、入学式から遅刻など笑えんから走るぞ」

 声の主は、私とは少し違ったデザインの制服に身を包んだ、男の子。緑色の短い髪を春風が揺らす。眉はきりっと吊り上がり、端麗な顔立ちを際立たせている。オリーブ色の瞳は、怒りを携えながら眼鏡のレンズ越しに私を見据えていた。

「どうでもいいけど、敬人みたいな真面目くんが全力で走ってたらなんか面白いね」

「言っている場合か?誰のせいだと思っているんだ!」

 軽口を言い合いながら、私たちはこれから三年間お世話になる夢ノ咲学院がある方向へ駆けていく。見慣れた景色、見慣れた店、すれ違う人もどことなく以前も見た気がするような人ばかりなのに、自分たちが着ている制服だけが見慣れないものだ。これから新しい学び舎へと羽ばたいていくのだと期待に胸を膨らませながら、アスファルトを蹴る。横を見ると、随分焦った顔をしつつもどこか晴れ晴れとした表情の敬人がこちらの速度に合わせながら必死に走っていた。見た目によらず運動神経も結構いいんだよなあ、なんて思いながら私も同じように走って、想定していた時間よりも少しだけ早く夢ノ咲学院の校門をくぐった。

「はっ、はぁっ……ま、間に合った~!」

「くっ、けほっ……」

「敬人はアイドル科でしょ?普通科とアイドル科じゃ色々別になるって話らしいし、とりあえずここでお別れだね」

「あ、あぁ……。全く、貴様と居ると本当に碌な目に合わん」

 そう言いながら、乱れた息を整え敬人はこの普通科校舎より奥にある校舎に向かって行った。敬人が向かったほうをよく見ると、高い塀で囲まれており、入口と思われる場所にも警備員が数人立っていてかなり仰々しい。それもそのはず、あの塀の向こう側には、テレビで活躍しているアイドルやその卵たちが在籍しているからだ。実際に目にするとその物々しさには少々驚くところはあるが、そうでもしなければ普通科に入った生徒たちがあちらの校舎に押し掛けて大変な騒ぎになってしまうことが目に見える。適切な措置だろう。そんな事を考えていると敬人はもう校舎に入っていったようで、見えなくなっていた。時間もそろそろ迫ってきていたため、私は急ぎ足で普通科の校舎に入り、割り当てられたクラス表を見ながら目的地に向かう。

「1-A、か。確か敬人もアイドル科の1-Aって言ってたっけ……」

 該当するクラスのドアを開けると、始業のチャイムも間近だったせいか殆どの生徒は席についていた。数人と目が合い、気まずさと緊張を覚えながら荷物を下して席に着く。それからは、以前に配布された入学式のパンフレット通りに進んでいった。担任の先生が入ってきて、軽く自己紹介した後は大ホールに集まって長々としたお偉いさんの話を聞く。それが終わったらクラスに戻って、配布物を受け取れば今日の予定は八割方終わったも同然だ。自分の席に戻り、ぼうっと外を眺めていると、近くに座っていた女の子から声をかけられた。

ちゃん、だっけ?」

「あ、私?うん。そうだけど」

「連絡先交換しない?今女の子の連絡先集めてるんだ。これから一年間よろしくね」

 スマートフォンのバーコードスキャンを掲示しながら女の子は言う。そのまま私は連絡先のバーコードをそれにかざして指示通りに登録を済ませた。ありがとう、と一言残して女の子はすぐにその場を去る。次に見た瞬間にはもう別な子に話しかけていて、積極的な子だという印象を受けた。あの頭の堅い幼馴染とは大違いだ。そういえば、敬人は今何をしているのだろう。アイドル科のプログラムはこちらよりもうんと長かったように記憶している。元々この夢ノ咲学院がアイドル育成に力を入れている学校であるから、生徒に対して伝えることもたくさんあるのだろう。まさかあの敬人がアイドルを目指すだなんて思ってもみなかったし、てっきり漫画家にでもなるのかと私は思っていた。けれども敬人は私の予想を裏切ってこの夢ノ咲学院への入学を決めていて、私もそれを追いかけた形で、今この場に立っている。私が夢ノ咲学院を選んだ理由は、特にない。アイドルになろうと思っていた訳でもないし、その他にある演劇科や声楽科、音楽科にも全く興味がなかった。ただ仲のいい幼馴染二人がここを選んだからついてきただけに過ぎない。中学時代、そこまで熱心にやっていた訳でもないが陸上部の顧問からは「才能があるからそっちの道に行った方がいい」と何度も言われたけれど、それを押し切って私はここを選んだ。

 今思えば、誰よりも大事な幼馴染たちから"置いていかれたくなかった"だけなのかもしれない。元々、彼らとは性別も違うから、置いていかれるも何もないのだけれど、それでも私は彼らの傍に居たかった。彼らと同じになる事はできないから、せめてそれだけは許してほしいと願ったのだ。

(我ながら子供っぽいなぁ……。まぁいいか)

 再度、窓の外を見た。窓際の席から見える桜の木が、春風に揺られてその花弁を空で踊らせていく。
 これから先、どうなるかなんて分からないけれど、どうかあの幼馴染たちの歩む先が綺麗で輝かしいものでありますように。散る桜に思いを乗せて、私は席を立った。それと同時に、スマートフォンのバイブ音が鳴る。新着メッセージには「校門にて待つ」と用件のみの短い文章があった。こんなメッセージを私に送ってくるやつは一人しかいない。ガヤガヤと未だ騒がしいクラスをそっと退室して、さっさと下駄箱に向かった。時間に遅れるとまたうるさく言われるだろうと思い、手早くローファーを履くとそのまま校門に向けて走る。数分もしないうちに、校門手前で偉そうに腕を組みながら立っている敬人と、もう一人……太陽に照らされている金色の髪が美しい彼、英智が立っていた。

「あれ、英智!身体は大丈夫なの?」

「うん。でもさすがに歩いては帰れないから、迎えを待っているんだよ。一人で大丈夫って言ったんだけど、こいつがうるさくてね」

「この辺でぶっ倒れられても困るだろう」

「まだ英智くんゲージが残っているし大丈夫だよ。相変わらず心配性だよね敬人は」

 も何か言ってやって、と英智が話を振る。「敬人の性分なんて分かり切ったことでしょ」と返すとまた二人であれやこれやと言い合いを始めた。飽きないなこの二人、と思いながら英智の方に目をやる。英智とは敬人の紹介で知り合った。敬人の家に遊びに行ったとき、丁度敬人が「今から親友の家に行くんだが、どうだ」と誘われついていくと大きなお屋敷に連れていかれたものだから、当時はとても驚いたことを今でも覚えている。かの天祥院財閥の息子なのだから当たり前ではあるが、当時はそんな事を知る由もなかった。後に両親から話を聞いても「そうなんだ」程度にしか思わなかったものの、今考えると私のような平々凡々な家庭出身が財閥の息子と幼馴染になれるなんて奇跡に近い。人との出会いはそもそもが奇跡のようなものではあるが。

「――?どうしたんだい、ぼうっとして」

 呆けていると、英智に声をかけられた。

「ん?あぁ、何でもないよ。ちょっとね。今朝懐かしい夢を見たから、ちょっとね」

「ふぅん、どんな?」

「ん~、ほら、話したことなかったっけ?私が敬人と出会った日の事」

「あぁ、が敬人の寺で迷子になってたら敬人に出会い頭お説教されたって話だね」

 そうそれ、と相槌を打つ。今でもそうだけど、あの頃の敬人はかなりのクソガキだったよねと英智に笑いかけると当の本人が横から割り込んでくる。「何だと貴様ら」とうっすらこめかみに青筋を立てる敬人を見て更に英智が余計な一言を呟くと栓が外れたかのように説教の波が英智に向けられた。英智は軽くはいはい、と聞き流しながら私の方を振り返りまた始まった、とでも言いたそうな顔をする。
 そんな茶番を繰り広げていると、遠くから漆黒のリムジンがやってくるのが見えた。さすが財閥の息子、送迎がリムジンとは次元が違う。

「どうやら迎えが来たようだ。二人ともありがとう。……この後病院に行かなきゃいけないから、今日はここで失礼するよ。じゃあね敬人、

 そう言って英智は黒いスーツを身に纏った使用人と共にリムジンに乗り、颯爽と立ち去っていった。特に学院でやることもなくなった私たちは、ここに居ても仕方がないと考え二人でそのまま帰路に着く。示し合せしたわけでもないが、同時に足を踏み出して歩き始めたものだからそれが何だかおかしくて噴き出した。

「ちょっと~!真似しないでよ!!ふふっ」

「真似などしていない!自意識過剰も大概にしろ」

 くすくす笑う私とは対照的にむすっとしながら敬人は言う。怒っているのではなく、照れているだけなのだが、これは敬人の事を全く知らない人から見るとそうは見えないのだろうなと思う。敬人は誰よりも優しくて、情に厚い人だ。けれども普段の言葉遣いやその取っつきにくい態度のおかげで昔から特定の友人が出来ないのだとふと零していたのを思い出す。こんなに優しい人は中々存在しないと思うけれど、それは付き合ってみないと分からない話で。だから、高校ではかけがえのない友人や仲間をたくさんつくってほしいと思わざるをえない。それがお節介だと言われても、私はこの幼馴染の数少ない友人として、彼の幸せを願わずにはいられないのだ。英智だってそうだ。生まれた時からハンデを背負っている彼も、どうかこの高校生活を彼が望んだとおりに過ごしてほしいと思っている。それを傍らで見守ることが私の幸せなのだから。

「ねえ敬人」

 照れてそっぽを向く彼に私は声をかける。

「……なんだ」

「高校生活、楽しめるといいね。私はずっと敬人と英智の味方だから、何か辛いことがあったらいつでも言ってよ。出来ることは少ないけれど、私はいつまでも敬人と英智に笑っていてほしい。アイドルになる過程でしんどいことがあったとしても、アンタの日常はいつでも私が守ってるから」

 私がそう言って微笑むと同時に、桜の香りを乗せた春風が私たちを優しく包んで、未来への一歩を後押しするかのように空へ舞っていった。

入学初日に走らせてしまってごめんね、という気持ちはあります。

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