追憶 十字路

ひゅう、と肌を撫でる風はどこか冷たく、夜の訪れを知らせる。季節はもう春だというのに、夜風は未だに冬を思わせるほどで、心まで冷やしてしまいそうだ。周囲を照らすはずの月は雲に隠され、辺りは暗闇に包まれている。だというのに、あの人の周りだけは何故か薄ら明るくて、それが、彼の事をいつも以上に人間ではない何者かであるように感じることを助長していた。
 ――朔間零。彼の言葉通りに生きていれば、不思議と何もかも上手くいってしまうような気さえしてくるような、まるで神様のような少年。その少年は、私が口を開く前から私が今から話す言葉が何なのかわかっているようで、それが途轍もなく不気味だった。この人は本当に人間なのだろうか……と失礼ながらも思ってしまうくらいに。

「……朔間、さん」

「どうした、お嬢。らしくねぇな……お前元気と明るさが取り柄なのに、今じゃ見る影もないぞ?」

 理由も全部わかってるくせに、なんて悪態をついたところで何も始まらない。明日行われるライブで起こるであろう惨劇を食い止めるチャンスは今しかないのだから。たとえそれが、この人に全てを委ねる事になってしまうとわかっていても。

「朔間さん、お願いします……。どうか、どうか敬人を……」

「助けて、とお願いされても無理なもんは無理だ、諦めてくれ」

「で、でもっ!それでも……だってこの一週間、敬人はすごく頑張ってたのに、それなのに朔間さんは敬人を見捨てるんですか!?そんなの、」

「あんまりだ~って言うつもりか?あのなぁお嬢。俺だってもう嫌なんだ、わかってんだろ。お前は坊主が言うほど馬鹿じゃねぇしな。俺に、これ以上何を背負えと言うんだよ。ウンザリだ、そういうの」

 ハァ、と夜闇に溶ける魔物がため息をつく。それと同時に木々もざわざわと騒ぎ始める。嗚呼、なんて気味が悪いのだろう。寺の階段に座る彼とふと目が合った。人々を魅了するルビーの瞳は、私の心の中まで見据えているようで、思わず目をそらす。そのせいで、目をそらした私を彼がどんな表情で見ていたのか気づくことが出来なかった。

 辺りは相変わらず闇に飲まれていて、その先にあるはずの光をどうしても認知することができない――否、光は未だ朔間さんが独り占めしている。その光を、敬人は喉から手が出るほどに欲しがっているのは明白だ。自分と、唯一無二の幼馴染の夢のために。昔から三人一緒に育ってきた私の大事な幼馴染。彼ら……敬人と英智は良きアイドルになる、という共通の夢を持ってこの夢ノ咲学院に入学した。私は違う、彼らと同じ夢を持つことができなかった。それ自体に後悔はしていないし、私には私の考えがあって、人生がある。後悔しているのは、もっと別の事だ。
 だから、もう二度と後悔しないように、二人のために何かできることは全部やっておきたい。たとえ私が泥に汚れようとも、彼らがずうっと輝いていられるならそれでいい。

「……それは、朔間さんには悪いと思っています。きっと敬人も、同じ気持ちだと思う。でも朔間さんが一言命じれば今の夢ノ咲学院は変われるはずで」

「じゃあ俺様ちゃんが卒業したらその後はどうするんだ?もし″明日みたいに″俺様ちゃんが裏切ったら?……俺にだって人生があるんだぜお嬢。何言われても考えを改めるつもりはねぇよ。明日、俺と坊主の道は違える。もう二度と、交わることはない」

 しかし、朔間さんの言葉を聞いて、あぁもうダメなのだ、と直感した。この人は何を言っても、己の考えを改めるつもりがないのだろう。そうだ、だって私が言っていることは簡潔に言えば「朔間さんが犠牲になってくれ」と言っているようなものなのだから。頭ではわかっている。この場で朔間さんの力を借りて学院を更生させるのは簡単だが、その後はそうとも限らないことを。ではどうすればいい?
 私はアイドルではないから、所謂芸能界のあれこれを理解することは難しく、手を差し伸べたくても恐らくあの心優しい幼馴染はそれを容易く取ろうとはしないのだ。今の私にできることはなんだ?いくら考えてもその答えを導き出すことは出来なかった。ただ目の前に儚げに立っている、一番幼馴染を助けられるであろう存在を説得することだけが、私ができうる最大限の事だったのに。そう思うと、自分がちっぽけな存在に思えて、不意に胸を締め付けられるような息苦しさを覚えた。苦しくて辛くて、眼から熱い液体が零れ落ちていく。それを止める術を、私は知らない。
 
「おいおい、そんな顔すんなって。坊主の説教長ぇから嫌なんだよ。」

「す、すいませっ……」

「ハァ……。めんどくせぇなお前、わかったよ。じゃあ一つだけ俺様ちゃんが道を示してやる。女を泣かせたとなりゃあ償いはしないといけないしな。――、お前が坊主の支えになってやれよ。あいつの事は、俺様ちゃんなんかよりもお前らが一番よく知ってんだろ」

「それ、は……どういう、」

 私が支えになれ、と……?アイドルのことすらしっかり理解していない私が、果たして何の支えになれると言うのだろう。それに、私なんかよりも、居るだけで敬人の支えになれるのは他の誰でもない、朔間さんなのではないのか。私では敬人の考えていることもふんわりとでしか理解できないし、英智の考えていることはもっと理解できないのだ。大切な幼馴染が今必要としているのは確実に私ではないのに。
 そんな私の気持ちなど露しらず――否、本当はそれさえお見通しなのかもしれないが、朔間さんはすくりと立ち上がって階段を降り、私とは反対の方を向いて歩き始めた。

「意味くらいは自分で考えろ、そこまで俺様ちゃんは優しくない。……じゃあな」

「朔間さんっ!?あ、待って……!」

 すう、と街灯のない闇に溶けゆくように、あっという間に彼の姿は見えなくなっていた。目を凝らしてもそこにはただ闇が広がっているだけだった。
 
 ――あぁ、結局何もできなかったなあ。やっぱり、あの二人のために私が出来ることなんてたかが知れているのかもしれない。朔間さんはああ言っていたけれどその意味さえも理解できない私が一体何の役に立つ?
 寒空の下、冷たい風に吹かれ身体は完全に冷え切っていた。それだけではなく、心も大事なものが抜け落ちたかのようにがらんとしている。そんな状態の自分では何の役にも立ちはしないだろう。惨めで情けなくて、行き場のない怒りと自己嫌悪でどうにかなってしまうそうだった。
 
 呼吸さえ億劫になり、帰ろうとしたその時ピロリン、と何とも腑抜けた音があたりに響く。薄暗い状況を打ち砕いたのは、持っていたスマホの通知音だった。何事だ、とスマホを取り出して確認すると、画面には大事な幼馴染の名前と「今いる場所を教えろ」という、いつものように上から目線なメッセージが表示されていた。それが今の私にとってはなんだかとても胸に響くもので、先ほどまで抱えていた気持ちが少し晴れた気がした。
 「ちょうど、敬人の家の階段のところにいたよ」と返したところ、数分もたたずに長い長い階段の上の方から聞きなれた怒声が辺りに響く。

「おい、何をしている!」

「何、って……別になんでもいいでしょお~!」

「風邪を引きたいのか!全く度し難い……」

 説教を垂れながら、コツコツと小気味良い音をたてて彼が降りてくる。ぼうっとそれを眺めていると、突然動きを止め驚いた顔で彼がこちらを見ていた。視線がぶつかり、ふとさっきまで朔間さんとの対談で涙を流していたのを思い出す。心配性の彼の事だ、普段涙を見せない私のみっともない顔を見て戸惑っているのだろう。
 彼の目に、今の私はどう映っているのだろうか。あぁもう本当に、今日は厄日だなぁ……。そんな顔をさせたくなかったから朔間さんと話したというのに、全く本当に私ときたら。

「……貴様、泣いて」

「……るとでも思ったぁ~!?あっはは、ごめんごめん、驚かせたでしょ?違うんだよ、さっきさぁ、」

「おい」

「今日部活あったから疲れてたのかな~?ぼ~っと歩いてたらほんとね、ついさっき階段手前で盛大にね」



「ころんじゃってさぁ!いやぁ~バッカみたいじゃん!?ふふ、久々に転んだもんで思わず涙が」

!」

「……、……分かってるからさぁ。そんな顔しないでって、大丈夫だよ私は」

 少なくとも明日のアンタよりは――、と心の中でぼそりと呟く。
 下手な嘘で情けない状態を取り繕うと思ったものの、やはり無理が過ぎたようで敬人の顔は先程よりも沈んでしまっていた。そんな顔しないでよ、お願いだから笑ってて、と思うも今の私ではその顔を笑顔にさせられる術も持ち合わせていないのだ。
 冷えるぞ、とだけ声をかけた彼はこれ以上何も発さなかった。そんな彼の頭上ではやっと雲の間から顔を出した月と、無数の星たちが眩しく輝いておりまるで明日が何かの始まりだと言わんばかりのようで胸がざわめく。
 明日、確実に敬人は何日もかけて練った作戦を、口では厳しいことを言いつつも信じていた朔間さん自身によって、こっぴどい手のひら返しを食らうことだろう。敬人の悲しむ顔は見たくないけれど、どうしてもそのことだけは言い出せなかった。

「あのさ、敬人」

「……ん?どうした、

「あ~……えっと、明日の……デッドマンズライブだっけ?応援しにいってもいいかな。ダメって言われても行くけど」

 ならば聞くな、と呆れた顔で、しかしどこか希望に満ちた彼の顔をみて更に苦しくなったが、今はもうそれ以上の言葉をかけることはできない。嗚呼、見ていますか神よ。御仏よ。私たち人間はこんなにも小さく弱いのだ。どうか、どうか明日、少しでも心優しい彼の背負う荷物が軽くなりますようにと、ただ心の中でひたすら祈る。

 顔を出したお月様は、また闇の中へ姿を消した。

全三編くらいになりそうです。

Back