月が見ていた

たまには遠回りしてみるか、と思った。いい気に寝息をたてている幼馴染を背負いながら、俺はゆっくりと歩みを進める。
朧げな月が照らす中、いつもの帰り道である商店街を逸れて見通しの良い河原の方へ足を運ぶ。まだ明るいものの、時刻はとうに夜9時をまわっており、周囲に人影はなかった。周りを満たしているのは、静かな風の音と、心地の良い水流の音と、背負った幼馴染の寝息だけで。

「――久々だな、こんなに落ち着いた時間を過ごすのは」

気づくと、そうやって口に出していた。振り返ってみると、確かに今年、というより入学してからずうっと休む暇もなく動き回っていたように思う。"より良いアイドルになる為に"ともう一人の幼馴染である英智と共に、かけがえのない仲間である紅月のメンバーと共に、夢ノ咲学院のアイドルたちと共に、ライバル校のアイドルたちと共に、互いに切磋琢磨し合って駆け抜けた高校三年間は、あっという間に過ぎていった。一言では語り尽くせぬほど、濃い三年間だったのではないだろうか。
 二年生のころの話だ。英智と俺は、腐敗した夢ノ咲学院を変えるためなら何でもやった。時に犠牲者を生み出しつつ、恨まれるようなことも数え切れないほど行ってきた。英智は己の寿命を削りながらもそれを成し遂げ、無理がたたったのだろう、同時に入院する事になってしまった。結果的に俺たちの革命は成功したと言えよう。だが、その後の夢ノ咲は別な意味で腐りかけていく。それらすべてをぶち壊し、新たな夢ノ咲へと変えていったのがTricksterである。

「全く、当時は生徒会に楯突く馬鹿どもだと思っていたが……まぁ結果的に良い方向へと導いてくれたのだから、感謝せねばならんな」

 未だに眠っている幼馴染を起こさぬように、傍に佇んでいたベンチにそっと降ろす。そのまま重力に倣ってくたりと力なく崩れるのを支えながら自身も隣りに腰を下ろした。
 ふぅ、と軽くため息をつきつつそうっと彼女の髪を撫でる。きちんと手入れされた栗色の柔らかい髪は、月明かりに照らされ普段よりも遥かに美しい。透き通るような肌はほんのり桃色に色づいており、少なからず己の劣情をそそられるものだった。全く、いくら幼馴染とはいえあまりにも無防備すぎやしないかと、何度思ったことか。それを知らず、色っぽい唇はすぅすぅと呑気に寝息を吐き出している。接吻のひとつでもしてやろうかと思ったが、己の立場上、誰かに見られても困るので気持ちだけに留める。

 ……思えば、彼女にも随分助けられてきた。
 抗争時代はもちろん、俺と朔間さんが道を別つきっかけとなったデッドマンズライブの時も、久しく舐めていなかった苦汁を再び味わうこととなった"S1"の時も、英智と俺が喧嘩をした喧嘩祭の時も――。彼女はどんな時でも傍を離れず、向日葵のような笑顔で俺の手を握るのだった。「敬人なら大丈夫、敬人の言うことは間違っていないから」という言葉を、一体何度聞いたことだろう。何の根拠もないくせに、俺が落ち込んでいると必ず彼女はそう言い放つのだ。自分の余裕がない時はキツい言葉で返すこともあった。それでも彼女はただただ笑って「大丈夫」と返すのだ。それに、俺はどれほど救われてきただろう。普段はどうしようもなく馬鹿で、お転婆で、俺の胃を痛めつける原因のひとつでもある彼女だが、俺が辛く苦しい時は持ち前の明るさで元気づけてくれるのだ。

「――なんて、口が裂けても言えんがな。貴様のことだから、きっと飽きるまでネタにするのだろう。全く、度し難い」

「……、…………」

「楽しかったぞ、夢ノ咲で貴様と過ごした三年間も。多忙な時に俺の仕事を増やしまくるのだけは勘弁だったがな。まあそれもいい思い出の一つと思うことにしてやる。感謝しろ」

「――、……」

「それに――、まさか貴様とこのような関係になるとは当時は思っていなかった。それは貴様も同じだと思うが」

 そう、俺と彼女は単なる幼馴染ではなくなってしまった。立派な"恋人同士"として今は関係をつないでいる。そうなるキッカケは、きっと些細な出来事だったように思う。何より、お互いにとって一番近くにいた異性がお互いであるから、否が応でも男女の差や違いを目の当たりにする機会が存在した。それこそ、幼い頃はそういったものを自覚せずに遊んでいたのだから、成長してそれを目の前にしたときはかなり戸惑ったことを覚えている。元より、俺はこういった性格であるし、彼女はあまり男女差を意識しない行動をとるのだから頭を抱えた。何度「俺は男だぞ」と伝えたことだろう。それでもピンときた素振りもせず「いいじゃん別に、敬人だし」という、よくわからない返し方をされ続けた。

 ――話を戻す。
 それで、こうなるに至ったキッカケだが、恐らく今までの関係に綻びが出始めたのは喧嘩祭のころだったか。英智と俺がお互い対等な友人として関係を見直すための、英智が俺に吹っ掛けてきた"喧嘩"だ。当時、その時期は何故か彼女の姿が見えず、後から問いただしたところ、「君に余計な事を吹き込まれても困るから」と英智が自分の家に軟禁……否、匿っていたそうだ。彼女の両親もそれについては存じていたらしく、元より英智と彼女も古くからの付き合いのため大して問題にはならなかったという。それでいいのか、と突っ込みたくなる部分もあったが、そうして英智の家で彼女も考えさせられることもあったそうで、喧嘩祭を境に彼女との距離もほんの少しだけ変わった……ように思えた。
 大きく変わったのは太神楽、ニューイヤーライブ後だった。確実に彼女の様子がおかしかったのをよく覚えているし、ほんの数ヵ月前の出来事である為、記憶に新しい。ライブが終わった後から急によそよそしくなり、あれだけ頻繁に顔を出していた生徒会室にも殆ど顔を出さなくなったのだ。お陰様で、同じ生徒会執行部である衣更や伏見に、変に気を遣われたり、英智は面白がって詮索しようとあの手この手で俺にちょっかいをかけまくっていた。実際、俺もかなり動揺しており、仕事に身が入らなかったこともある。
 しかし、彼女との距離が大きく開いた事で、俺にとっての彼女の存在がいかに大きかったかを認識させられた出来事でもあった。以降、歌劇やショコラフェス、返礼祭を経て、見事こういった関係に落ち着くことができたわけだが、それはまた別の機会に話すとして。

 変わらず、月が照らす景色を見つめる。月光の元、川は繊細な絹のようにゆらりと流れ、海へと旅立っていく。それらをただぼんやりと眺めながらふと隣を見る。愛らしい寝顔を惜しげもなく晒し、こちらに頭をあずけて眠る彼女。何をやらかすかわからず、いつも自分の頭を悩ませた彼女。英智と俺を、一番近くで見守り続けてくれた彼女。俺が落ち込んでいる時は決まって向日葵のような笑顔を絶やさずそばにいてくれた彼女。――和泉、俺の、もう一人の大切な幼馴染で、何者にも代えがたい愛しい恋人。

「――、……こんなに、好きになる筈ではなかったんだがな」

 気が緩み、我ながららしくもない台詞を吐いたことに若干の羞恥を覚えたが、当人は寝ていることだし、と思った瞬間の出来事であった。

 むに、と己の頬を軽くつままれ、くいくいと引っ張られる。

「……あのさぁ、そういう事は起きてるときに言ってよね。そういう言葉、私には必要ないって思ってる?」

「き、きはま、もひやおふぃて……」

「なんて言ってるのか全然わからないんだけど!?」

 それは貴様が俺の頬を引っ張っているからだろうが。
 ほんの少しだけ赤く染めた頬を膨らませた彼女が、ふい、とそっぽを向く。彼女のこういった姿を、恋人として付き合う以前は見ることがなかったのだが最近ではよく見せるようになった。お互いに短い付き合いではないが、こうして新たな一面を未だに見ることができるのだから不思議だ。やはり関係性が変わることで見えてくるのもあるということだろう、と人付き合いの奥深さを感じる。

「おい、拗ねるな。子供じゃあるまいし……」

「拗ねてません~」

「それならば何故あらぬ方向を向いているんだ貴様は」

「べっつに~~、普段は何も言ってくれないくせに聞いてないところじゃあれこれ好き勝手言ってる誰かさんには関係なくない?」

 ……と、彼女は頑なにこちらを見ず割とまくしたてるように言い放った。肩に手を置いて、ぐいっと引こうとするもぱしんと手を払いのけられる始末だ。怒っているのか、はたまたいつものように揶揄っているだけなのかはこちらからは全く想像がつかない。彼女のことだから、どうせこちらを揶揄って反応を楽しもうという魂胆なのだろうが、それでは面白くない。何より、今はそういう気分でもなかった。せっかく久しぶりに二人でゆっくりと過ごせる時間を確保できたというのに、いつも通りではつまらない。恋人同士なら恋人らしく、そういう時間を持ちたいと思うのも当たり前だろうし、それを少しでも長く味わいたいのだ。

「関係なくはないだろう、いいからこちらを向け」

「何で?」

「――、顔を見たいからだ、お前の」

「は!?え、なに……なにそれ~!」

 素っ頓狂な声をあげ、くるり、とこちらを向く彼女。なにそれ、と言いながらも見るからに慌てているし、顔も紅い。最近気づいたことだが、彼女はこういった不意打ちに途轍もなく弱いのだ。自身の性格も関係しているとは思うが、それにしても毎度毎度良い反応を見せてくれるのでこちらも気分がいい。
 何も言わずに、ただただじっと彼女の顔を見つめる間でも、恥ずかしいのか目をあちこち泳がせ、閉じた唇も何か言いたげに震わせている。彼女がこういった反応を見せるのは俺だけなのだろうと思うと、愛おしさがこみあげてくる。ああ本当に、こんなに好きになる筈ではなかったのに。単なる腐れ縁で、幼馴染で、それなりに大切にしているくらいがきっと丁度良かっただろうに、あふれ出る想いに蓋をすることすらかなわない。何をしているのだろうと思った。さっきまでは抑えていただろうにと自責する。
 だが燻る衝動に抑えが効くほど俺だって大人ではないのだ。気づけば、くい、と両の手で彼女の頬を支えているし、目線は彼女の……瑞々しくて美味しそうな、程よく色づいた唇に釘付けになる。

「――

「けい、と……」

 ちょっと待ってよ、なんて言わせる暇は与えなかった。自分でも随分余裕のない接吻だ、と思う。ただ湧き上がる衝動のままに、目の前の彼女に口付けた。先ほどまで川のほとりのベンチに座っていたはずなのに、周りの音は一切聞こえない。耳に入るのは、俺と彼女の心音と、やけに色っぽい息遣いだけだ。

 唇を優しく食むと彼女もそれに倣う。は、という彼女の短い呼吸が自身の思考を支配する。もうやめろ、ここは野外だぞという理性を、「どうせ夜が深くなるころなのだから周囲にばれやしないだろ」と悪魔の囁きが抑えつけていた。このままではまずいな、と頭ではわかっているのに身体が言うことを聞かない。……ほんの少しだけ開けた口から、ちろ、と舌をねじ込もうとしたその時だった。

 ん~~!と苦しそうな声をあげて、彼女が身を引く。刹那、周囲の音も、なぜ先ほどまで聞き取れなかったのかというほど鮮明に耳の中へ入り込んできていた。

「んっ、けほっ……ち、ちょっと!何してんの!!」

「――、……。あ、あ~……すまない」

「すまない、じゃないでしょ!も~……。ホントいつも唐突なんだから……」

 じゃあ前置きでもあればいいのか。と言いたくなったが、その赤く染めた頬を膨らませて「そういうことじゃない!」と言われそうなので黙っておくことにした。
 ふと手に付けた時計に目をやると、10時近くを回っており、肌を撫でる風も若干冷えてきていた。風邪を引かれても困るので、ベンチから腰を上げる。彼女はというと、依然頬を赤らめながらうつむいていた。このまま動きそうにもないので手を引くと、小さい声で、しかしハッキリと、妙に艶のある声でこう言ったのだ。

「――あのさ、今日……お父さんもお母さんも出かけてて居ないんだよね」

 ついさっきまで冷たいと感じた風は、滾る欲を冷やすには不十分だった。

この後家に帰ってどうするかはご想像にお任せします。

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