夫婦喧嘩は犬も食わない

 怒声が校内に響く。振り返るのはごく僅かで、この光景はふたりを知る者にとっては日常茶飯事だからだ。
 栗色の髪を思う存分に揺らし、軽やかな足取りで廊下を踊るように駆ける女と、後ろから般若の形相でそれを追いかける、大変に美しい顔立ちをした男。儚さの中に男らしく力強さを感じさせるその顔容であるのに、険しい顔をしていてはもったいないと思えるほど。原因は他でもなく、追いかけられている女にあった。不可抗力ではあったが、女――が、男――敬人の捌いていた書類にお茶を溢してしまったのだ。
「だから謝ったじゃん!そんなに怒らなくても いいでしょお!」
 は必死に叫ぶ。
「いいや、今日という今日は絶対に許さん!」
 敬人も負けないくらいに声を張った。
 似たような問答を繰り返しながら、と敬人は廊下や階段を駆け回る。 決着は大抵、どちらかが観念するか若しくは誰か親しい者が止めに入るかしなければ永遠に続く。
 今回は珍しく、が先に根をあげたようで、 両手をひらひらさせながら敬人の方へ近づいた。
「はいはい、分かりました。申し訳ございません〜」
 ぺこりと頭を下げたものの、白々しいその言葉と態度からは反省の色など全く見えない。
「はぁ......。悪いと思ってないだろう、貴様。俺がどれだけ徹夜して捌いたと思って、」
「しょうがないじゃん、敬人が急に立ち上がったのが悪い!」
「いたずらに人の寝顔を写真に収めようとする方が悪いに決まっている!」
「おまけにそのままの勢いで私の胸に頭埋めたのも敬人じゃん!えっち~! 副会長はすけべ!」
 わざとらしく自身の両腕で胸を抱えながら、は言う。大声で。敬人はそれを聞き、慌てての口を押さえる。どうやら、二人の喧嘩はまだまだ終わらないらしい。

敬人くんに追いかけられたい人は一定数いるんじゃないかと思っています。

Back