恋は幸せなものだと思っていた

 そんな暇などなかった、と思う。 夢ノ咲学院に入学 してから、否、きっと何処へ行ってもこの気持ちに気付く事は一度たりともなかった。興味がない?違う。 敬人はたしかに、同じ歳の有象無象と比べると自身の感情、特に恋とか愛だとかいう情欲の籠ったそれには大変に疎い。
 けれど、全くもって関心がないと言えば嘘になる。 等身大の恋こそ知らないが、幼い頃に見かけた、名も知らぬ書店の女性店員に惹かれ、用事もないのに足蹴く通ったり、実家である寺の檀家の歳の近い娘と山で駆け回ったり、そういった記憶はあった。だが、言うならばそれらは単に"焦がれていただけ"で、敬人自身も、そこからどうなりたいとか、具体的に考えたことは一切ない。その程度の執着であったゆえに、自身でもあの時はどうであったかなんて、記憶の残滓ですらない。
 だからこそ、敬人は今、自身に巡る感情をどう表現すべきかわからない。
 自身の三歩先を往く、栗色の長い髪を風に遊ばせ、 心地よいリズムの歌を口遊む彼女を見る。ふらふらと 頼りなく、空いた手を見て、敬人は無性にもその手を掴みたいと思った。一年前であれば、何の戸惑いもなく握っただろう。――いや、そもそもこのような気持ちは抱かない。

 しかし、今は違う。

 三歩先だ。 敬人の歩幅なら、十分に追い付ける距離である。けれど、敬人はそれが出来ない。意気地なしでも、何とでも言えと、半ば自暴自棄だ。ああ、こんな気持ちは知らない。 恋や愛などと浮かれる他人を見て、敬人はもう他人事だとは思えなかった。 逸る気持ちを抑える術を持ち合わせてなどいない。単に浮かれるだけで、滅多な苦労などないと高を括っていた自分を恥じた。
 恋とは、こんなにも難儀なものであったのか。

敬人くんの独白みたいになりました。

Back