お気に召すまま

「ねぇ敬人、キスしていい?」

「は?」

 それはあまりに唐突な質問で、読んでいた本の内容が半分飛んだ。「だから、キスしていい?」と再度同じセリフを繰り返す。俺にとってはそれを聞くこと自体恥ずかしいなんて程度のものではなく、出来れば口に出したくないくらいには避けているものだった。なぜなら、そういうものは本来聞いてから行うものではないと思うというか、自然とそういった流れになったときにするものであって、事前に聞いてからする、だなんて最近の恋愛小説にだってないぞそんな展開は。なんて我ながら情けない理由をあれこれ頭に浮かべながら戸惑っていると、彼女はくすくすといたずらに笑みを浮かべた。

「も~、敬人ってなんでそんなに面白い反応するの?」

「お、面白いとはなんだ!きっ、貴様が変なことを聞いてくるから……!」

「ふ~ん、じゃあ聞かなかったらしても良かったの?」

 う、と言葉に詰まる。どうしてこの幼馴染――否、恋人はこうもそういった事に対して照れがないのか。俺が初心すぎるのか、それともこの恋人がぐいぐい積極的すぎるタイプなのか、どちらなのか。目の前に居る女以外に、交際経験のない俺に考えつくはずもなかった。一方でこいつは数人と交際経験があった……と記憶しているから、単純に経験の差だと思っておくことにする。断じて俺が初心だからとか、女々しいとかそういった理由ではない……はずだ。多分。

「ね~どうなの?」

「知らん、聞くな!」

「つれないな~……」

 むす、と頬を膨らませながら彼女はそっぽを向く。俺もつられてそちらを向くと、なるほど、つい先ほどまではまだ日が出ていたというのに、今ではそれも大分傾いていて、辺りは薄暗くなっていた。読書に熱中してしまうと、どうしても時間を気にせず読んでしまうのは俺の悪い癖だと自覚している。何事も中途半端に終わらせる事があまり好きではない性分のためか、生徒会の仕事もキリがいいところまで終わらせなければ気が済まなかった事は記憶に新しい。あの時も寝る間を惜しんで書類を捌いたものだ。――と、そこまで考えて俺は気づく。俺が読書に集中している間、彼女は何をしていたのだろうと。時間にすると、俺が本を読み始めたのが午後三時くらいで、現在は六時を少し過ぎた辺りなので、およそ三時間程度。何かに集中していれば、三時間なんてあっという間に過ぎていくが、辺りを確認しても彼女がその時間をどうやって過ごしたのかまるで見当もつかない。テレビの電源は点いていないので、テレビを見ていたという訳ではないだろう。それにいくら集中していたとしても、テレビの音くらいは耳に入ってくる。けれどもそれがなかったのだから、この線は無いはずだ。では俺と同じく読書か、とも考えたが元来大人しく本を読むような女ではないので、これもなし。スマホでも弄っていたのだろうか?ふと部屋の隅に目をやると、鞄の中に彼女が普段使っているスマホが見えた。スマホでもなさそうだ。

 考えてもわからないなら聞いてしまえ、と俺は未だにそっぽを向いている彼女に近づいて顔を覗き込んで――俺は読書に夢中になっていたことを後悔した。

 長い付き合いではあるが、彼女のこんな顔なんて片手で足りる程度でしか見たことがない。いつもへらへらと弧を描く唇を固く結んで、キュッとつりあがっている目を少し垂らして、涙をにじませている顔なんて。

「――なに、そんな驚いた顔しちゃってさ」

 震える声で彼女が言う。

「いや、その……。……すまない」

「すまない、って何に?別に敬人は私に何か悪いことしたって訳じゃないじゃん。何に謝ってるの?」

「何に、って……それは……」

 彼女にしては珍しく、どんなに察しが悪かろうと気付ける程に棘のある物言いで、咄嗟に出た謝罪の言葉を封じられる。そのせいで俺は言い訳さえも口に出すことが出来なかった。別に言い訳をしようとしていたわけではないのだが。彼女は「何か悪いことをした訳ではない」と言うが、そうであれば彼女が泣くはずはない。それに、何故こうなっているかを察せないほど俺も鈍感ではないのだ。ひとつ深呼吸をしてから、俺は彼女の前に座り、そのまま優しく抱きしめた。ぴくり、と彼女が肩を揺らす。

「何もしていないのならば、お前はそんな顔をしないだろう。……すまない、お前を放っておいてしまった」

「……気づくの遅い」

「あぁ」

「声掛けても生返事しかしないし」

 久しぶりに会ったのに、とかせっかくオシャレしてきたのに何も言わないし、とか、どれだけため込んでいたんだと問いたくなる程に次々と出てくる愚痴を俺は黙って聞いた。一通り吐き出し終えた後、彼女はぐすり、と鼻を啜りながら「でも」と付け足す。

「……私も、何も言わなかったもんね。ちょっと意地張っちゃったのは、私も悪いから……ごめん」

 ぐい、と俺の腕から抜け出した彼女はそう言っていつも通りの笑顔を浮かべた。涙で赤く腫らした目をこすりながら恥ずかし気に笑うを見て、俺の心臓がどくり、と鼓動を速める。大して暑い季節でもないはずだが、全身が滾るように熱い。ティッシュどこ、と言いながらふいに後ろを向いて、振り返るだけの単純な挙動さえどうしようもなく愛おしくて、目が離せなくなった。

「――あ。あったあった」

 すくり、と彼女が立ち上がろうとしたタイミングで、俺は無意識のうちに彼女を腕を掴む。

「ん?敬人どうし、」

 こちらを伺う言葉が途切れる。気付けば、勝手に身体が動いていた。さあさあと風が木々を揺さぶる音と、ずっと早鐘を打っていた自身の心臓の音だけが耳に響く。やがて音すら聞こえなくなって、この世界に存在しているのは俺と彼女だけなのではないかと錯覚するほどだった。俺の感覚は彼女の仄かな熱と柔らかさが支配する。息をするのも忘れるほどに、俺は彼女を感じることに集中した。数分、いや、実際には数秒程度だったのかもしれない。ぱしぱしと苦しそうに背中を叩かれ、瞬間、あれだけ静かだった周囲が音を取り戻して、一気に現実に引き戻された気分になった。

「え、え、敬人いま何して、」

「すまない、嫌だったか?」

「嫌ではないけど……、ってそうじゃなくて!いや、え、今」

 キス……したよね……?とやけに焦りながら彼女が問う。そうだが、と軽く流すように答えれば、彼女は頬を赤く染めて黙り込んでしまった。普段ならばあれこれ騒ぎながら「お返し!」と言って、彼女から倍返しと言っても過言ではないほどにしてやられるのだが。けれども、元気と明るさが取り柄の彼女がこうしてしおらしくしているのは、どこか俺の加虐心を刺激するものがある。俺も男なのだ。泣かせたいわけではないが、普段手を焼いている分、こういう時くらい優位に立って、あまり見ることがない顔を独り占めしたって罰は当たらないはず。そう思って、余程恥ずかしいのか、再度顔を伏せた彼女の耳元で小さく俺は呟く。



「な、なに」

「顔をあげろ」

「え……、や、やだよ。だって今絶対……!さっきだって泣いてたから化粧崩れてるし、」

「はは、俺にとってお前はどんな顔をしていても可愛いのだから気にするな」

 そう言うと、明らかに動揺している声で「な、なにそれ」と言いながら彼女は顔をあげる。これでもか、と云う程に頬を紅に染め、今度は羞恥のあまり目に涙を浮かべたが俺の瞳に映った。幼馴染ではあるが、やはり彼女のこういった表情を見ることは今までにも数える位しか経験がない。普段の溢れんばかりの笑顔も大変愛らしいと思うが、これはこれでまた違う愛らしさを感じる。そう思う自分に対して、あぁ俺はこんなにもの事を好いているのかと認識する。全く、昔から彼女の扱いには手を焼いていたが、まさかここまでとは思っていなかった。どう足掻いても、俺はこの女に手を焼く運命にあるらしい。けれども、全く悪い気はせず、むしろ俺以外に手を焼かせてたまるものかとさえ思う。

「ふ、庭先にある紅葉みたいだな」

「う、うるさいな~!しょうがないじゃん、敬人のせいでしょ」

「ほう。俺はお前が“キスをしたい”と言うからそうしてやっただけなんだがな」

「そっ、それは敬人が全然構ってくれなかったから!!どうにかして気を惹こうと……」

 ならばその考えは正しかったのだろう、と心の中で呟く。いや、本当はそのようなことを考えさせない方がいいのだろうと思うが。どうにも俺は昔からこういう点に関して察しが悪いというか、逆にお互いに気心を知りすぎて変に空回りするきらいがある。そこは省みなければな、と反省しつつ、さて、このどうしようもない位に燻った情をどうしてくれようか。彼女も察しているのか、拗ねてそっぽを向きながらもその場を動こうとはしなかった。

「気を惹いてどうするつもりだったんだ?」

「どうって……。そ、そこまでは考えてなかったよ。ただ構ってほしかった……だけだし……」

「そうか。ならば俺の好きにさせてもらおう――

 おいで、とは言葉にせずとも、名を呼べば彼女は自ずと俺の前に腰をかける。そうっと彼女の頬を撫でると、ぴくりと肩を揺らし、何か言いかけていた口を静かに噤んだ。目も閉じようとした彼女を制して、俺は一言「閉じるな」と小さく呟いた。そのまま真っ直ぐ彼女の目を見る。明るいエメラルドグリーンが、以前写真で目にした南の方の海を彷彿させた。星を落としたかのようにきらきらと輝く彼女の瞳は、俺が彼女以外のものを目に映すことを許さない。幼馴染で、ずっと一緒だったと言っても過言ではない彼女が、こんなにも美しい瞳をしていると気付いたのは一体いつからだろう。瞳から目線を下に落とすと、きっと俺の為にめかしこんだであろう、ぷくりと可愛らしい薄桃色の唇が目に入る。もう一度食ってやろうか、と思うと同時に、俺は唇を重ねに行った。気付けば自然と彼女を抱きかかえていたのは自分でも驚く。あまり余裕のない、貪るような接吻を交わす。舌を入れたくなるのを、何とか理性で抑えて何度も何度も角度を変えながら彼女の熱を感じることだけに集中した。
 
 何度息継ぎをしただろうか。多少満足を得て、彼女を引き離すと蕩けた顔で茫然としていた。

「……?」

「も……し、死ぬかと思った……敬人のばか……」

 くたり、ともたれかかる彼女を受け止める。彼女の体温がじわりじわりと、俺を侵食していく感覚が心地よい。小動物を愛でる様に頭を撫でてやると、柔らかい笑みを浮かべながらはこちらを見た。

「どうした」

「―――いや、好きだなぁって思っただけだよ」

「そうか」

「あ、ずるい。そうやって自分は言わなくてもいいって思ってるんでしょ?」

 笑ったかと思えば、今度は眉を顰めて膨れるのだから面白い。思わずふ、と口元を綻ばせれば「笑えば許すとでも思ってるの~?」と言いながら彼女も釣られて笑う。特に何をするわけでもなく、好きな人と同じ空間で一緒に過ごす――たったそれだけの事が、こんなにも幸せであることに気づかせてくれたのは、他でもない、彼女だ。学生だった頃、そのことに気づいていなかった俺は、一度この何でもない日々の幸せを危うく逃がしてしまうところだった。だからこそ、今度は絶対に逃がすものかと誓ったのだ。彼女の溢れんばかりの笑みに何度救われてきた事だろう。
 そう思った瞬間には、既に言葉を紡いでいた。

「……俺も好きだ、。いつも支えてくれている事、感謝している」

「なになに、急に畏まっちゃって。変なの」

「変とはなんだ、変とは」

「ごめんごめん」

 けらけら笑いながら返す彼女に、そういえば、と話を振る。彼女が涙した事ですっかり頭から抜けていたが、俺が本を読んでいる最中、彼女は何をしていたのか。改めて問いただすと至って真面目な顔で「え?敬人の顔ずっと見てたけど」と言うものだから、また愛おしさがこみ上げてきて、再度接吻を交わした事は言うまでもない。

読書している敬人くんの横顔を想像しては「好きだな……」と思いながら書いてましたね。

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