センチメンタル・エレジー

 敬人と結婚して数ヶ月が経った。元々幼馴染の関係だったし、結婚したと言っても日常に何かしら変化があるわけではなく、いつも通りの毎日を過ごしている。大学を卒業後、晴れてインストラクターとなった私は、平日はESに赴き、様々なアイドル達の身体的なサポートやマネジメントを行っていた。敬人はまだまだ現役の売れっ子アイドルとして活躍している。その為、ESビルに在中している時間は殆どない。偶々、ビル内ですれ違ったとしてもお互いに忙しいとわかりきっているので、視線を交わす程度。私と敬人が夫婦だと言うことを知っている者もそこまで多くないから、担当に就くことがあっても、お互いに距離感を弁えて接していた。同じ職場にいても、出勤時間も違ければ退社の時間だって違う。
 遠距離恋愛中はお互い休みを合わせて旅行に行ったり、隙間時間を使って電話したりそれとなく恋人らしいこともしていたけれど、結婚してからはそういった事をほぼしていない。新婚の時はもっとこう、お互いに好き好き言い合ったり、帰宅すればずっとくっついていたり、そんな感じなのかと思っていたけれど現実はこれだ。別に、期待していた訳じゃない。敬人の性格も考慮すると、尚更だ。――けれど。あぁ、けれど。

(寂しくない、って言ったら嘘になるんだよなぁ……。)

 一人分の夕食を電子レンジで温めながら、そんなことを考えた。時刻は帰宅してからすでに三時間ほど経っている。帰宅直後、疲れた体に鞭打って二人前の夕食を作るけれど、いつも食べる時は一人。朝起きると残しておいたもう一人分のご飯はすっかりなくなっているし、食器や鍋などもきちんと片付いている事から、敬人も帰って来たら食べているのだろうと推測できる。けれど、最近はよほど帰宅が遅いのかそのままになっていることが増えていた。勿体無いので全部私が食べて、敬人にはまた別のご飯を用意して家を出るようにしているが、正直いうと面倒だし、何より精神的に参っていたのだ。どうして私ばかり、こんな思いをしなきゃいけないんだろう?と考えては自己嫌悪に陥って……を繰り返す日々。だって敬人は何も悪くない。彼も彼で、頑張っているのを私は知っている。でも、だからこそ辛かった。
 
 ふと思い立ってテレビを点ける。パッと映った番組はバラエティもので、内容は最近結婚したばかりの芸人夫婦が仲良さげに自宅をあれこれ紹介している企画だ。普段ならば「幸せそうで何よりだな」なんて思うものだけれど、今の気分では、他人の幸せなんて見ていられない。ただただ自分と比べて虚しくなるだけだった。テレビを消したと同時に電子レンジが鳴る。せっかく温めたけれど何だか食欲も失せてしまっていた。

「はぁ……。敬人は何時に帰ってくるのかな~」

 スマホを取り出し、ラインを開く。最後に連絡したのは数日前。『ご飯いる?』『いや、何時に帰れるかわからん』『わかった』という短いメッセージが並んでいるだけ。遡っても事務的な連絡ばかりで、大学の友人たちに見せればすごく驚かれるんだろうな。『何時に帰ってくる?』と聞いても、どうせ返事は『分からない』なんだろうな、なんて思うとこみ上げてくるものを抑えきれなかった。スマホの画面が滲んでよく見えない。……私ってこんなに弱かったっけ。そんなはずないと思うけれど。思いとは裏腹に、ぼたぼたと涙が木製のテーブルを濡らしていく。

「うっ……ぇ……、もう、ホント……馬鹿じゃない、の……?」

 そうだ、馬鹿だ。こうなることだって、分かっていたはずだし、それなりに覚悟だってしていたのに。現役アイドルの夫を持って、"普通"の暮らしなんて出来るはずがない。寂しいなんて子供っぽい悩みを抱えて、本当に馬鹿じゃないの、私。そう思って、思い切り袖で涙を拭ってやったけれど、それでもとめどなく溢れてきてどうしようもなかった。

「あぁっ……!もう、ほんっとやだ、何で止まらないかな……、泣いてる場合じゃ、ない、のに」

 泣くな泣くな、と自分を宥めるほど、どんどん涙が零れ落ちてテーブルを濡らす。もうこれはどうしようもないので、自然と止まるのを待っていたその時だった。ガチャリ、と玄関の扉が開いたのは。

「ただいま。――、お前玄関の鍵開いてたぞ?危ないから施錠はしっかりしておけと……」

 思わず顔を上げた。玄関からリビングまで結構離れているはずなのに、彼が帰ってきた途端、ふわりと嗅ぎなれた匂いが鼻をかすめる。朝、家を出るときに彼が行う読経のお線香の匂いだ。いつも嗅いでいるそれが、どうしようもなく懐かしく思えて、止まらなかった涙が更にこみ上げてくる。あぁもう、本当にタイミングが悪い。これでは情けない顔を晒してしまうことになる。

~、いないのか?……なんだ、いるなら返事を、――おい、お前」

 ふぅ、とため息をつきながらリビングに入ってきた敬人とばっちり目が合った。敬人は何か言いかけた様子だったが、私の顔を見るや否や固まってその場に立ち尽くしている。うんうん、そうなるよね。そりゃ帰ってきたばかりで号泣している妻の顔を見たら、誰だってそうなる。なんて我ながら泣きじゃくっているとは思えないほど冷静に分析していると、敬人が慌てた様子で駆け寄り私の肩を揺さぶった。

「ど、どうした?どこか具合でも悪いのか、何故泣いている?誰かに酷いことでも……、何があったんだ!?」

「だ、だいじょぶ、何もないよ。お、落ち着いて……」

「落ち着いてなんか……!い、いや、すまん。そうだな、落ち着くべきだ」

 はぁ、とひと呼吸おいて再度敬人が私の顔を覗く。誰からも「綺麗だ」と称される顔が、心配と動揺の色を浮かべている。

「本当にどうしたんだ……?」

「い、いやぁ~……ちょっとね」

「はぐらかすな。思ったことは言わねば伝わらん」

「――笑わない?」

 笑うものか、と真剣な顔で敬人が答える。そんな顔されたら、答えないわけにもいかず私はすべてを白状した。こんな個人的な、至極どうでもいい悩みを打ち明けるには抵抗があったのだが。きっと言わねば敬人はしつこく聞いてくるだろうと思ったから。

「……なんか、こう、ちょっと辛くなっちゃってさ。新婚なのに、一緒に住んでいるはずなのに、全然敬人と会えないし。ご飯も一緒に食べられないし、せっかく作っても出来立てを食べさせてあげることもできないし――」

 そこまで言って、じわりと目頭に熱を感じた。胸が苦しくて、うまく声が出ない。……あ、だめだまた泣いてしまう。つう、と頬を熱いものが伝った。

「ご、ごめっ……、こんな事、敬人を困らせるって、わ、分かって……、るの、に……っ!ずっとさみしくって、」

 もうそれ以上は言葉が出てこなかった。代わりに出るのは嗚咽だけ。自分でも訳が分からなくなっていた。涙で敬人の顔もよく見えない。絶対困惑しているんだろうな。ごめんね、なんて心で唱えたところで意味がない。けれども声がうまく出ないのだからどうしようもないな、と思ったその時。ぎゅ、とかたく抱きしめられた。思考回路もぐちゃぐちゃで上手く整理がつかない中の出来事で、一瞬何があったのか理解できないでいたが、どことなく安心感を得る抱き方と匂いで、敬人に抱きしめられたのだ、と結論づく。

「馬鹿、お前なんで言わなかったんだ」

「だ、だって――」

「俺が困るだと?ふざけるな、困るはずがないだろう!俺だってずっと寂しかったというのに」

「……え?」

 ……今、敬人は何て言った?私の聞き間違いだろうか。"俺も寂しかった"と聞こえたが、いや、そんな。あの敬人が?私の耳が都合よく出来ているだけなのではとも思ったが、ぼそりと「柄じゃないんだが」と彼が呟いたことで確信に変わる。

「け、敬人も……?」

「なにも新婚なのはお前ばかりではないんだぞ。……俺も寂しさくらい感じる。一緒に住んでいるはずなのに、お前が傍にいないように感じて辛かった。しかし、お前も忙しいだろうと、俺も我儘を口に出すのは憚られて――」

「……待ってそれ、敬人も黙ってたってこと?」

 そうなるな、と照れが混じった声で彼は返事をした。……なんだそれ。人のこと、言えないじゃん。私たちはお互いにお互いを気遣って空回りをしていただけということだろうか。あぁ、そう言えば昔も似たようなことがあったな。あの時も気を遣いすぎて空回って、喧嘩をした気がする。……なんてのんきな事を考えながら、そっと敬人の腕の中を離れると耳まで赤く染めた彼が目に入った。あまり見ないでくれ、と口元を抑えながら目を逸らす敬人。彼のそんな姿を見て、今までずっと我慢してきた感情が溢れ返ってきた。
 ――好きだ。どうしようもないくらいに。自分では手の施しようがない程、私は蓮巳敬人という男が好きなのだ。愛しているとか、そんな言葉では表せない程に。こんな事を伝えたら、重すぎると引かれてしまうだろうか?けれども、実際抑えが効かないのだから仕方ないのだ。
 先ほど彼が私にしたように、今度は私の方から敬人を抱きしめる。

「敬人!」

「うおっ……!馬鹿、勢いよく抱きついてくるな。……全く」

「敬人、好きだよ。愛してるなんて言葉じゃ足りないくらい。大好き」

「お前、よくそんな恥ずかしい台詞を……。まぁいい、どうせ俺とお前以外には聞こえんからな。――俺も好きだ、愛している。寂しい思いをさせてすまなかった」

 一度かたく抱き合うと、敬人は私を静かに引き離した。どうしたのだろう、なんて考えなくとも、私の目を見つめる彼の目を見れば自ずと理解できる。滾る情欲を燈した、こちらを強く求める彼の綺麗なエメラルド色の瞳。何も言わず私は目を伏せ、その瞬間を待つ。思った事は言え、と言われたばかりではあるが、まぁ時と場合によるだろう。そうっと首を上に向けると、間髪入れずに普段の彼の雰囲気からは想像もつかないようなキスをされた。肉食獣が獲物に嚙み付くかのごとく、唇を貪られる。何度も角度を変えて、その度に隙間から漏れ行く吐息はまるで甘い毒のよう。聞いているだけで頭がぼうっとしてきて、敬人が与えてくれる熱に身体を委ねることしか出来なくなった。――厳密に言えば、委ねるも何もいつの間にか腰を抱かれ、動くことすらままならないのでどうすることもできない、というのが正しい。こんなの、何処で覚えてきたのだろう。段々と苦しくなってきて、抵抗してみたが敬人はそれでも私を離さない。

「んっ……ふ、んんっ……ん~~~~!!」

「……はぁっ、……。なんだ、その、」

「ぷはっ、はぁ……は……、苦しかった……。も~、敬人そういうとこあるよね……」

 何かを言いかけていたらしい敬人と、私の声が被った。「どうしたの?」と聞いても目を泳がせるばかりで何も言ってはくれない。しかし、次の瞬間、自身の足に何か硬いものが触れているのを感じたところで私は全てを察した。目線で訴えかけると敬人は「生理的なものだ」と誤魔化したが、先程の行為を顧みると、説得力などあるはずがない。

「敬人、明日の予定は?」

 そう問えば、無言で首を横に振った。お前は、と短く返され、私も同じように首を振る。

「――そうか。ならば時間を気にする必要もないな」

 後半のそれは一体どういう意味なの?と問いたくなったが、敢えて言わないでおこう。先に風呂を済ませてくる、とだけ言い残し敬人はリビングを出て行った。ドアが閉まるのと同時に、どくり、と心臓が高鳴る。……ずるくない?という私の、語尾が少したかぶった声が部屋に響いた。

このタイトルは結構お気に入りです。造語ですが。

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