香り ※グレホメ

 今日の鍛錬も終わり、俺は被っていた兜を取る。すると中に籠もっていた熱気が外に一気に逃げていき、共に流れていた汗が冷やされた。はぁ、とため息をつきながら、鍛錬が終わった直後だというのに涼しい顔でベンチに腰を下ろしている幼馴染の元へ向かう。よくよく見ると、その額や首筋に一筋、すうっと垂れる汗が見えた。何だ、こいつも疲弊はしているのだと少し安堵の息を漏らす。しかし、昔は神童と呼ばれ今でも俺の歩く道を明るく照らしてくれているこの男の事だ、その態度通りまだまだ体力は有り余っているのだろう。

「ホメロス」

「……どうしたグレイグ。ほら、図体のデカいお前がそこに突っ立ていると通行の妨げになるぞ。座ったらどうだ」

「言われずとも座るさ。あぁ疲れた……」

「心にもない事を。まだまだやれるんだろ、お前なら」

 変わらず涼しい顔をした幼馴染ことホメロスは、俺から目線をそらしたままそう言った。俺のどこを見てそう思ったのだろう。未だに熱気で頬は熱いし、汗だくでクタクタだというのに。「そんな事はないぞ」と苦笑いで返したが、どうだかなと一言交わしてホメロスはそれっきり黙り込んでしまった。ううむ、何故か今日のホメロスは機嫌が悪い。俺が何かした―――のだろうか。いやしかし、起きて鍛錬に励むまでホメロスとは口を聞いていなかったし、何ならたった今初めて声を交わしたのだ。まさかそれが原因という訳ではないだろう、そうであってほしい。朝一で声をかけられなかったから拗ねているとしたら、巷でよく兵士たちが話題にしている「面倒くさい女」と同レベルだ。俺の導であり光が、まさかそんな事で拗ねるはずがない。
 あれこれ考えているとホメロスが口を開いた。

「……常々思っていたんだが」

「……?う、うん」

「グレイグ、貴様その汗の臭いはどうにかならんのか?いくら男しかいない兵舎だからといって、汗も拭かずのこのこと人前に出るとは何事か。それ以上寄るなよ、臭いがうつる」

 そう言ってホメロスは左手でしっし、と俺を隅に追いやる。あっちへ行け、のジェスチャーだろう。

「ま、待てそんなに臭うか!?」

「あぁ、臭う。オレがもし女だったらそんなに汗臭い男はごめんだな」

 フン、とホメロスは鼻で笑う。そこまで言わなくともいいではないか。いや確かに、汗だくのまま出てきてしまったのは俺の落ち度だが、ここは兵舎。兵士たちが訓練で使用している建物で、緊急時を除けば女性が入ってくることはまずない。つまり、男しかいないこの兵舎で汗だくで居ようが上半身裸でうろつこうがこれと言って差し支えはないのだ。それに他の兵士たちも似たような出で立ちで、別段俺の感覚がおかしいという訳でもない。寧ろホメロスのように涼しい顔でベンチに座りスカしている方がよっぽど珍しいというもの。
 俺のそのような言い訳が見透かされてしまったのか、ホメロスはその切れ長の目を更に細めた。

「そんなだからメイドにいくらキツく言われようともムフフ本が手放せんのだ、オレの言っていることがわかるか?」

「む……。別に構わんだろう、ムフフ本の一つや二つ男なら誰しも、」

「はっ、残念だったなグレイグ!オレは生まれてこの方そのような低俗な本は所持したことがないのだ!」

 フハハ、と声高らかにホメロスが笑う。

「ぐっ……!」

「そんなものに頼らずとも、オレのように見目麗しく清潔ならば女などあちらから寄ってくるというもの……」

 どうだ、羨ましいかグレイグ、と言いたげな顔でホメロスはこちらを見ている。勿論、羨ましいか羨ましくないかと聞かれれば羨ましい。だが、俺は仮にそう言い寄られたとしてもそう簡単に関係に繋げるような事はしたくないし、現にそういう事は何度かあったもののその都度断っていた。ホメロスはどう考えているかはわからないが、俺の身体と心はこの国と民の為に在る。好いてくれたその気持ちは大事にしてあげたいと思うものの、俺はその人の為に生きていけるわけではないのだ。だから、そういった付き合いをするならば、心に決めた女性が俺の前に現われた時でいい、と考えている。つまり、女性にモテたところでムフフ本を手放すつもりは一切ないという事だ。

「―――開き直るなアホ。冗談は置いておき、お前も将来この国一番の騎士を目指すならば身だしなみにも気を遣えという事を言いたいのだ」

「ふむ。確かにそうだなあ……。しかし俺はホメロスと違ってそういった流行には疎いものでな」

「洒落た服を着るだけが全てではない。髪や肌、爪、香り。そういったものに気を遣うだけで印象は大きく変わる」

 そういうものなのか、と思いながらも、女性によく黄色い声をあげられそういった話題にもあがりやすいホメロスのいう事ならば恐らく間違いはない。ではどうすべきなのか。そう問えばホメロスは「次の非番は開けておけ」とだけ言い残し兵舎を出ていった。

 そして、俺はホメロスの言うとおりに次の非番の日を開けた。何をするのかと思いきや、ホメロスは朝早くに俺の私室に来て開口一番に「今すぐ街へ出る用意をしろ」と言ってそのまま何処かへ行ってしまったのだ。何がしたいのか全然見当がつかない俺は急いで街へ出る支度をする。ホメロスに身だしなみを指摘されてから、俺なりに髪を整えてみたり、メイドに「肌に良いものは何か」と聞いてこれがいい、と勧められたスライムオイルを適量塗ってみたりしたもののどう変化しているのか分からなかった。やはりお洒落というものはよくわからん。

「ホメロス、ホメロス?何処だ」

「グレイグ、ここだ。行くぞ」

 声のする方を見ると、大広間に繋がる扉の前でホメロスが腕を組んで立っていた。一切皺のない綺麗なシャツに、足のラインが美しく見えるパンツスタイル。白いブラウスとベージュのパンツでかなりラフな印象を与えるものの清潔感に溢れる青年といった印象を受けた。思わずおぉ……と声を漏らす。するとホメロスは「別に驚く事でもないだろう」と呆れられた。比べて俺は、メイドが見立てたコットにシュールコーを着ている。メイドが言うに「普段のグレイグ様の私服は只今洗ったばかりで……」とかなんとか言っていたが真相は俺も分からない。ホメロスは何か察したような顔で「……帰ってきたらお前の服を見立てたメイドに礼を言わねば」と呟いていた。

 城を出て、俺たちが向かったのはこじんまりとした小さな店だ。外からは何を扱っているのか判断できなかったが、店の扉を開けるとふわり、といい香りが鼻を擽る。

「いらっしゃい。……おや、ホメロス。珍しいね、アンタが誰かを連れてここに来るなんてさ」

「単なる気まぐれだ。―――この男に合う香水を、と思ってな」

 俺が棚やテーブルに並ぶ香水に目を奪われている間に、ホメロスはどうやら知り合いらしい店主とあれこれ何かを話していた。香水を扱う店は何度か目にしたが、実際に入るのは初めてで俺は勝手がわからない。あれこれ余計なことをせず、何やら詳しそうなホメロスに任せていればいいか、と黙って店主とホメロスの会話を聞くことにした。
 数十分程、ホメロスは店主と話し込んでいたように思う。時計を忘れてしまったために、正確な時間はわからない。満足気な顔でホメロスは俺に小さな小瓶を手渡してきた。

「ほら、グレイグ」

「……あ、ありがとう?」

「なんだ、不思議な物を見るような顔をして。いらぬのなら返せ」

「いや!貰っておく!!ホメロスから貰ったものは、城の皆への自慢にもなるしなぁ。はは!婦人たちから嫉妬されてしまうかもしれん」

 何言っているんだお前は、とホメロスは呆れている。俺はホメロスに手渡された小瓶に入った液を適量、手首に垂らした。すると瞬く間にふわり、とほんのり甘く、さわやかさのある花の香りが辺りを包んだ。どこか懐かしさを感じるその香りの正体。紛れもなく、故郷バンデルフォンの、春の花畑に咲くチューリップの香りだった。俺は思わず驚いて、ホメロスの方に目をやると、ホメロスは素知らぬふりをしてそのまま俺の横を素通りして先に歩いて行ってしまった。

「あ、待てホメロス!ホメロ~ス!」

 悠々と俺の前を歩くホメロスのうしろ姿は、どこか哀愁を漂わせつつも夕陽に照らされて美しかった。その姿はかつて俺が尊敬し、何もわからぬ俺を導いて育ててくれた父を彷彿させる。厳しく、口ではあれこれとダメ出しをするもののその心根は優しく、気高い騎士そのもの。まさに"光"というべき存在に変わりなかった。俺はホメロスとならばどこへでも行ける。瞬間、チューリップの香りの中にほんのり混ざっていたバラの香りがふわりと香った。

第130回のお題。ホメロスは高貴な香りがしそうだなあと。グレイグからはチューリップのような可愛い香りがしてたら萌える。

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