心地よいアロマの香りが、鼻先を掠めていった。ほんのりとした甘さの中に、みずみずしい花々の匂いが混じっている。周囲は綺麗で美しい、白を基調とした家具で統一されており、アキラは思わず溜め息を溢しそうになった。この場所へ来る度に、自分と目の前にいる女のありとあらゆる差を見せつけられているようで、辟易しているのだ。彼女は、近所で一目置かれている家のひとり娘である。片や親無しで施設暮らしの不良少年だ。幾ら幼馴染で交友が深いと言っても、この差は埋まるものではない。天と地、月とスッポンとは正にこの事を言うのだろうとアキラは思う。もちろん、好き好んで足を踏み入れた訳ではない。この部屋の主──に半ば無理やり連れて来られたのだ。
今日、アキラは相も変わらず喧嘩に明け暮れていた。喧嘩と言えども単なる殴り合いで、人の心を読める力を持つアキラは軽い身のこなしで向けられた拳を避け、返り討ちにしてきたところだ。だが、アキラも全ての攻撃を避けられる訳ではなく、当たるものには当たってしまう。アキラにとっては大した傷でもなかった為、そのままふらふらとゆっくり歩いて帰ろうとした事が間違いだったらしい。おかげさまで心配性でお節介な幼馴染に捕まり、この有様である。
「おい、……もういいだろ?このくらい何ともねーよ。自分で治せるし……」
アキラは、自分の左腕にできた傷の手当てをしているへ声をかけた。彼女はと言えば、アキラのその言葉には返事をせず、険しい顔つきで黙々と包帯を巻いている。
傍から見れば、十中八九、は怒っているのだと言われるだろう。せっかく整った顔をしているにも関わらず、元々釣り上がっている目を更に鋭くさせ、眉間に皺を寄せて口元は固く結んでいる。そのようなの表情を、アキラはじい、と見つめた。長い付き合いだ。今更、超能力に頼らずとも、彼女が今何を考え、何を思っているか手に取るように分かる。
「……なー。お前にとって、オレはそんなに頼りなく見えんのか?」
そう問えば、アキラの声に一切の反応を示さなかったが、初めて口を開いた。
「どうしてそうなるのよ。……あんた、また勝手に心を読んだの?最低」
返ってきたのは、問に対する答えではなく、アキラへの嫌味だった。もちろん本気で嫌がっているという訳ではなく、謂わば売り言葉に買い言葉のようなもの。は、そういう女なのだ。斜に構えているというか、天邪鬼とでもいえばいいのか。彼女は、また勝手に、という自身の言葉でアキラが話した内容を肯定しているという事実に気付かないらしい。何とも詰めが甘く、抜けているのか。ほんの少し、可愛らしい部分であるのだけれども。
「超能力なんざ使ってねーよ、残念だったな」
フン、と軽く鼻を鳴らし勝ち誇った顔でを見る。彼女は、それが気に食わなかったのか、はぁ、と小さくため息をつく。あまりため息ばかりつくと幸せが逃げるぞ、と言えばまた怒らせる事になるのだろうか。余計な一言で火をつけては面倒だと思い、出しかけた言葉をアキラはごくりと飲み込んだ。
「――あっそう。まぁいいけど、何でも。……はい、手当ては済んだわ。全く、いつまで経っても手がかかるんだから!」
「誰も頼んでねーだろ……。まぁいいや、センキュー」
アキラが口角をあげて笑みを見せれば、は自然と窓の方を向いた。髪の隙間から覗く耳は赤く、夕焼けのせいではない事くらいアキラにも察しはついている。だが、敢えてそれには触れず、知らない体を装った。こういう事は突っ込まない方が面白いのだ。それにそういう言葉は本人の口から聞きたい。ぶつぶつとが独り言を零す中、よ、と声を上げながらアキラは真っ直ぐ立つ。ぐいとひとつ伸びをして、軽く屈伸をする。処置の時間、同じ姿勢でいた為か、筋肉が少し強張っていたようだ。そうしていれば彼女の様子も落ち着き、くるりとアキラの方へ視線を向ける。
「もう帰るでしょ?そろそろ晩御飯の時間だものね。送っていくわ」
「はぁ?何でそんなメンドクセー事すんだよ」
「……また喧嘩して、新しい傷を作られたら私の仕事が増えるからよ」
いいからさっさと準備して、とはアキラを急かした。アキラはやれやれと手を振りながら、逆らう事はせずに手早く準備を済ます。女の尻に敷かれているようで情けないと思いつつ、の機嫌を損ねれば更に面倒な事になる。このような姿を松に見られたら……なんと言われるだろうか。女の手綱くらい握れないのかと笑われそうだ。仕方ねーだろ、と反論したくとも、松はもう居ない。そう思うと胸が苦しくなる。気分を変えたくなり、アキラはの心を読もうと意識を集中させた。に気付かれない程度に呼吸を整え、目を瞑れば彼女の心の声がアキラの脳内に流れ込んでくる。
(もう少しだけ一緒に居たいのにな……)
決しての口からは聞けそうにないその言葉に、アキラは満更でもない表情を浮かべた。どうして素直に口にしないのかね、とアキラは思う。確かに、アキラ自身も同様、素直になれない時もあるがほどではない。がしっかりと言葉にしてくれれば、自分もつれない態度を取らずに済むというのに。自身の事を少し棚に上げてはいるものの、アキラは大体の事を真っ直ぐ伝えているつもりである。早く折れないもんかねー、という気持ちを込めて、軽く準備を進めている彼女を横目に見た。その視線に気づいたは仏頂面でこちらを睨み返しているものだから、まだまだ先は長いのだろう。アキラは視線を戻し、先に玄関口へと向かった。
の家を出て、二人はちびっこハウスを目指し歩みを進める。日もかなり落ちてきており、街灯がつき始めているようだ。あちこちから美味しそうな夕飯の香りが漂って、思わず腹の音が鳴りそうだった。ちびっこハウスの晩飯はなんだろうか。昨日は焼き魚とおひたしなど、和がメインのものだったので、今日は肉が食べたいなどと思っていたところ、が口を開く。
「いい匂い。お肉かな」
まるでアキラが心の中を読まれたかのようで、思わず目を点にする。
「おー、オレも似たような事考えてたぜ」
「お肉が食べたいって事?確かに、ちびっこハウスだと献立はある程度決まってるものね。みんなで一緒にご飯食べるのは楽しそうだけど」
「お前いっつも一人だもんなー。もういっそちびっこハウスで食えば?ちび達も喜ぶと思うんだけど」
そう言えば、は決まって「食費がかさむでしょう」と返してくる。
確かにその通りだし、現在のちびっこハウスは火事に建て直しや修繕費がかなり痛手らしく、妙子や園長が頭を悩ませている事をアキラは知っていた。自身も無法松が残したたい焼き屋で稼いだお金をちびっこハウスの援助金へと回してはいるが、雀の涙程度で不甲斐ないばかりだ。はやく尊敬する松のように誰からも頼られるかっこいい男になりたいと、切に願う。
「まぁ、私の事はいいの。それよりアキラ、あんたの方よ」
「あ……?んだよ、急に」
「何だよ、じゃないわ。えーと……色々、ちゃんとしなさいって事!」
何だその曖昧な言い方は、と返す。はその返しに意表を突かれたのか、うんうんと唸って考え始めた。どうやら、そう直ぐには言葉に出せないらしい。心を読んでみても、どう言葉にすれば良いか、という事で考えが埋まっている様子から、本当に悩んでいるようだ。
暫く何も考えずに彼女の隣を歩くアキラだったが、ちびっこハウスに近づくにつれ、デミグラスソースの良い匂いが鼻孔を擽った。もしかしなくても、今日の夕飯はハンバーグかもしれない。気分が上がる。も肉料理を食べたがっていたし、やはりもう一度誘ってみるべきか。ひとりで食べる食事は味気ないだろう。の分の食費は……自分がたい焼き屋の営業をもう少し張り切ればどうにかなるはずだ。一日分であれば、数時間で稼げるくらいには売り上げも右肩上がりで調子がいい。
そんな事を考えていれば、ちびっこハウスが見えてきていた。彼女は未だに悩んでいるようだが、もう暫く放っておけば話も勝手に進むだろう。アキラは敢えて声をかけなかった。無言の時間が数分続く。曲がり角に出て、直進すればちびっこハウスに着く道へ差し掛かった時の事だった。ずっと唸っていたが小さな声で呟く。
「――あーあ。アキラも日勝さんくらい強ければ、私もこんなにあれこれ心配しなくて済むのにな」
それをアキラは聞き逃さなかった。
思わず歩みが止まる。はそれに気付かず、1000勝した時は凄かったとか、ユキちゃんには悪いけど日勝さんに勝てる人なんてそうそういないだとか気分よく話を続けていた。
一方、アキラと言えば、普段はぱっちりと開いた目を半分閉じ、口はへの字に結んでの後ろ姿を睨みつけている。夕陽に照らされ、彼女の影が伸びていく。どこか儚げで、その雰囲気にいつも飲み込まれそうになるくらいには、夕陽との組み合わせが好きなアキラだが、今日、この時だけはそういった甘酸っぱい感情も一切湧いてこなかった。日勝、日勝と嬉しそうにしているはちっとも可愛くない。アキラも、日勝程ではないにしろ、強くなる為のトレーニングは欠かさず行っているし、その辺の男に比べれば腕っぷしも、筋肉の量も負けてはいないはずだ……多分。それに超能力だって発現した頃よりもずっと上手く扱えるようになっていて、何よりアキラにしかない力である。
日勝の強さは、アキラも知っていた。もっと言えば、あの、何処でもない世界で一緒に旅をした仲間なのだから、日勝の大ファンであるよりも日勝について詳しい。だからこそ、より面白くないのだ。日勝は確かに強い。異世界の魔物相手にも臆さず、自身が鍛えた技と強敵達から学んだ技で果敢に挑むその姿は、無法松とは違うかっこよさがあった。魔物の攻撃を受けても、そう簡単には倒れず皆を守る日勝は頼もしく、アキラも何度も世話になっている。圧倒的力と耐久力で前線で活躍していた日勝だが、魔物の弱点を突き、弱らせたり動きを封じたりといったサポートも得意で隙も無く、これが最強と言われる所以か――などと納得はしているが。それはそれ、これはこれである。何より味方への力添えはアキラの方が得意だ。自身の超能力で魔物を眠らせたり、混乱させて味方の攻撃を当てやすくしたり、敵を吹き飛ばして敵の攻撃から味方を守ったり、怪我をした味方を瞬時に手当てしたりと、自分で語るのは憚られるが大活躍したといってもいいだろう。それなのに、これ言われよう。
(ちぇ、そんなに日勝のヤツがいいかよ……)
アキラがむす、とした顔で不貞腐れていれば、彼女はようやく気付いたのか後ろを振り向いた。
「あれ、アキラ?……もしかして、傷が痛むの?」
そう言って眉尻を下げ、暢気に近づいてくるの横をするりと通り抜ける。すると彼女は、え、と声を上げ慌てた素振りでアキラの後を追う。どうしたの、大丈夫、と声をかけられてはいるが、アキラはそれも聞こえぬふりをしてちびっこハウスへの道を早々と歩いていく。少し可哀想だとは思うが、自身の気分を損ねたが悪いという事で。
「……ねぇ、ちょっと。ねえ!」
声のトーンが上がっていく。もアキラの様子に、いたわる気持ちより怒りが勝ってきたらしい。けれどアキラの怒りはそれよりも上にある。普段は彼女を怒らせないよう気を付けてはいるが、今回は怒ってもいいはずだ。ああ、本当に、面白くない。
「どうして無視するのよ……、もう!まさか日勝さんの事を褒めたからとかそんな情けない事、言わないわよねえ!?」
情けない。彼女の言葉がアキラの脳内で反芻する。その時、ぷつん、とアキラの中で何かが切れた音がした。
「――悪かったな、日勝みてーに強くなくて!どーせオレは情けなくて、頼りねー男だよ!」
そう言い切り、困惑した声を漏らすを置いてまた歩き出す。
自分が頼りない事くらい、に言われずともアキラ自身が誰よりも理解している。だからこそ、努力は惜しまないし、陰でひとり頭を悩ませながら日々生きているというのに。無法松が居なくなった今、アキラが心の底から頼れる相手は誰もいない――否、いるにはいるが、頼りたくない。周りの大人といえば、妙子や園長、学校の教師などにはなるが、松のようにアキラの甘えも何もかも受け止めてくれる訳ではないのだ。特に、妙子や園長は未だにアキラの事を子ども扱いしてはあれこれと口を突っ込んでくる。中学生になってまで、子ども扱いなどされたくない。格好がつかないし、下に見られているようで何だか不快だ。何より、同い年であるにも似たような事を思われているなんて、もっと癇に障る。
「ちょっと……誰もそこまで言ってないじゃない……」
彼女が申し訳なさそうな顔で呟く。
けれど、気が立っているアキラにとってその言葉は逆効果だった。
「どうだかねー。少なからず、オレよりも日勝みてーな男の方が頼りになるってお前も思ってんだろ?」
思ってない、と告げるの心をすかさず読む。人の言葉をすぐに信用できず、こうして超能力に頼ってしまうところは悪い癖だと思うが、今更どうしようもない。案の定、彼女の心の中は心配だの不安だのという言葉でいっぱいだ。
「ほら、心配してるって事はそういう事じゃねーか」
「それは……。でも、だからって頼りにしてない訳でも……」
返す言葉がないのか、それとも図星で何も言えないだけなのか、はそれ以上アキラに詰め寄る事はなかった。もごもごと何やら呟いてはいるが、聞き取れない。好きな女の言い訳なんて、聞きたくなかった。彼女にだって頼られたいというのに、いつでもはアキラを心配するばかりで頼られた事はほぼ無いに等しい。どちらかと言えば、今日のように世話を焼かれて、こそばゆい思いを抱えさせられることの方が多かった。何故こうも彼女に気を遣われるのか。が心配性である事は今に始まった事ではないが、それにしても毎度毎度この調子ではアキラもたまったものではない。
悶々とした気持ちがぐちゃぐちゃに混じりあって、気分が悪い。頼られたくて、かっこいいと思われたくて、余裕を見せつけたくて。もっともっと強くなって、そうすれば、何かを失う事も、目の前で人が死ぬ事も、大切な人が苦しい思いをする事もないはずなのに。怒りに混じって虚しさまでもが押し寄せてくる。アキラはその場から逃げ出したくなってしまった。
「オレは心配されたいんじゃなくて、誰からも頼られる男になりてーの!けっ、じゃーな!!」
「あ、ちょっとアキラ……!」
アキラは思い切りちびっこハウスの扉を開けた。そのままばたん、と勢いよく閉める。の事だ、話し途中でわざと区切って抜けてきたものだから追ってくるかと思いきや、意外にもその後玄関口は開くことがなかった。驚いた様子で妙子が玄関を覗きにきたが、アキラは大して説明もせず、そのまま手洗い場へと向かう。自分が、怒りで少し冷静でない事は分かっている。それを落ち着かせる為にも蛇口を思い切り捻り、ばしゃばしゃと大量の水で汚れと共に荒ぶった感情を水で流していった。手を洗い終えた後、妹のカオリや皆が囲む食卓へと目を向ける。想像した通り、今日はハンバーグらしい。先ほどの会話を思い出し、洗い流したはずの感情がまた沸々とわいてくる。
(……ったく、どーしてこうなるのかねー。まだまだオレもガキって事か……?)
まあいいか、とアキラは目前に並ぶ食事へ手を付け始める。きっと明日、は拗ねているのだろうが、知った事ではない。今回の事はが悪いのだ。関係性がどうだろうと、男といる時に他の男の名前を出して盛り上がるだなんて、アキラのプライドが許さない。何より、相手はそれとなく好意を寄せる女だ。……な、面白くないだろう。男なら誰だってこうなるはずだ。だから今回、自分は悪くない。若干、女の一挙一動に振り回されているような気がしなくもないが、あの松だって同じことをされたら嫌に決まっている。松が嫌がる事を、オレが嫌がらない訳がない。
そう自身に言い訳をして、アキラは思い切りハンバーグへかぶりつく。どんな気分であっても、変わらず肉は美味しい、と学んだアキラであった。
――同時刻。美味しそうに肉を頬張るアキラは知る由もないのだろう。ちびっこハウスの門の前、置き去りにされたが、笑みを浮かべていた事を。こうでも言わないと、本音なんて言ってくれないんだから……と彼女の、呆れつつもどこか優し気な声が夕暮れの空に溶けて消えていった。
君の寄す処
LAL初書き。アキラのあれそれをどう表現するか、常に悩んでいます……。