ガラスと金属が擦れる音がする。暖かい春の陽差しが温室を満たしているというのに、雰囲気はそれよりも冷たく感じた。思わずは手の動きを止める。現在、午後二時を回ったうらうらな春の午後だ。本来であれば、にとってそこまで背筋を伸ばす必要もなく、のびのびと過ごせる温室が、たった一人の来客によって多少緊張感のある空間へと早変わりしてしまった。招いたのは自身なのだが、どうにも何故か、機嫌が悪い。はじいっと目の前に座る男――ヴィンスモーク・イチジを眺めた。かちゃかちゃと無機質な音を立て、黙ってイチゴの乗ったスコーンやらフルーツサンドを頬張り、無言を貫いている。確かに食事中のお喋りは非常にマナーが悪い。だが、眉間にしわを寄せてずっとだんまりなのは流石のも無視する事など不可能だった。
「あの……」
「……」
「何か不都合な点でもありましたか」
かちゃり。スッと細めたイチジの目がを穿つ。どうやら相当不愉快な出来事があったらしい。は心の中でため息を吐いた。
「何故そう思う」
「雰囲気が……。もしかして、菓子の味が口に合いませんでしたか?殿下の好みに合わせたイチゴのスイーツを用意するようにと命じてはいたのですが」
「いや」
問題はそこではないらしい。イチジは口の中の物を胃に流すべく、ティーカップを雑に手に取り紅茶を啜った。紅茶の温度はそこそこ高いはずだが、顔色を一切変えずに熱がる様子もない。侍女たちも冷や汗を垂らしてこちらを見ている。このまま返してしまえば、後々面倒な事になりそうだ……とは思う。本来、厳かながらも優雅であるはずのティータイムは一瞬にしてイチジのご機嫌取りへと舵を切らなければならなくなった。はフォークを音もなく置いて、ひと呼吸した後に紅茶を啜る。口の中にイチゴの芳醇な香りがふわりと広がった。程よい暖かさで渋みもなく、上質なストロベリーティーだ。口内を充分に潤して、口を開く。
「では、一体……」
はお伺いを立てるように首をかしげながら問う。イチジはその様子を見て、不意に目を逸らした。不思議に思ってイチジの目線を追う。そうすれば、近くに在ったイチゴのエリアをどうしてかじっと見つめている事には気づいた。今は収穫を終えた後でイチゴは形が悪い物やまだ熟していないものしか成っていない。実が出来ているという事は花ももちろん枯れた後だ。そのスペースだけ寂びれた印象を受ける。多少荒れてもいる為、それが気に入らないのだろうか。その程度を気にするような機敏に聡い部分はそこまでないと思っているのだが。
「これは、誰が獲った?」
イチジが問う。
「私と、侍女が二人ほど」
は少々口籠った言い方をした。
イチジは王族が土や泥に汚れる事を好まない。自身のみならず、それはヴィンスモーク家の品位を下げるとして、妻であるへも同等の条理を身に着けろと常日頃から言われている。けれど、植物や花に触れる事やガーデニングはの趣味の一つだ。おいそれと止める事などは不可能だった。もちろんイチジがそれを面白くないと思っている事は知っているので、あまり話題に出さないようにと配慮はしている。時折、気まぐれに花の品種や花言葉などを聞いてくるようになったのでそれには答えどもそれ以上の事はしなかった。
「摘みたてだと持ってきた奴か?」
「えぇ、そうですわ。アニスと……リリーよね」
はそっと目を侍女へ向ける。一瞬ぼうっとしていた侍女がびくりと肩を震わせ「は、はい」と返事をした。毎度の事ながら間があるとどうにもやりづらい。とはいえ、これに苦言を呈すのは無意味だと理解している。一般人とそう変わらない感覚を持っている侍女や執事達は、の人間離れした美貌に慣れることなど不可能だからだ。最近では宮廷画家さえ絵に描けない美しさであり、もはや存在自体が芸術作品とまで称されるようになった。自身も容姿に関しては最も力を入れている為、評価されることに関しては不都合がない。
閑話休題。
「私の侍女が、殿下に対し無礼な事を?」
まさか、そんなはずは無い。断言できる。アニスとリリーに限らず、この国において絶対的な権力を誇る王族に取り入ろうなどとする一般市民は存在しないからだ。それに、ジェルマ王国の召使い達は皆、基準が高い。行動や仕草、言葉使いに至るまでしっかりと教育されているし、王族に直接仕える者たちに至っては、王族の威厳や品格を表す為に容姿の選定もされていると聞く。つまりの侍女もそういったトップレベルの基準を潜り抜けて働いている者たちなのだ。
案の定違うようで、イチジはつまらなそうにしている。片頬にフルーツサンドを詰め込んで、興醒めとでも言いたげにを見た。食事の礼儀作法などいくらでも叩き込まれているだろうに、イチジはに対してこういった意地の悪い行動を時折する。がそういった礼儀のなっていない人間を好まないと知って、である。多少の怒りは覚えるが、今更そんなところを指摘したとして何かが変わるわけでもない。
「殿下、仰っていただかなければ分からぬ事もございます。殿下にお手数をおかけするのは承知ですが、どうか殿下の言葉で伝えてくださる訳には参りませんか」
「……」
イチジの目に火花が灯る。がこの世で一番美しいと感じる赤であり、全てを白日の元へ晒されるようで、目を逸らしたくなる程嫌悪する色だ。
「何故、おれを温室へ呼ばなかった?」
イチジは言う。はその言葉に目を大きくせざるを得なかった。あれだけ王族としてのプライドやら矜持やらと煩い男が、何を言うのか。
「……殿下は、そのようなことは好まれないかと」
「そうだな」
当然、とでも言いたげにイチジは頷く。それ以降の反応は無い。
「故に、お呼びする必要はないと判断しました」
去年、奇を衒って一緒にイチゴの苗床を作ることを、式典で捧げた物以外の贈り物として渡したがの思った通り、イチジの腰はやたら重かったので収穫やその他の作業は侍女や執事と行う事にしたのだ。水やりや温度管理などはある程度知識がなければできないし、イチジは任務で城に居ないことも多い。故に、その辺りの作業に携わらなかったとしても問題視した事は無かった。とはいえ、水やりの仕方を妙に細かく聞いてきたり、気が向いたのかそれとも気分転換だったかは不明だが手伝おうとしてきたり、一度も口に出した事は無いが、護衛を付けず一人温室に佇んでいたことも知っている。は植物の成長を眺める事が好きだが、イチジは違う。イチジは気分屋なところがあるので、これら全てはそういった類のものだと思っていた。珍しい事もあるものだ、と。実際それが毎日続くわけもなく、時折ではあったので本人の意に反した事を強制させる事も好ましくないとが考えた結果だ。イチジがもう少し意欲的になれば最後まで夫婦の共同作業、と銘打って何かを行う事も吝かではなかった。一応は、夫婦だからだ。
けれど、そうではなくこれがイチジなりの気の向け方だとするならば、この判断は早急だったかもしれない。
「夫婦で何かを行う事は良いものだ、と言ったのはお前のはずだが」
「……そうですね」
イチジが口にした言葉に齟齬はない。は去年、それを口実にイチジを温室に誘っている。もうしかすると、イチジは待っていたのかもしれない。が再度温室へと誘い、イチゴの世話を共に行う事を。まさか、と思った。あの、他人への情や優しさが欠けているはずの人間兵器が。
ホールケーキアイランドの一件以降、以前では考えられもしなかった事が度々起こるようになった。イチジが他の兄弟の救出に向かったり、父親と旧知の仲の喧嘩が終着するまで後ろで控えていたり(今後のジェルマの方針に関わる為であったかもしれない)、大して興味のない温室で佇んでいた事もそうだ。何より、あれ以来イチジと会話する機会が随分と増えたように思う。それもかなり些細で取るに足らない話で。無駄な話など好まないはずのイチジが、相手にも冗談を交えて話すようになった。以前から兄弟らとはそういった会話をしていたようだが、とはその殆どが義務的な話であり、それ以上を求められる事は無かったのだ。
「お前も収穫の場に居たのだろう?」
イチジは続ける。
「おれの元へ持ってきたのもお前ではない。……あのイチゴは、おれの口に入るまでに幾人の手を経た?」
イチジの想定外の言葉には固まり、後ろで控える侍女達が小さく黄色い声を漏らす。これは直接持ってきてほしかった、と言う意味合いで捉えていいものだろうか。困惑が募っていく。口が渇いたので侍女に紅茶を再度注いでもらい口にしたが、あれ程芳醇だった香りが今はほぼ感じられない。水でも飲んでいるかのようだ。
「……王族たる者、他人への奉仕はするものではないと思いました」
「へェ。お前の中で夫たるおれは他人だと?」
「そういう話では」
「どういう話なんだ」
の想像以上にイチジは拗ねているらしい。土汚れを嫌うのにイチゴの収穫は共に行いたく、王族が給仕などするものではないと言いながら妻には似たような事を求めている。は一体どのように振舞うのが正解だったのか分からなくなった。大凡、これが波風立たせぬ道だろうと今まで動いてきたが最近はうまく噛み合わない事が多い。イチジの考えは輿入れした頃から難解だったが、近頃はそれに箔がついてきたような気がする。常に彼らにとっての合理的を心掛けていれど、認識が合わないとなればこちらが合わせていくしかない。は、ふっと顔を伏せる。数分の沈黙が居たたまれない。それでも、どうすれば良かったのかを考えていると、イチジが呆れたように口を開いた。
「以前から思っていた事だが」
が顔を上げる。
「お前は相談するという事を知らないらしい」
「相談……ですか」
はて、とは自身の行動を省みる。言われてみれば、どんな事でも自己完結する事が常であったような気がした。にとっては、それはイチジへの配慮のようなものであり、そう在る事を求められていると考えていただけにすぎない。イチジは何事も必要以上に語らない性格だし、最低限で理解する事が自身の役目であると思っている。
……本当にそうだっただろうか。思い返す。の中でひとつ、印象的だった出来事を思い出した。いつだったかの式典の事だ。来賓を迎え入れる部屋に、何を置くかという話をイチジと交わしたことがある。ある程度の家具やインテリアの配置などを詳しく決めた後、華やかさが足りない事に気づいたイチジがへ問うたのだ。お前が花を飾るなら、何を飾るか――と。はその時に衝撃を受けた。この人が他人に意見を伺う事があるなんて、と思ったからだ。馬鹿にしているわけではない。イチジは自身の中で正解や答えを導く思考力があるし、徹底してそれを行ってきている。だから他人の意見など取り入れる必要もないとは思っていた。それが覆された瞬間だった。それ以来、イチジは自身へ意見を聞く事が増えた気がする。
「自身の選択が必ずしも正しいとは限らん。もしそう思っているのなら、それは単なる驕りだ」
「殿下からそのようなお言葉を頂くとは思っておりませんでした」
「何故」
「あなたは、自身の選択を常に信じておられたように見えましたので」
言えば、イチジは喉を鳴らし口角をあげた。先ほどまでの不機嫌さは無くなっている。
「ほう、おれが驕る王者だとでも言いたいのか」
「いいえ。私は、殿下の選択が事実全て合理的で最良だと思っております」
「誰しも得意分野というものがあるだろう。例えば、ニジはああ見えて戦時の状況把握を手早く済ませるし、ヨンジは直情的すぎるのが欠点だが、咄嗟の判断力に優れている節がある。レイジュの広い視野も侮れん。おれが常に最適解を選択できるのは何もおれだけの力ではない」
「そう、だったのですね……知りませんでした」
意外だ。この人が姉弟であれ他人を褒める事があるなんて。冷徹であるという事は何も、冷たいだけの性格ではない。洞察力にも優れているという事だ。しかし、だとしてもイチジはそのような事をわざわざ口外する男ではない。例え、が相手であったとしても。
何か心境の変化でもあったのだろうか――なんて考えるまでも無い。そういった些細な変化をあまり都合のいいものではないと見て見ぬふりをしていたのは一体何方だったか。気付いてはいたが、敢えて避ける事を選んだのはだ。自分たちに明確な夫婦らしさなど、在るべきではないと、高を括っていた。此度、反省すべきは須らくである。これこそまさに驕る王者というものだ。
「お前は独断が過ぎる。おれの半日を無駄にしたくせに、反省もないのか?」
イチジと視線が交差する。相変わらず、心の奥底まで突き刺すような目だ。以前はどうにも直視出来ずに、結局最後は逸らしていたが、今こそ向き合うべきなのかもしれないとは思った。も臆せず、イチジの目を真っ直ぐ見る。火花とガラスの瞳が互いの色を映して鮮やかな赤を宿す。互いに性質の違う赤であるのに、混じりあった色は言葉では言い表せない程美しかった。意識してイチジの顔を見る事も久々だ。特に大きく変わるところはないが、前よりも洗練され王の威厳を更に己の物にしている。イチジが王として成長するならば、もそれに着いていかなければならない。イチジの傍に在るべきは、この世で最も完成された美しく賢明な装飾品だ。にも、選ばれたからにはそれを成し遂げようとする気概はある。
「――大変申し訳ありませんでした、殿下。此度の失態、全て私の怠惰によるもの。どうか挽回の機会をいただけないかしら」
「勝手にしろ」
は黙って頷く。イチジの伝えたかった事は己の中で噛み砕けたはずだ。イチジは相談しろと言ったが、ここまで言われて更に伺いを立てればそれはそれで機嫌を損ねるだろう。必要以上に会話をしたがらないイチジがここまで口を挟む事など滅多にない。余程の行動に納得がいかなかったという事だ。夫の期待には応えねばなるまい。それが妻としての役割であるから。
「菓子は一旦片付けさせます。後ほど新たに作らせたものを殿下の私室へと持って参ります」
は侍女の名を呼び、茶会の後片付けを指示させた。小声で残っている物は使用人同士で分け合えと命ずる。勿体ない、などといった感覚は無いが食糧を無駄にする事は褒められた行為ではないだろう。
「収穫は済んでいるので出来ませんけれど……ウイスキーへイチゴを漬ける事ならばできます。漬け込みは五日ほどかかるので今夜中には飲めませんが」
「五日もかかるのか」
イチジがあからさまに怪訝な顔をした。こういう点は変わらないらしい。ただ、これに関してはにも非があるので口を噤む。イチジの言う通り、事前に相談をしていればこうはならなかった。
「既に漬け込んでいる物もございます」
「……いや、いい。味の違いがわからないと誤解されたままでは癪だ」
がそれを聞いて言葉を詰まらせる。イチジがその様子を見て、喉の奥で小さく笑った。まさかあの日のやり取りを全て覚えているとでも言いたいのだろうか。それならば大した記憶力だ。ジェルマの科学が成せるものなのか、それとも単にイチジの中で何かしらの感情と共に残っていただけなのか。には分からない。
「はぁ。それでは城のキッチンにて、イチゴの鑑定でもして頂きましょうか」
はそう言って、目線をイチジから温室の外に建つ城へ向けた。そのまま、予め説明しておいた方が良いだろうと思いイチゴのウイスキー漬けの作り方について淡々と説明し始める。故に、気付かなかった。静かに話をするを見ていたイチジの目が、存外、普段よりもほんの少しだけ和らいでいた事を。
ストロベリィ・ディスタンス
イチジ様、お誕生日おめでとうございます!イチゴシリーズは一旦おしまいです。また来年。 2025年版