太陽の暖かな日差しが温室内に差し込む。花たちはそれを全身で浴びながら、我先にと背伸びをしているようだった。が水を撒けば、光が反射してより一層、黄金のドレスを纏って華やかに咲く。いつ見ても花というものは美しい。妃の仕事やら何やらで疲れ切ったの心を癒してくれる。は、人前では滅多に見せない微笑を携えて、深呼吸をした。そうすれば、近くで待機をしていた侍女数名が息を飲む。陽光に照らされた薄紫の糸が、の呼吸に合わせて陶磁器のような白肌を滑っていく。シルク生地の上質なアフタヌーンドレスと風に舞うレースやリボンも相まって温室に舞い降りた花の精と称しても間違いないだろう。は微かに目を伏せた。大袈裟な、と思えどの美貌の前に一般人は無力だ。は諦観の意を込めた溜め息をひとつ零してから、もう一度息を吸った。呼吸の度に花の良い香りが心を満たす。ずっとここに居たい気持ちはあれど、まだやるべき仕事を残してきている。机の上で山積みになったまま放置してきた書類を思い浮かべ、は軽く頭を抑えた。王子妃という立場も楽ではない。成すべき事も、やらねばならぬ事も数え切れない程存在する。は小さくため息を吐いてから、温室を後にした。
自室があるイチジ城へと向かう途中、城壁に沿うように植えた藤の苗が成長し、壁を伝いながら花開いているのを確認する。近寄れば、ふわりと甘い香りがして思わず藤の花に左手を伸ばす。の華奢な指に藤の花びらがはらりと落ちる。そっと撫でてから手を降ろす――際に、は違和感を抱いた。
「あら……?」
左手をじいと見てみれば、薬指の部分に薄っすら赤い線が見える。そこは常に婚約指輪を嵌めている場所なので、軽く鬱血しているのは理解できた。けれど、問題なのはそこではない。何故、鬱血痕が見えている?
考えるまでも無い。
「うそ……。もしかして、何処かに落とした?」
息が詰まるような感覚がする。は少々焦りの気持ちを抱き、慌てて周囲を見渡すが視界がぐるぐると回っているようだった。当然だがそう簡単に見つかる訳もない。思わず声を上げて侍女を呼んだ。
「ナスタ……ナスタ!」
珍しく声を上げるに驚いたのか、ナスタは目を丸くしながらの元へ駆け寄る。は駆け寄ってきたナスタの両肩を勢いよく掴む。けれど、その指は微かに震えていた。普段の冷静さは影も形もなく、切羽詰まったようにナスタの肩を揺さぶった。喉が強く締めつけられるような感覚と、背筋を駆け上がる冷たい焦燥。心臓が嫌な音を立てる。こんな感覚、久しくなかったはずなのに。
「どうしよう、婚約指輪を落としたかもしれない……」
「なんと……! 急いで探させます」
ナスタはそう言って直ぐに侍女へ的確な指示出しをする。はその様子を呆然と見ている事しかできなかった。普段であれば、自ら考え適切な行動を取ることが出来るが。ナスタの後ろ姿をはただぼんやりと見つめる。
「……妃殿下は部屋へとお戻りください。お仕事もあるでしょうから」
ナスタのその声にハッとして、は止まった脳内を直ぐに動かした。一瞬思考した後に
「――いえ。私も……探すわ」
と、返事をした。
***
一度、ナスタや侍女らと離れ、は城内へ戻った。昨日までは確実に存在していたし、今朝もしっかり指に嵌まっていたので、落としたとなれば今日訪れた場所の何処かに違いない。幸いにも、今日は私室と温室の行き来しかしていなかった為、あるとすればその二か所に加えて道中くらいだ。隈なく探せば、今日中に見つかるだろう。は小さく安堵の息を漏らした……ところで、ふと、疑問が浮かぶ。
「どうして私……こんなに、慌てているの」
失くしたと知った夫に何か言われると思うから? それとも、単に契約の証である物を失った状態だからだろうか。きっと、そのどちらでもない。イチジは指輪を失くした程度で何か物申してくるような男ではないし、そこまで自身に関心もないだろう。後者も、指輪だけが契約の全てではなく、そういった書類が存在していている為、指輪を失くしたからといって契約が破綻になる事も無い。ナスタが言っていたように、侍女に全てを任せては仕事に没頭する事も出来たはずだ。わざわざ自分も一緒になって探そうとしなくとも。
何故自分は、そこまでして探そうと思ったのか。考えても答えなど出そうにない。
「……。まあ、いいか」
そういう時は、考えない方が楽だ。思考を放棄して、は指輪を探す事に集中する。温室は先程ナスタや他の侍女が探しに行くと言っていたし、自分は温室から私室までの道と私室を探した方が効率が良いだろう。道中は戻る間に見ていけばいい。そう思い、下を向きながらは視線だけきょろきょろと動かして、小さな指輪を探し始める。
ジェルマ城の廊下は横にも広い。一人で探すにはなかなか骨が折れそうだが、現在の時刻は昼。兵士たちは訓練の真っ最中であるし、侍女達も昼食やその他の仕事で忙しなくしている頃だ。誰かに頼もうにも、他に思いつくのは王族の皆ではあるがまさか総帥に物探しを頼むわけにはいかない。ニジは面倒がるだろうし、ヨンジとレイジュは任務で不在だった。イチジに頼むなんて以ての外である。論外だ。ヨンジとレイジュであればもうしかすると手伝ってくれたかもしれないが、居ないのであれば自ら探すほか道がない。
「運が悪いわね……」
なんて独り言ちながら、冷たい石の廊下をゆっくり歩く。時折左右を確認し、それらしき物が落ちていないかを探す。派手な物ではないが、特徴的な物だ。落ちていればすぐに分かるはず。
の婚約指輪は、通常の銀や宝石で作られたものと少し趣が異なっていた。指輪のアーム部分、指に嵌めるところは銀ではなく陶器のような物質で、色も乳白色に近い。ショルダーやベースも色を見てみるに、同じ素材で出来ている。サイドストーンはラウンドブリリアンカットが施されたダイアモンドで、最高ランクのものが使用されているが、センターストーンである宝石は、そういったものに詳しいでも見たことがない宝石が使われていた。色味はルビーを彷彿させる鮮やかな赤色ではあるが、何処か生々しさを感じさせる色をしているのだ。それに、日によって色味が若干変わっているような気がした。鮮やかな赤色の時もあれば、くすんでいる時もあるし、黒っぽいような色になっていた事も記憶に新しい。
(経年劣化……? そんな事あるかしら)
廊下に敷いてある、赤いカーペットを見ながらは思う。布などの有機物であれば、踏めば土汚れがつくし、年数が経てば経つほど縒れたりもすれば綻んだりもする。所謂経年劣化というものだ。だが、アームの陶器のような何かはともかく、指輪に使われているダイアモンドとルビー――そう仮定する――は無機物だ。無機物に経年劣化など無いに等しい。物質的に安定しているからだ。それに、がこの指輪を渡されたのは二年前であり、二年で劣化する無機物など聞いたことがない。考えれば考える程、何で作られたものなのか分からなくなってくる。お得意の科学でそういった加工を施したというならば話は変わってくるのだろうが……。
そんな事を考えており、かつ探し物をしていた為に下を向いている事も相まって、は前から近づいてくる影に反応できなかった。スッ、と突然現れた何者かの足に驚いて思わず顔を上げる。そうしてそのまま、鈍い音を上げてぶつかった。あ、と声を上げる間もなくはバランスを崩して、ゆっくりと後ろに倒れていく。咄嗟に受け身を取ろうにもバランスを崩したままではどうしようもない。襲い掛かるであろう痛みに耐える為、ぎゅうと強く目を瞑った――――が、既所で誰かがの腕を雑に掴む。ばち、と電気が流れるような音と共に、引き上げられたと、その誰かの目……ではなく、暗く底の見えないゴーグルが視界に入った。
「おい、前見て歩けよ鈍臭ェな」
海のように深い青の髪を風に撫でさせている。野蛮な言葉使いに似合わず、何とも爽やかな景色だ。
「ニジ殿下」
は、無機質な赤い瞳をほんの少しだけ見開く。それを見て、ニジは眉を顰めたがそれも一瞬の事で、が両の足で立ったのを確認し直ぐに腕を離した。は軽くドレスを手で叩き、身なりを整える。そうして、ニジへ向き直った。
「……ありがとう、ございます。探し物をしていたので気づかず」
「そうかよ」
ニジの視点からの事は確認できていたはずだ。自分が避ければよかったのに、とは言わなかった。言ったところで素直に聞くような相手ではない。とはいえ、ほんの少し皮肉を言ってやってもいいとは思うのだが、助けられた手前そういった振る舞いをするのは憚られた。転びそうになっていたところを放置された訳でもない。……まさか、助けられるだなんて思ってもいなかったけれど。
ニジとは、ジェルマに来た頃から仲がいいわけではない。寧ろその逆で、ニジはよくを揶揄って――嫌がらせと言った方が妥当かもしれない――はよく不愉快な気分にさせていた。も不愉快になりつつも、ニジのそういった悪戯を物ともせず淡々としていれば「つまんねェ女」と言って去っていくので、互いに深入りをするような関係でもないのだ。ましてや困っている時に手を差し伸べるだなんて、想像もできなかった。
「ったく……。お前を怪我させたら……」
ニジは何かを言いかけたが、敢えて言葉を濁しを睨みつける。
「怪我させたら、何なのです?」
は普段の表情を崩さず、冷静に問い返した。そうすれば、ニジは居心地悪そうに舌打ちをし
「別に、何でもねェよ」
と言う。言葉の先に続くものがあった事は確かだが、本人が口を閉ざしたいのであれば仕方がない。特段、もそれに関して追求するつもりもなかった為、そのまま会話が途切れた。しん、と静かな風の音がふたりの間に流れる。遠くの潮騒もはっきり聞こえるくらいだ。はその静寂に何も感じなかったが、ニジは苛立ちを少しも隠そうとせずに足先でコツコツと床を鳴らす。
「ンだよ、まだ何かあるのか? 何も無ェならそこ退けろよ」
「……」
はふと、思いつく。ニジは急いでここを立ち去る予定は無いらしい。何かある場合は、を助けた後、無駄な話はせず直ぐに居なくなっていただろう。そうしないのであれば、急ぎの用は無いはず。ならば、この際、一緒に探し物を手伝ってもらうのはどうだろうか。もちろん、ダメで元々、当たって砕けろくらいの気持ちではあるが。こういった手伝いをニジは嫌うだろうし、面倒そうにするであろう事も想像に易い。ただ、人手が欲しい事も事実だ。一人で探すよりも効率がいいだろう。
「あの、ニジ殿下。急ぎの用事などはございますか?」
「あ? 別に、無ェけど」
その返事に、は妖しく優雅に微笑んだ。そうして、わざとニジの手を徐に取りながら懇願するように目を見つめる。
「探し物、手伝ってくださらない?」
ニジは、一瞬硬直した後に
「はァ!?」
と声を張り上げる。静かだった廊下が一気に騒がしくなって、の耳がきぃんと鳴った。
こつり、かつり。ヒールとローファーが石畳を歩く音と、そよぐ風の音がニジとの耳に届く。遠くにある訓練場からは兵士達の勇ましい声や剣同士がぶつかる金属音が鳴り響いている。ジェルマ王国らしい、穏やかな昼下がりだ。ニジは廊下の右側を、は廊下の左側を注視しながらゆっくり歩いている。数十分程かけているが、指輪は未だに見つかる気配が無い。不機嫌さを隠しもせず、けれどだんまりを貫いていたニジがようやく口を開いた。
「何処にもねェな……」
「廊下ではなさそうですね」
「やっぱりお前の部屋じゃねェの?」
ここまで探して見つからないとすれば、その可能性も大きい。温室を探している侍女たちもまだ戻る気配がなかった。きっと見つかっていないのだろう。……とすれば、私室に置き忘れているかもしくは落ちているかに違いない。ちょうど、この先の角を曲がればの私室がある。一旦廊下は切り上げて、私室を探すべきだろうとも感じていた。
「そうね……。では、私の部屋に参りましょうか、ニジ殿下」
「おれもかよ」
「あら、最後まで手伝ってはくださらないの?」
そう言えば、ニジは億劫そうに溜め息をつく。断られるかと思ったが、ニジは気怠い返事をした後にの私室へと歩みを進めた。ニジのこういうところは、まるでイチジを見ているような気持ちになる。一卵性多生児であるから、顔はそっくりと言っても過言ではないし、性格や性質にも似通った部分があるのは当然の事だが、ほんの少しだけ微笑ましいと感じた。ニジの後に続き、も自室へ向かう。ニジは部屋の前に着いた後、直ぐに開けようとせず扉の横で立ち止まった。
「……どうぞ?」
何故入らないの、という言葉を言外に潜ませは声をかける。
「バァカ、何でイチジの女の部屋におれから入らなきゃいけねェんだ」
「いつもは勝手に入ってくるじゃない」
「お前が中に居ればの話だろ」
ああ言えばこう言うわね……と思いながらも、は渋るニジを横目に自身で扉を開けた。大きなアーチ状の窓から真昼特有の暖かい光が差し込んでいる。
広々としており、王族らしい部屋だ。故郷にいた頃の質素な部屋とは比べ物にならない。ジェルマに来たばかりの頃はあまりの広さと天井の高さに唖然としたものだ。の部屋は、王子やレイジュの部屋と比べても随一の優雅さを持つ。全体の色調はホワイトとゴールドを基調とし、清潔感がありながらも格式のある空間だ。純白で揃えられた家具と大理石の床、敷かれた豪華なグレーのカーペット。壁は白を基調に美しい金の装飾が施されている。天井には美しいレリーフと豪勢なシャンデリアが飾られており、夜になると私室はその柔らかい光で包まれ穏やかな時間を過ごせる工夫がされていた。窓からはジェルマ王国が一望できるようになっていて、遠くに見える海と地平線が美しい。下に訓練場が併設されている為、騒がしい事には目を瞑っている。窓の傍に備えられたベッドは、四柱式の天蓋付きベッドだ。白いシルクやレースのカーテンが垂れており、主人であるに相応しい優雅さを醸し出している。その他、鏡台や椅子、テーブルにクローゼットやチェスト、ウイスキー棚など。どれも白や金で彩られたものだ。は特に、鏡台を気に入っている。アンティーク調のデザインで、大きな鏡を嵌め込んでいる枠部分に繊細な植物の装飾が美しく彫り込まれているのだ。家具としても、インテリアとしても優秀なのである。部屋の一角には書斎スペースがあり、は休日――公務や外交が無い日の事だ――によく使用していた。ライティングデスクもある為、個人的に関心のある分野や科学について学びたい時にはここで勉強に励むのだ。立てかけられた羽根ペンやインク瓶には銀細工が施されている。
また、の部屋の特徴として欠かせないものは、部屋中に飾られた色とりどりの花だろう。どれもが手ずから育てているものを摘んできている。季節ごとに取り替えられ、部屋に優雅な香りを添えている重要なインテリアのひとつだ。
は普段、この静かで上品な部屋で、植物や書物に囲まれながら静かな時間を過ごしている。故郷に居た頃では、部屋など寝ることが出来ればあとはどうでもよいと感じていたが、ジェルマに来て初めてその考えが間違っていた事に気づかされた。固く冷たいベッドで寝るよりも、空に浮かぶ雲のようにふわふわと柔らかく包まれるような暖かさの中で寝る方が疲労回復の度合いが全く違う。狭い机で仕事をするより、大きく広々としたスペースのある机で仕事をした方が進みも早く、より効率を求めて働ける事を知った。また、自身の趣味や感性に合わせた部屋にする事で部屋に居るだけで生活の質が上がり、満足感がある……ような気がしている。
閑話休題。
ニジはの部屋を見渡し
「相変わらず落ち着かねェな、この部屋はよ」
と悪態をつく。
「悪かったわね、落ち着かなくて」
はニジを軽く睨みながら呆れたように返事をした。それに対し、ニジは特に歯牙にも掛けずけらけらと小馬鹿にしたような態度を取る。感じ悪いと思いつつも、は何も言わない。
「白一色で、味気無ェ。まァ人形にはお似合いだな」
「……そうかしら。ごたごたしているより洗練されていて、綺麗だと思うけれど?」
「ハハ、戦場で轟く雷の方がよっぽど"綺麗"だろ」
ニジはそう言って、にんまりと笑みを浮かべた。綺麗だ、なんて口では言うものの、実際には何とも思っていないのだろう。そう思える心は、ニジにはないのだから。
「その下で何人死んでいるのかしら。血生臭いったら……」
は小さく溜め息を吐く。この手の話にはもう慣れた。ニジに限らず、ヨンジやイチジも似たような例えを持ち出す事は日常茶飯事だからだ。初めこそ詳細に想像しては気持ちが悪くなったりもしたし、今もニジはそれを望んでいるのだろう。顔を見れば分かる。敢えてこの話になるよう、話題を振ったに違いない。これがニジの嫌がらせであり、戯れの意味を持っていると気付いたのは最近の事ではあるのだが。第二王子殿下は仕様もない遊びが好きらしい。
「ニジ様は部屋の左側と書斎をお願いできる? 私は右側を。鏡台とジュエリーボックスから探してみるから」
生憎とニジの思惑に乗っている時間はには無い。一刻も早く探し出さなければイチジが訓練から戻ってきてしまう。あからさまに機嫌の悪そうな舌打ちが耳に届いたが、無視を決め込みジュエリーボックスを手に取る。これも例に漏れず白と金色が使われており、小さいながらもボックス自体がそれなりに良い値段がするし、インテリアとしても無駄な部分が無く最適だ。留め具を外せばかちり、と音を立てて箱が開く。中には色とりどりの宝石が所狭しに、けれど整然と並んでいる。ダイアモンド、ルビー、サファイア、エメラルド、ネオンピンクスピネル、アメジスト。場所や用途、格式などで使い分ける為に様々な宝石を所持しているが、近年は赤色がより多くを占めるようになってきた。理由は単純明快で、その方がイチジの隣に立っていて違和感のない色だからである。青や緑を取り入れる事はあるが、あまり出番はない。指輪を並べている箇所に目をやるが、やはりそれらしき物は無く取り出されているようだった。取り出したのは自分なのだから、無いのは当然である。もしかして、と微かな願いを込めていたが無駄だった。はぁ、と溜め息を吐く。
本当に、何処に落としてしまったのだろう。廊下に無いのであれば、私室か温室のどちらかである事は明白だが今のところ侍女たちは戻ってくる気配もないし珍しい物とはいえ指輪は指輪だ。何処かの隙間に入り込んでしまったのであれば、見つけるのは相当困難である。不安と焦りが募っていく。そこに在る物が無い、というのは非常に違和感を覚えるものだ。はジュエリーボックスを鏡台の上に置き、左手の薬指に触れた。殆ど無意識の行動だった。鬱血した痕が薄れかかっていて、尚更の焦燥感を増幅させる。落ち着かない。早く見つけないと……と振り返ろうとした刹那、ニジがひょい、と横から顔を覗かせた。
「うわ、赤ばっかりだな」
「っ……!」
思わず軽く飛び退いた。
「なァに呆けてるんだよ。無ェもんは無ェ、さっさと探せ」
「そ、そうね……」
正論だった。まさかこの男から正しい事を言われるだなんて、と少しの驚きと若干の屈辱感を抱きはベッドの下や家具と家具の隙間などを念入りに探し始める。ニジもそれに倣って、今のところは指示した通り、部屋の左側を中心に探すのを手伝っていた。仮に見つからずとも、後ほどニジには何かお礼をしなければならない。王子に雑用のような事をさせているのだ、一般的な報酬では見合わないだろう。
(ブルーベリーが有名なお店のデザートでも取り寄せようかしら……)
なんて事を考えながら、部屋の右側を見渡す。
暫くだんまりと部屋の至る所を探してみるが、やはり指輪の影は何処にも無い。疲労も溜まってきている。はニジに軽く声をかけ、ソファに掛けるように言った。ニジも反論などはなく、やっと解放されたと言わんばかりにどさりとソファに沈み込んだ。
「言っておくけれど、終わりではないわよ。休憩するだけ」
「わァ~ったよ、でも何処にも見当たらねェじゃねーか。素直に謝っときゃイチジも何も言わないだろ?」
「……別に、失くしたと言ってもあの人は何も言わない事くらい分かってるわ。そうじゃなくて、これは私の気持ちの問題」
あなた達には理解できない部分じゃないかしら、と付け加える。案の定、ニジはそういうもんか、と適当に相槌を打って会話が途切れた。は気にせず、簡単にお茶を淹れてニジに差し出す。
「紅茶でいいかしら」
「酒は無ェのか」
「……あなたのお兄様の物だけど、それでもいいなら」
は、この部屋にはどこか不釣り合いなウイスキー棚に視線を移す。
「……なら、いい」
「あら。食い下がると思ったけれど、そうではないのね」
「イチジの物に勝手すると面倒な事になる」
「殊勝ですこと。殿下が怖いの?」
「次期国王に逆らう奴がどこにいるんだよ」
は、静かに息を飲んだ。ああ、そう言えばそういう部分にも改造が施されているのだったと思い出したから。
本当に、彼らのこういうところは見ていて嫌悪感を覚える。大変に合理的で美しく、何よりも歪な部分だった。人間であって、人間ではない。結婚当時はそれでいいと思っていたが、毎日毎日、価値観が違う事をまざまざと見せつけられ話が通じないとなれば別だ。もちろん、人間らしさなど無いに越したことはないのだが、話が通じないという点については厄介だ。こちらが慣れるしかない、と諦観する事にしているが本当にこの国は怪物の国なのだと、自分はまだまだ、嫌いな人間に属しているのだと思わされるのが一番の苦痛だった。人間でいたくないのに、この国にいると嫌でも自分は人間であると知覚させられる。
イチジとあまり会話をしない理由も、これが原因だ。普通に話しているだけなのに、話が噛み合わない上に心を見透かされているような発言と、感情が無い故に容赦なく人の心を踏みにじって蹂躙してくるその厚かましさは、称賛を贈りたいほどだった。あれと会話をしていると、は大抵、氷の仮面を外さないといけなくなる。心が乱されるというのはどうにも、不快だった。ただ静かに、自由さえあればいいと思って暮らしているというのに。いっそ彼らのように、本当に心を失くせたなら……なんて考えが過るのはよくある事だ。
の表情が曇る。
「……合理的ね。無駄な所が一切なくて、美しいわ」
「褒めてんのか、それ」
「えぇ。悩みなんて無さそうだし、羨ましいとさえ思うわ」
「馬鹿にしてるだろ」
「本当にそう思っているわよ」
「――お前って、ほんとつまんねェ女だな」
ニジは呆れたように言う。
「イチジは何でお前を娶ったんだろうなァ。やっぱり顔か?」
「政略結婚なのよ? お義父様の命令は絶対なのでしょう、それ以上でもそれ以下でもないわ」
「教科書通りの答えだな。理路整然としていて、無駄がねェ。おれから見ればよっぽど、お前の方が合理的なんじゃねェの?」
「何が言いたいの」
はニジを見る。瞳は夜闇の向こうに隠されていて、表情すら確認できない。けれど、こちらを嫌悪している事は感じ取れた。
「操り人形みたいで気持ちが悪い。お前、本当に感情あんのか?」
思わぬ言葉に、はふ、と笑みを零す。可愛らしいものではなく、けれど馬鹿にするようなそれでもない。どこか遠くを思うような、掴めない表情だった。
「あなたがそれを言うのね」
ニジから見れば、こちらの方が気持ちの悪い存在らしい。それもそうか、とどこか納得した。彼らは戦争を通して人間を見ている。死を間近にした人間を。未練や無念、怒り、悲しみ、苦しみ、エトセトラ。どんな時でも、人間は感情を露わに、心のままに動くものである。きっとニジは、からそれを感じ取る事ができないと、そう言っているのだろう。彼らの視点では、の心は無に等しいらしい。
「――でも、ニジ殿下からそう見えるのなら……、私にとっては都合がいいわ」
「はァ?」
「こちらの話よ」
「訳が分からねェ……。気味が悪い女だぜ全く」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてねェよ」
お前と話していると疲れる、なんて言いながらニジは立ちあがった。辺りの床を凝視している事から、指輪探しを再開したらしい。良心なんて存在しないのだから、手持ち無沙汰になった上に自身と話す事にも嫌気がさしたのだろうとは察する。ニジに倣って、も立ちあがったのと同時、ニジが口を開いた。
「なァ、イチジとはどうなんだ」
「どうって……?」
質問の意図が掴めなかった。ニジがこちらに顔を向けていないせいで、その表情も見えやしない。
「楽しいのか? それとも退屈か? 何かあンだろ、思う事くらい」
「それを聞いたとして、あなたに何か関係はあるのかしら」
「あァ? ……別に。弟として聞いているだけだ」
「……普通よ。言ったでしょう、政略結婚だと。何を聞きたいのか分からないけれど……私たちの間に在るのは契約だけ。形式上の夫婦なのだから楽しいとか退屈とか、あったとしても意味のないものじゃない? どうでもいいわ」
はそう言い切る。本音で話したつもりだ。楽しいと思った事はないが、退屈だとも思っていない。互いに好きに行動していて、自由がある事はも良しとしている部分だ。妻としての役割さえ果たしていれば、望む物を得ている。愛し合う夫婦がするものなど自分たちの間には、必要ない。互いの義務さえ果たしていれば、それでいい。
けれど、ニジは不機嫌でどうにも不服だと言いたげな雰囲気を隠さなかった。の方を振り返る。眉根を顰め、漆黒のゴーグルの奥に青い電撃が瞬いて弾けた。
「じゃあ、何で指輪なんか探すんだよ。どうでもいいなら、放っておいたっていいんじゃねェのか」
「そ……、れは」
自身でも感じていた違和感を突かれ、は口籠る。ニジの言う通りだ。けれどその矛盾を自分で説明できない以上、何も言えなかった。僅かに震える指先を、ドレスの裾で隠す。ニジが足音を高く鳴らしてに近づく。イチジとは正反対の、真っ青で深い海色がじわりと思考を浸食した。内包しているものは怒りだと察する。静電気が指先に弾けるような音がずっと耳に届いていた。
ニジはそのままぐい、との腕を引いて、電気が通いそうもないガラス玉の瞳を覗き込む。
「なァ、教えろよ。何も無いんじゃ、あいつが可哀想じゃねェか」
「何の、話……ッ!?」
「お前を見ているとイライラする。イチジを失望させるなよ女、お前はあいつの事を何ひとつ分かっちゃいない。失くした物だって本当は指輪じゃねェ……あれは」
刹那の事だった。閉まっていた扉が、がちゃりと音を立てて開く。こつり、と小さいはずの靴音がやけに大きく聞こえた。扉から吹く風が、ひゅうとの前髪を持ちあげる。
「――やけに騒々しいと思えば。どうした、ニジ」
「……イチジ」
ニジはイチジを見るや否や、掴んでいたの腕を乱雑に離した。反動で態勢を少し崩し、よろける。あれほど激しく鳴っていた電気の弾ける音も、イチジの来訪で消えた。落ち着きを取り戻したのか、それともまた別の要因であるかはには到底理解できるものではない。
「何でもねェよ」
「そうか。それにしては随分と腹を立てていたようだが」
「……腹減って気が立ってただけだ」
嘘だ。断言できる。ニジの怒りは確かに、へ向けられていたし、お腹が空いていたなどというちゃちな理由でない事は明白だというのに。
「先程昼食を食べたばかりだろう?」
イチジはその事に気づいているのかいないのか、どうにも曖昧な表情と言葉で返事をする。一卵性多生児の息の合った会話に混じる事など出来ず、は二人の様子を静観していた。軽く会話を交わしたのち、ようやっとイチジはへ目を向ける。ニジへ向けていたような瞳ではなく、炎とはかけ離れた冷たさを宿したそれはほんの少しだけ不気味さを感じた。意図せず背筋が伸びる。
「――殿下。本日は……何用で?」
声が震えていないか、不安だった。平静を装えただろうか。
「なに……、お前に渡す物があってな。届けに来た」
「仰ってくだされば、向かいましたのに」
「いや、直接渡すべきだと判断したまでだ。……来い、」
名を呼ばれ、はイチジの元へ歩みを進めた。扉まではたった数歩だというのに、足取りが重い。ぱち、ぱちと火の音が鳴る。普段の装いではなく、レイドスーツを着用しているからだろうか。レイドスーツで城内を歩く事など滅多にない。イチジのスケジュールを思い返せば、今は訓練の時間に割り当てられていたはずだが、早めに切り上げたのだろうかと思案する。それでも、いつもなら着替えてから城へと戻っていたはずだ。では、何か急ぎの用事が? 一切の判断がつかない。一体何をされるのか想像がつかず、イチジの前にたどり着いては僅かに視線を下へ落とした。
「手を出せ」
そう言われ、視線は下げたままおずおずと手を差し出した。刹那、何か小さな物を握らされる。ほんのりと熱をもったそれは、今まで欠けていた部分を静かに埋めるような、そよ風が肌を撫でるように違和感を拭い去っていく気がした。恐る恐る握った手を開く。そこに在ったものに、は大きく目を見開いた。
「これ、は……」
白磁のアームに、鮮やかな赤を放つセンターストーン。が探していた、婚約指輪そのものだった。
「あの、これ、何処で……?」
「訓練場だが」
「訓練場……、あっ――!」
イチジにそう言われ、は自身の行動をもう一度振り返る。訓練場に向かった覚えはない。けれど、直接訓練場に行かずともはその場所を訪れる事が出来る――窓を、開ける事によって。の部屋はちょうど、訓練場の上の位置にあたる。普段ならただ開けるだけで身を乗り出す事などはないが、今日はイチジが訓練をする日だった。物珍しさとほんの少しの好奇心で、仕事の合間にわざわざ自ら窓を開け、その姿をぼんやりと眺めていた事を思い出す。きっと、その時に運悪く緩んでしまい落ちてしまったのだろう。
手元にある指輪を、じいと見つめた。安堵の息を漏らし、ようやっと視線を上げてイチジの顔を見る。夜闇の奥から透ける赤が、静かにこちらを見ていた。未だに火の赤く跳ねる音は止まない。
「落としてしまって……。探しましたが見つからず、途方に暮れていたところでした」
言えば、イチジは微かに眉を動かす。何か想定していた言葉と違ったようで、けれどそれも束の間、普段の硬い表情へと戻っていく。
「何だ、てっきり捨てたのかとでも思ったが」
その言葉を聞いた瞬間、はイチジへ詰め寄り
「捨てるわけないわ!」
言い切った。そうしてすぐにハッとする。感情的に振舞った自身に驚きを隠せなかった。イチジに掴みかかろうとでもしていたのか、行き場を失くした右手が宙を切る。そのまま何事もなかったようにそうっと下ろし、小さく謝罪の言葉を述べた。
――なぜ、私は先程からこうも落ち着かない態度を取ってしまうのかしら? 理由も何も、見つけられていなかった。どくどくと鳴る心臓の音がうるさい。落ち着かなくて、気分が悪かった。指輪も既に手元にあるというのに、イチジの言葉だって普段のように淡々と否定すればよかったものを、思わず頭に血でも上ったかのような勢いで言い返してしまった。おかしい。どうにも自分は今、冷静に振舞うことが出来ないでいる。真水でも浴びてしまいたい気分だった。動揺を隠せない。おかしい、おかしい……。
そんな事を考えていれば、嫌味なほど落ち着いたイチジの声が頭上に振ってくる。
「……冗談だ。何もそこまで本気になる事も無いだろう」
「あ……いえ。冗談、のようには聞こえず……」
言葉を返せど、イチジはそれ以上何も言わなかった。そうして、数秒の沈黙の後にイチジはニジへと声をかけそのままの部屋を出ていく。一瞬、ニジは訝しんだ顔でこちらを振り向いたが、特に何も言う事はなかった。扉が閉まる際に吹いた冷たい風が、の肌を撫でる。指輪が戻ってきたというのに、到底落ち着けるような状態ではなかった。
はふらふらとした足取りでソファへ向かう。そうしてひとつ、大きく息を吐きだしてから身体の全てを預けるようにして思い切り沈み込んだ。かちかちと無機質な時計の音だけがの部屋を支配する。その音を聞きながら、はじいと指輪を見つめた。アームを親指と中指で挟んで、シャンデリアの光に曝すとセンターストーンの赤色が瞬いての瞳と重なる。ただの物体であるはずなのに、時折気泡のようなものが動いている気がして、どこか液体然とした感覚を覚えた。そうっと指先で触れてみればほんのりと熱を帯びている。じんわりとした――そう、まるで人肌くらいの。アームはどれだけ触れていても冷たいままなのに、センターストーンは触れずとも熱を感じさせるのは、何故なのだろう。やはりジェルマの秀でた科学で作られた石なのかもしれない。そう考える事しか、にはできなかった。
指輪を失くしてあれだけ冷静にいられなかった事も、落ち着かない理由も、幾ら考えたって答えが出ない事くらい、も理解している。自分の事なのに、他人の心を覗いて暴こうとしているような気分だ。
「――とりあえず、ナスタ達に伝えないと……ね」
考えても答えの出ない事は考えない。時間の無駄だと割り切って、も部屋を後にした。
***
革靴を鳴らして、石の廊下を歩く。全く、せっかくの非番だったというのにしてやられたと思った。貴重な休みを物探しなんかに費やしてしまうだなんて、馬鹿げている。けれど、そうするしかなかった。あの感覚を味わう事なんて、戦争中でしか有り得ないと思っていたのに。まさか、国に身を置いている時にも起きるとは想定外だ。全てあの女のせいなのだが。
「なァ、イチジ。あの女の何を気に入ったんだよ」
「の事か。……気に入るも何も、父上が決めた事だ」
イチジは当たり前の事だと言いたげにその言葉を口にした。けれど、ニジが聞きたかったのはそういう事ではない。政略結婚であり、父であるジャッジが決めた事だという事はニジでも分かっている。
「お前の意思の話をしてんだよ、おれは」
ニジは敢えて立ち止まり、イチジの目を見て言った。イチジも後ろを振り返り、ニジを見る。互いに闇夜に溶けるようなサングラス若しくはゴーグルで隔てていても、今どんな表情をしているかなど手に取るように分かっていた。滅多に表情を崩さないイチジが、ほんの少し眉を顰めたのをニジは見逃さない。ニジはイチジの返答を待つ。
「……おれの? 欲を語らず従順で、何より美しい。飾りの妃として申し分ないだろう」
考える素振りをしたのも束の間、イチジはつらつらと、まるで最初から答えを持っていたとでも言わんばかりに答える。イチジの言う事に、嘘は無い。本当にそう思っているらしかった。
(それにしては、随分入れ込んでるじゃねェか)
けれど、それだけではないのだろうとニジは思う。そうでなければあんなものを手渡しはしない。当時に作った物とはいえ、流石のニジでさえ悪趣味が過ぎると思った。きっと当時から、思う事はあったのだろう……イチジはそれに気付いていないようだが。それとも、気付いていないふりをしているのか。
あれは美しい宝石のような女だ。観賞用として欲しいと思う事は理解できる。だが、良くも悪くもそれまでなのだ。きっとヨンジも同じ事を考えているだろう。この国以外の人間は、あれを見たら狂うらしいが、生憎我々に小細工などは通用しない。イチジも例に漏れず、あの女がどれだけ着飾ったところで美しいと思えどそれまでに違いない――違いない、はずだ。だというのに、どうにも最近のイチジは何処かずれているように思う。様子がおかしいだとか、不具合が起きているとかそういう類のものではないが、言葉にできない違和感とでも言えばいいのだろうか。
それもこれも全部、あの女のせいなのだろう。嗚呼、腹が立つ。イチジの事を塵一つも理解していないくせに。失くした物の重要性すら、分かっちゃいない。
「おれはつまらねェと思うけどな。相変わらず、女の趣味が悪ィ」
「お前には言われたくないな」
イチジはからりと笑う。反して、ニジはずっと不機嫌だった。イチジの言う事は理解している。頭では分かっているが、どうにも腑に落ちない。
「今日はやけに踏み込んでくるな、ニジ。嫉妬でもしたか?」
「ンなわけねェだろ! 何でそうなるんだ」
「そう怒ってやるな。……あれは優秀な女だ。捨てるには惜しいだろう、お前も同じ考えだと思っていたが違うのか?」
「でもよ、あの女。お前を失っていた事にも気づいてねェんだぜ」
そう言えば、イチジは軽く喉を鳴らして黙り込んだ。言外に察しろと言っている。イチジがそれでいいのなら、ニジはそれを認めぬ訳にはいかなかった。それが王の判断なら、付き従うまでだ。異論はない。……納得しているとも、言えないが。
――あーあ。イチジのこういうところ、少し面倒なんだよなァ。
日がすっかり落ち、空を漆黒と深い青が覆う。点々としたきらめきが灯り、欠けた月が仄かに明かりを放つ時間。の私室も昼間とは違った姿を見せる。陽光ではなく、月光を浴びた部屋は神秘的な雰囲気を醸し出していた。シャンデリアの淡い光と窓から差し込む月明かりに照らされた白いレースのソファに男女がふたり。寄り添うでもなく、かといって離れすぎない絶妙な距離感で座っている。邪魔をする者の影はない。静寂が支配する空間を破ったのは、男――イチジの方だった。
「相変わらず、よくできた部屋だ」
イチジがそう独り言ちれば女――は
「味気が無いとでも言いたいの?」
と問うた。
「いや。部屋の主人に似て、優雅で麗しい……芸術作品のようだと思っている」
「……そう」
は、興味なさげに呟く。イチジの表情を見て、それが揶揄いの意図を含んでいる事に気づいているからだった。こちらを試しているかのように口角を上げている。本当はそんな事を思ってすらもいない、の感情を揺する為だけの美辞麗句だ。つまりは遊んでいるのだ、で。もちろん良い気はしない。けれど、それに対してまともに取り合う必要も感じていない。イチジもがどのように行動するかなど理解していたようで、それ以上は何も言わなかった。
一瞬の沈黙。はイチジが喋らない事を見計らって、徐に唇を動かす。
「ねえ、どうして指輪を捨てたかもしれないと思ったの」
「冗談だと伝えたはずだが」
「嘘。――怒っていたじゃない、目を見れば分かるわ」
そう言われ、イチジはの瞳を静かに見つめた。ガラスを彷彿させる瞳はイチジと同じ赤色だというのに、あまりに無機質でつまらない。この瞳を見ても、が何を考えているかなどイチジには理解できなかった。感情表現が希薄な娘は、自身の感情には疎い癖に他者から向けられる感情には鋭いきらいがある。本来であれば好ましい事なのかもしれないが、イチジからすれば厄介な部分だった。敏いという意味では優秀だが、隠した感情まで見破られてはそれは過ぎた能力だ。
「深い意味はない。契約を反故したがっているのかと思っただけだ。王の名に泥を塗るつもりかと」
「……私に帰る場所なんて無いわ。嫌でもここに居るしかできないのよ」
「嫌なのか?」
「まさか。故郷に帰るくらいなら海に沈むわ」
は深く溜め息を吐く。嘘ではない。この国は居心地がいいと言い切ることはできないが、故郷と比べたら遥かに状況がいい。生贄として身を売られたようなものだが、寧ろ感謝しているくらいだった。感謝する事はあれど、イチジを、ジェルマ王国を恨んだ事は過去一度も無い。
「恩知らずではないのよ。与えられたらちゃんと返すわ」
ふと、左手の薬指に熱を感じた。じんわりと、身体を浸食するような熱に無意識的に指輪に触れる。
「どうかしたのか」
イチジが問う。丁度良い機会だと感じ、は指輪に対して感じていた事を尋ねた。
「この指輪……、一体何で出来ているの? ただの陶器ではないわよね。陶器にしては堅すぎるわ」
は続ける。
「石も……ルビーのように思えるけれどそれにしては色も透明感も全く違うし、時折色が変わるのよ。何より、生の鼓動を感じるわ。無機物なのに……。まるで、そう」
――生きているみたい。
指輪を見つめながらはそう締め括った。イチジに尋ねている間にも、指輪は熱を放出している。と言っても、指輪を嵌めているにしか分からない程度ではあるのだが。センターストーンに、薄っすら火が灯ったような気がした。ぱちり、ぱちりと静かに弾ける様はイチジの目を見ているようだった。
かたかたと風が窓を揺らす。がふと視線をそちらに向けると同時に、イチジが口を開いた。
「あァ……言ってなかったか」
かちり、かちりと秒針の音が鳴る。妙に間を持たせるような口ぶりには息を飲んだ。イチジの目を見ると、まるで悪戯を企んでいる子供のように無邪気で、けれど明らかに据わっている。その不安定さには肩をふるりと揺らした。今から何を言われるのだろう。恐ろしかった。きっと、禄でもない事なのだと直感で理解する。
「それはおれ自身だ」
風が空を切った。遠く、潮騒の音が響き、十二時を告げる鐘が鳴る。
「えっ……?」
理解が、追いつかなかった。この指輪は、イチジ自身らしい。一体どういう事だ。頭が痛い。きっと、考えてはいけないものなのだろう。けれど、思考を張り巡らす。の持てる知識を総動員して、ぐるぐると何度も何度も、思考した。そうして、ふと、閃く。いや、そんな、まさか。じわりと額に汗が滲む。口の中が渇いて、ごくりと喉を鳴らす。心臓が早鐘を鳴らしていた。
は、大きく目を見開いてイチジを見る。その表情は嫌味な程、楽しそうだった。
「気付いたか? 全く、お前は本当に聡いな」
やめて、その先は言わないで。言外にそう伝えたとて、聞く男ではないと分かっている。の願いも虚しくイチジは高らかに告げた。
「そう。外骨格と、おれの血液だ。お前の為におれで作ったオートクチュール……婚約指輪に、相応しいだろう?」
イチジは淡々と語る。炎のような瞳は静かに、しかし確かな熱を孕んでいた。どうやって作ったの、などとは聞けない。それどころではなかった。
――こんなの、まるで……!
「呪いだ……とでも? ならば、その通りだ。永遠に消えない、王の印を与えたようなものだからな」
「ッ……!」
「自分が何者か、指先ひとつで思い出せるように――な、」
自身の一部を身に着けさせるだなんて、気が狂っているとしか思えない。思わず顔を下げる。けれど、それはイチジが許さない。ぐい、と顎を引かれイチジの炎が弾ける瞳と視線が交差する。ゆらゆらと揺らめく炎の中に、ばちりと瞬く火花がそこにあった。の無機質なガラス玉がイチジの炎で灼かれていく。美しいはずの瞳が、今は途轍もなく恐ろしかった。目を逸らしたいのに、逸らす事を許してはくれない。
が落ち着かなかった理由も、ニジが突然怒り出した事も、全てに合点がいった。指輪がイチジの一部で出来ているのなら、それを失くすという事は一部と言えどもイチジを失うに等しい。イチジの欠損。ニジが反応していたのは、恐らくその点なのだろう。
(私は、夫自身を失っていたというの……!?)
息が詰まる。上手に息が吸えない。単純な驚きと、それを上回る気味の悪さで混乱しそうだ。得体の知れない恐怖に思わず嘔吐きそうになった。
イチジを失うという事は、がこの国での後ろ盾を失う事と同義である。身分は維持されるものの、世継ぎもいない妃など重宝されるはずもない。つまり、の保護義務がジェルマから失われ、生存の保証がされないという事だった。それを、は察していたのだろう――本能的に。
死など恐るるに足りぬと思っていたのに、この体たらくはなんだ。イチジの手を振りほどき、再度下を向く。
「そう動揺するな。もし本当に失くしたら……また作ってやろう。どの部位がいい? 腕か? それとも足……あァ、胸の辺りはどうだ。心臓に近いからな、ハハハ……!」
震えるを横目に、イチジは続ける。
「今は血液だが、次は瞳を削ってみるか? お前はおれの目を気に入っているようだからな」
そう言って、イチジはの顔を覗き込む。普段の冷静さの欠片も無い、明らかに感情の露出を抑えきれていないその様子に、心底気分が良い。今なら何を強請られたとて断らないだろう。奉仕を望むならそうするし、跪いて愛の言葉を囁けと言うのならいくらでも囁いてやってもいい。低俗な与太話に出てくる王子のように。そう思えるくらいには、興奮を覚えている。こちらを見ようともせず、ひたすら指輪を見て肩を揺らすの顔を徐に覗き込んだ。瞳を大きく見開いて、半開きの桃色の唇からは短い吐息が漏れている。涙こそ出ていないが、今にでも泣き出しそうな表情をしていた。無意識にイチジの口角が上がる。
ヴィンスモーク・という女は、王を飾るに最適な女だ。これを語るに外せないのは、やはりその容姿なのだろう。絹よりも上質な薄紫色の髪は、触れれば絡まる事無く水が流れるように落ちていく。水晶を彷彿させる赤い瞳が誰かを映せば、一瞬にしてその者の心を鷲掴んで離さない――イチジには、その魅力がさっぱり理解できなかったが。肌は白く、外骨格でもないのに陶器のようだ。つるりとしたそれに、人間特有の艶めかしさや厭らしさなどはなく、ただひたすらに精巧な芸術作品を前にしている感覚になる。もちろん容姿だけではない。聡明かつ冷静で器量も良く、は妃として優秀だった。立場に溺れず、妃の仕事もよく熟すし、飲み込みも早い。
凛としていて、ひたすらに美しく聡明な、ジェルマ王国の可憐な花……それがヴィンスモーク・という女だった。
それが今はどうだ。凛とした表情は恐怖を噛み殺すように歪ませ、赤い瞳は大きく揺らぐ。ひゅうひゅうと苦し気な呼吸と、震える指先。ふと、こちらの視線に気付き、崩れるものかと耐え忍ぶようにきゅっと睨みつけられた。それが、普段の味気無い表情よりも、よっぽど美しいと、イチジは思う。この表情を目にできるのが己だけというのは、何とも甘美で理性を手放しそうになる。欲のまま貪ったところで文句は無いと思うが。
「そう可愛らしい顔をするな。喰らいたくなる」
俯くの頬をそうっとひと撫でし、まるで花を愛でるかのようにその柔い唇に己の唇を重ねた。
「……今日はもう休め。良い夢を、」
イチジはそう言って、後ろ姿を見るだけでも分かるくらいの上機嫌で部屋を後にする。それを眺めながらそっと唇に触れた。まだイチジの生ぬるい温度がそこに在る。ひとり残されたは、ただ、左手の薬指に嵌めた夫の一部を見つめる事しか出来なかった。
肉を裂き、血で盟約す
フォロワーさんから提供いただいたネタでひとつ。いやぁ、外骨格製の婚約指輪、あまりにも良すぎたので。