花よ、沈む国で眠れ

 忠告はしたわ。それじゃあ、ちゃんと考えておくのよ――
 静かに、けれど確かな意思と覚悟を持った強い口調だと思った。そのような話し方をレイジュがする時は、何かしらの確信があっての事だ。はこくりと小さく頷いて、レイジュのぴんと張った後ろ姿を見送る。そうして、部屋を出ていくのを確認し、私室にある大きな窓から外を眺めた。憎たらしい、本当に嫌味なくらいに、空は晴れ渡っていた。



 菓子類の甘ったるい匂いが鼻孔を突く。滞在して何日が経っただろう。髪やドレスにまでこの匂いが染み付いてしまうのではないかと思うくらいだ。ティータイムで嗅ぐ程度なら気になる事は無いが、こうも毎日甘い匂いに包まれていては気が滅入るし、何だか胃ももたれてきているような気分になる。
 ビッグ・マム海賊団の縄張りである万国トットランドの中心、ホールケーキアイランド。その内部、ホールケーキ城の裏側に位置する巨大な湖、アプリコッ湖。ビッグ・マム海賊団及びその傘下、これから傘下になる者たちの船が停泊する場所として使用されているらしい。現在、ジェルマ王国が停泊している場所だ。何故ジェルマ王国がこんな場所にいるのかというと、ジェルマ王国第三王子のヴィンスモーク・サンジとビッグ・マム海賊団の御息女、シャーロット・プリンの結婚式の為だった。幾ら北の海制覇の力を得られるとはいえ、何より血統を重んじる総帥が海賊と手を結ぶだなんて、正気を疑ったのはここだけの話だ。結婚式は明日に迫っている。本日は結納の為、ほんの少しだけ城内が騒がしい。

 この国は、殆どの物全てがお菓子で造られている。それが見せかけではなく、全て口にする事が可能というのだから驚きだ。どのようにして造られ、その状態が保たれているのか、そもそも悪くなったり傷んだりしないのか、賞味期限は大丈夫なのかと疑問は尽きないがそんな事は些細なものなのだろう。それを問えばこちらだって不可思議の塊のような国だ。一言『科学』と言ってしまえばそれまで……ではあるのだが。
 そんな事を考えながら、はジェルマ本城の廊下を一人、歩く。朝食は軽く済ませ、食後の運動がてらふらふらと城内を散歩しているのだ……というのは建前であり、今日は朝から何だか落ち着かなかった。理由も何となく理解はしている。二年前に比べれば気を張る機会は格段と減った――自身の立場や仕事に慣れてきたとも言える――が。
 あの人が、帰ってくる。
 たったそれだけで、心の奥がざわつく。はそっと、ネックレスに通してある指輪に触れた。微々たる熱を感じるそれは、触れればほんの少しだけ鮮やかさを増す。その様子を見ながら、は大きな溜め息を吐く。端的に言えば、は憂鬱だった。暫く留守にしていた夫が、本日の昼に帰還するからだ。夫婦仲が悪いという訳ではないが、良いとも言えない。互いに心の内を明かさない、義務的な関係。それがとイチジの常だ。政略結婚の夫婦なんてこんなものだろうと思っているので、不平不満があるという訳でもない。けれど、一人で居る時よりも気を遣わねばならない相手がいるというのは少々面倒だ。
 ぼうっと窓の外を見ながら、石畳の上でヒールを鳴らして歩いているとある部屋の扉が開きっぱなしでいる事に気づいた。
「応接間……」
 外から来た客を招く為の部屋が、その扉の向こう側にある。は一瞬思考し、そうしてすぐ気付く。その部屋には現在、客人……否、義理の家族である人物が滞在している。名を、ヴィンスモーク・サンジという。がこの国に来た時にほんの少し触れられた程度で、この二年間ジェルマで暮らしていても、偶にニジやヨンジから話に聞く程度で、その存在も名前も大して聞く機会は無かった。
 は開かれた扉の前に立ち、声をかける。
「……ご機嫌いかが? サンジ殿下」
 部屋を覗きこんだ先に、ちょうど大きなバルコニーが目に入る。そこにサンジは居た。よりも身長は高く、体格も幾分かしっかりしているはずなのにどうもその背中は小さく感じられる。起きてからずっと物思いに耽っているのか、応接間は普段よりも随分と冷ややかで菓子の甘い匂いに包まれていた。サンジは徐に振り向き、多少驚いた様子で、けれどそれ以上大きな素振りもせず
ちゃん」
 と呟く。
「……温暖な気候とは言え、あまり風に当たりすぎると身体を冷やしますよ」
「いいんだ、何だか落ち着かなくて」
 サンジはそう言って笑みを浮かべる。この国には到底似合いそうもない、愁いを帯びたその表情は久しく見ていないものだった。サンジが純然な人間たる証であり、彼の兄弟や自分とは違うとそれだけで理解させられる。
「あら、あなたもなの」
「あなた"も"って……?」
「私も何だか落ち着かなくて。……あの人が帰ってくるからかしら。サンジ殿下もそうなのではなくて?」
 問えば、サンジは遠く地平線へと目を向けた。そうして、咥えていた煙草をすうっと吸い込み、煙を宙へ吐き出す。図星だったのだろうか。そのまま開いた方の手でぎゅうと片腕を掴む。金色の嫌味な腕輪が、妙に輝いて見えるのは気のせいではない。
 幼少期のサンジの待遇は、嫌という程知っている――というよりも、身に覚えがある。詳細に聞かされたのは一度だけ。それ以外と言えば、彼ら三人が戯れでサンジの話をしているのを横で聞く機会が数度あるかないか程度だ。けれどそれでも、は覚えていた――覚えて、しまっていた。だってそれは、まるで自分を鏡で見ているようなものだったから。
 実の父親に人間らしい扱いなどされず、血を分けたはずの兄弟に出来損ないと罵られて、殴られて、嗤われて、よくもまあ同じ人間相手にそのような事を……と言いたくなるような所業の数々。それでも唯一違ったのは、サンジが人間の心を見失わずに済んでいる事くらいか。それ以外は全て同じか、寧ろサンジの方が酷かったのだろう。こういった事柄にどちらがより辛いなど比べるものでもないし、比べたところで本人が受けた傷は一生抱えて生きていかなければならないのだから、おいそれと比較できるようなものじゃない。はそれをよく知っている。それでも彼の方が、と断言できるのは単に、サンジの兄弟が人間以上の力をいとも容易く出せてしまうと分かっているからだ。それに、自身の夫を含めて彼らに情と呼べるものが実装されていない事も拍車をかけている。の兄弟姉妹らも碌なものではなかったが、それでもまだ、感情というものが備わっていた。それとも、感情が備わっていても平気で人を人と思っていないような振る舞いをする分、考えようによってはこちらの方が酷いのかもしれないが。
(……どうでもいいわね、そんな事)
 サンジの事は、素直に"可哀想だ"と思う。
 この化学物質特有の匂いが充満している国で、たった一人、人間できそこないとして生まれてきてしまった事を、幸せだとは思わない。けれど、愛されていたのだろうなとは思う。サンジの母であり、自身の義母でもあるソラ王妃殿下が、自分の子らが兵器かいぶつに成り下がろうとしているのを、身を挺して守ったというのだから間違いないはずだ。それでも、サンジ以外の兄弟は心のない兵器として生まれてしまったようだけれど。
「恐ろしいのでしょう、殿下が。まぁそうよね、心の傷は簡単に消えやしないから……」
「まさかあいつ、ちゃんにも同じような事を」
「あら。出会ってたった数日しか経っていない相手に、情なんて持たなくていいのよ。殿下には何もされていないわ」
「……じゃあ、一体」
 サンジは相変わらず、を案じているような表情を向けている。その様子に、如何にサンジがこの国で異端とされてきたのか否が応でも理解してしまう。この狂った国では、サンジのような心のある人間は生きていけない。ジェルマ王国は、無感情という海に沈んでいる。感情のある人間は、この海で息を吸う事は出来ない。自身も少々息苦しいと感じているくらいなのに、まともな感性を持っているサンジならば、いずれ溺れ死んでしまうのだろう。反対に、この国で息をしている人間は、外に出る事が叶わない。謂わば巨大な鳥籠でもあるのだろう。海に沈んだまま、中にいる者にはそれがすべての世界に見えてしまうけれど、外を知る自由な鳥たちは、そんな鳥籠を嘲笑わらっているのかもしれない。
 閑話休題。
「――家族ひとでなしよ」
 は、敢えてそう表現した。案の定、サンジには伝わっておらず、それでもどうにか理解しようと思案している。少々意地の悪い返しをした自覚はあった。サンジと同じ"家族"だと伝えれば、優しいこの人の同情を誘ってしまうだろう。それに、の地獄はだけのものだ。誰かに理解してもらおうとか、救ってもらおうとか、考えた事は一度も無い。今更誰かに踏み込まれても、どうにもならないことくらい、自分が一番よく知っている。とうに終わったことに、手を差し伸べられても困るだけだ。サンジは考え込んだ後に、小さく
「ごめん、うまく噛み砕けなくて」
 と謝罪の言葉を述べた。
「いいのよ。貴方は知らなくていい事だから」
「そっか……」
 会話が途切れる。とサンジは並んでホールケーキアイランドの空を見上げた。憂鬱な感情を抱えた者がふたりもいるというのに、驚くほど清々しい青に染まっている。わたあめのような雲が流れていくのをぼんやり黙って見つめていると、サンジが静寂を破った。
ちゃんはさ……」
 は、サンジの方に向き直る。
「この国を、どう思ってる?」
「……率直ね」
 一瞬考える素振りをし、顔を上げた。
「何と言ってほしいのかしら」
「君が思う、ありのまま」
 は軽く返事をし、また絵物語に出てくるような景色へと目を向ける。この甘い世界に、ジェルマ王国の硬く冷たい風貌は何処までいっても不釣り合いだ。国全体では歓迎ムードだが、歯車がずれかかっているような不快感を覚えている。義姉であるレイジュ以外は、その歪な様に気付いてすらいないようだったが。普段は訓練で休む暇も殆ど与えられない兵士たちも、張り詰めた空気ではなく少々緩んだ空気感で生活をしている。
「ここから見ているだけなら、良い国だと思わない?」
 表面上だけを切り取ってみれば、この国は平和なのだろうと思う。他国のように奴隷制度は無いし、科学者や兵士、従者などの一般国民もそれぞれ平等な権利を与えられている。理不尽な扱いを受ける事も、ほとんど無い(王子たちの機嫌の問題は一旦置いておくものとする)。衣食住に困ることだってないだろう。
「でもそれは、外側だけを見た場合。安心なさって、あなたの感覚は正常よ」
「随分、遠回しな言い方をするんだね」
「あら、将来自分が治める国を狂っているなんて言えないじゃない?」
 はそう言って、わざとらしい微笑を携えた。
 ふわりと甘い風がの薄紫の髪を撫でていく。太陽の淡い光が目に灯って、ガラス玉のような瞳がきらきらと瞬いた。の些細な動きに合わせて、ドレスの裾やレースがゆらゆらと揺れる。奥にはお菓子で出来た色彩鮮やかな景色。あまりに出来すぎたその様子は、まるで絵本を見ているようだった。サンジは思わず、結婚の事実も、このジェルマ王国という忌々しい国も何もかもが夢で現実ではないのでは……と錯覚する。そんなはずはないというのに。
「どうか、なさって?」
 の静かな声に、ハッと意識が呼び戻された。
「い、いや! 大丈夫、何でもないんだ」
「……なら、いいけれど」
 は続ける。
「私はね、感謝しているのよ」
「感謝……?」
「えぇ。政略結婚とはいえ、この怪物だらけの国に来ることが出来て……」
 そう言えば、サンジは目を大きく見開いて、まるで理解できないものを見ているかのような表情をしている。想像通りの反応に、はくすり、と笑う。
「意外と居心地が良いのよ? 立場もあるから、侍女の皆は私を敬い慕ってくれているし、兵士たちもよく働いてる。レイジュ様も気にかけてくださって、あとはそうね……総帥様も私の仕事振りを褒めてくださるの。あぁ、代わりに貴方の兄弟は人語を話す神獣のようだし、あの人達の価値観なんて理解も出来ないけれどね?」
 サンジはに目を向けながら、静かに聞いている。
「――ここに来て、ようやく息ができた気がした」
 は、視線を遠くへ投げた。
「それまではずっと、死んでいるみたいだった。何もかも……止まっていて」
 サンジは黙って、彼女の言葉を受け止める。
「だから、感謝しているわ。少なくとも、ここではちゃんと生きているって思えるから」
「そう、なんだ……」
 あからさまに混乱しているような、それこそ日頃、がイチジの話を聞いている時と同じ表情をサンジはしていた。きっと、今はサンジがの事を"人語を話す神獣"とでも思っているのだろう。
「分からないって、言いたいのでしょう? これは、魚が空を飛べず鳥が泳げないようなもの……」
「生きる世界が違う……って事かな」
 静かに頷いて、はそれ以上何も言わなかった。サンジはきっと、この国はおかしいのだと、自分が正しい感覚を持っていると肯定してほしかったのだろうと思う。だから、一度はそれを肯定した。もちろん、もサンジが感じている事は正しいと思っているし、大多数からみればジェルマ王国が狂っているのは確かな事実だ。否定はしない。国王であるジャッジは北の海制覇を掲げる為に自身の子供たちを兵器に仕立て上げるマッドサイエンティスト。レイジュを除く王子たちは戦争に不要とされる感情が実装されていない故に、平気で他人を蔑むし残酷で非道な振る舞いをする。国民の多くを占める忠実な兵士たちはその誰もが複製クローン人間だ。聞かされた当時はあまりの倫理観の無さに震えが止まらなかった。今でも兵士と接する際に、ふとあの培養液に沈む姿を思い出しては僅かに指先が震える。けれど、それだけだった。おかしい、とは思う。ただ、はサンジのようにそれらを拒否し、否定する心を持てなかった。その方がにとって都合がよかったからだ。この国にまともな人間など、ほとんどいない。だって、心を閉じた紛れもない化物なのだから。
(ごめんなさいね、私は貴方とは違うのよ――サンジ殿下)
 は心の中で独り言ちた。こんなにも温かい心を持つ人間は、この狂気じみた国に居てはならないと、心底思う。は遠くを見つめ、目を伏せた。そよ風がふたりの間をすうと通り抜けていく。
「でも、良かった。安心したよ」
 サンジが、唐突に口を開く。が問いかける前に、サンジはそのまま笑みを浮かべて言った。
ちゃんが、この国に居て窮屈な思いをしていなくて。おれみたいになってなくて、良かった……」
 ふわり、さらり。サンジの言葉は不思議と、の耳にも柔く届いたような気がした。普段であれば、こんなもの社交辞令で本心ではないと言い切ることが出来るが、何故だろうか。サンジを否定しきる事は出来なかった。サンジの妙な雰囲気に流されでもしたのか? まさか、そんなはずはない。だとすればこれは、一時の迷いのようなものなのだろう。はそう結論づけた。
「私の事じゃなくて、自身の事を考えるべきでしょう。今は」
 は視線を景色から応接間へと移し、サンジの方を一切見ずに言う。
「もうじき殿下たちが帰ってくる頃よ。私が貴方と会話した事で、難癖をつけられても互いに困るでしょう。私はもう行くわ」
 視線だけ後方へ投げ、淡々と告げる。
「せめて、良い式になるといいわね」
 おめでとう、とは言わない。サンジがこの政略結婚を喜んでいるとは到底思えないからだ。当然だろう。急に帰りたくもないであろう故郷へと連れ戻され、政の駒として使われるなんて誰であれ良い気はしない。サンジのように自由に生きていた人であれば尚更だ。いくら人が嫌いだとはいえ、それくらいの情はある。決して、境遇が似ているから情が移った……などという、感情任せのものではない。何度か会話を交わしてサンジがうわべだけを取り繕った人間ではない事は理解していた。ならばそれなりに敬意を払い話すべきだと思ったからだ。相手が嘘偽りで固められた言葉を紡ぐならもそっくりそのまま模倣する。そうではなく、真実を告げているなら、ある程度それに倣って返しただけの事だ。そこに深い意味などはない。
 はサンジの返事がない事を確認し、静かに足を踏み込んだ。かつかつと石畳を踏みしめて、バルコニーから応接間の扉へと向かう。開けっ放しになっていた扉に、ひときわ強い風が吹く。
「君は……優しいんだね、ちゃん」
 風がの髪を撫でる。振り返れば、どこまでも澄んだ空色の瞳がを優しく見つめていた。それは誰よりも優しくを包むようなものなのに、直視する事は出来ず微かに目を伏せる。
「……そんな事、ないわ」
 そうして、静かに吐き捨てるように呟き応接間を去った。儚く、脆く、けれどどこか輪郭を感じる小さな小さな、背中だった。サンジがその小さな背を見守るかのように、静かな笑みを溢していた事を、は知る由もない。



***

 かち、かちり、と秒針の音が部屋に響き渡る。少し動いただけで、布擦れの音まで耳に届くくらいに、この部屋には音というものが存在していない。あるとすれば、暖炉に灯る火が薪を焦がす音だったり、窓の外から聞こえてくる訓練場の音だったり、そのくらいだ。部屋全体も、王族らしく豪奢で広々とした空間であるというのに、どこか機能的で生活感があまり感じられない。いつ来てもそうなのだ。イチジの部屋はいつだって、冷ややかな誇りと荘厳さに満ちている。
 高い天井に石壁のアーチ、黒曜石や深紅の落ち着いたトーンがイチジらしいと思う。床は重厚な石タイルが並んでいて、その上に王家の紋章が描かれた大きなカーペットが敷かれている。それを踏みしめると音が僅かに反響して、更に部屋の静寂を際立たせていた。調度品も王族らしい大きなキャノピーベッドと書斎スペース、あとは奥の小部屋にプライベートスペースがあるくらいか。ベッドは柄はないが質のいい黒のベルベットで覆われており、金の刺繍がわずかに入っている。書斎スペースには豪華な黒檀の机と高背の椅子。机の上は常に整頓されており、書類や本が直線的に並べられている。端にはジェルマの科学技術資料や地図、戦況データなどが積まれていることもあり、には露程も理解できないものばかりだ。
 壁の一角には、ガラスケースに収められた勲章や戦功プレートが並ぶ。インテリアの一部として、壁にはいくつかの儀礼用の剣や古い銃火器などが飾られている。恐らく、実戦で使われる事は無いのだろう。どれも無駄に装飾がない、無機質な美しさを持つ。整然としすぎたその配置には寧ろそうする事が拘りなのかしら、と言いたくなるくらいだった。
 はそんな事を思いながら、踵を数度上げ下げし、慣れた手つきでクラバットの形を整えていく。自分でやろうと思えば出来るのだと思うし、何なら侍女にやらせればいいと思うのに、何故妻である自分に任せるのかはさっぱり理解が出来なかった。王族が奉仕などするなと言う一方で、些細な世話を焼いてもらおうとするのは一体何の意味があるのか。これは奉仕ではないのかと問うた事はあるが、その返答は"妻の条理だ"というあまりにも言葉足らずなそれで、以来考える事を放棄している。
「……はい、出来たわ。苦しくはないかしら」
「ああ」
 最後に軽く左右のバランスを整えて、はイチジの首元から手を離す。ビッグ・マムとその娘プリンとの食事会の時間が迫ってきている。
「時間までもう少しじゃない……。準備に手間取らないからといって、余裕を持たせないのは如何なものかと」
「出来の悪い弟の相手をしていた」
 十中八九、サンジの事だろう。何かされていなければいいのに、という願いが届く事は無い。きっと悪魔のような所業を仕出かしているはずだ。――自身の家族がそうだったように。
 閉ざした心が幾分か痛んだ。似たような経験をしているというのに、サンジを思った行動に出れないのは、それこそが大嫌いな人間たちとそっくりではないか。結局自分だって、化物の皮をかぶった醜い人間でしかないのかと、嘲笑する。サンジに手を貸す事は、出来ない訳ではない。地下にある研究室に兄弟揃って向かっていたのは知っているし、彼らが出払った後に接触する機会はあった。けれど、それがイチジに発覚してしまったらと考えると、得策ではない事は考えなくても分かる。自分が痛い目に遭ってしまうからではない。寧ろそうであれば、真っ先にサンジを庇いに向かっただろう。
 イチジはが嫌がる事を的確に把握し行うきらいがある。
 だからこの場合、標的はではなくサンジに向かう事は必然だった。その方が、自身を甚振るよりも深く傷付けるとイチジは理解している。そう判断できる力と心はあるのに、人を思う情が欠けているせいで他人が嫌がるであろう事をいとも容易く行えてしまうのだ。悪趣味でしかない。この判断が合理的なものであるからと、誰に聞かれている訳でもないのに弁明をする自分自身も含めて。
 の睫毛が僅かに落ちて、震える。それに気付いてか否か、イチジはふと漆黒のグラスを外しの顔を覗きこんだ。ばちり、と赤い瞳が火花を放つ。
「……あれとは、話したか?」
「世間話程度です。殿下の弟君ですもの、挨拶をしないわけにはいきませんから」
「そうか」
 静電気が弾けるように、炎が舞う。イチジは淡々と語りかけてきているというのに、目は口程に物を言うらしい。少々不機嫌だという事が伝わってくる。やはりサンジと会話をした事を伝えたのは間違いだっただろうか。
「お前はあれをどう思う」
「どう、とは」
 問えども、返事はない。自分で意図を汲み取り考えろという事だ。説明くらいしたっていいじゃない、と思えどこの身勝手さは今に始まった事ではない。
 さて、サンジの事をどう思うか。脳内に何通りかの回答を並べていく。哀れな人、優しい人、普通の人、自分と境遇が似ている、夫から見れば出来損ない、海賊、女好き、エトセトラ。そのどれもが、求められている答えでない事は明白だ。イチジは何と言ってほしいのだろうと、思考する。
 数秒黙り込んだ後、は桃色の唇を薄く開いた。
「……彼は、醜いあひるの子なのだと思います」
 その答えが意表を突いたのか、イチジは一瞬、動きを止める。そうして徐にこちらに視線を投げた。
「ほう?」
「殿下はご存知ありませんか」
「与太話には興味が無い」
 その方が都合が良いと思った。はイチジの反応を見ながら続ける。
「生まれてきた雛の中で、一匹だけ色が違うのです。醜い色をしたそれは何処へ行っても嫌われて、つつかれ、蔑まれ、ずうっとひとりぼっちで過ごすの……そうして冬が来て、それで」
「ハ、なるほどな。確かにサンジらしい。冬の寒さにやられて野垂れ死ぬか」
 イチジはの話を最後まで聞こうとはしなかった。それ以上は興味が向かなかったのだろう。先程の不機嫌さはとうに消え、珍しく声を上げてイチジは笑った。はその様子を横目にそっと目を伏せる。イチジであればそう捉えるだろうと思った。もっと言えば、ニジやヨンジも同じような意見を述べるだろう。そうして嘲り笑いあうのだ。サンジはやっぱり出来損ないなのだと。彼らがこの先の話を知る機会は今後もない事を見越して、はずるい選択をした。イチジの反応を見るに、この答えは彼にとっては正解なのだろう。機嫌を取りたかった訳ではないが、更に不機嫌になられてはまたサンジで鬱憤を晴らすと思った。それは避けなければならない。とはいえ、サンジの肩を持ちたい訳でもなく、全てを穏便に済ませるのはこれが一番の方法だと思った。
(……でも、その話には続きがあるのよ、殿下)
 は心の中で独り言ちる。ふと、時計に目をやればそろそろ出発の時間になりそうだった。イチジも気付いているようで、すぐに普段の澄ました表情になるとの方を振り返りもせず扉へと向かう。乾いた革靴の音が、部屋に反響する。イチジが動くたびに、この部屋に似つかわしくない花の香りがふわりと宙を舞った。
「明日の夜には戻る。その後、サンジの妻の教育などはお前に一任されるはずだ」
「……承知しております」
 は僅かに声のトーンを下げる。今朝の、レイジュの言葉が脳裏を過ぎったからだ。
 ――何か裏があるはずよ。海賊が素直に手を組むはずがない。もし、私たちに何かあったら、その時は……。
 重苦しい扉が、軋んだ音を立てて開いていく。はその背を見て、何故か例えようのない不安に襲われた。凍らせたはずの心がぐわりと揺らぐような、遠慮のない力で鷲掴みされているような気分だ。しっかり呼吸をして頭に酸素も行き渡っているというのに。指輪を失くした時と似ている。普段は広く大きな、男性らしく頼りがいのある背中が潰せばすぐに音を立てて崩れてしまうようなちっぽけなものに感じた。
 すぅはぁ、と何度か呼吸をし直すけれど目眩に似た感覚が消え去る事は無い。だが、は出ていこうとするイチジを止める事もしなかった。ここで彼を止めるという選択は、正しい事ではない。少なくとも、お飾りの妻であるにとっては、そうなのだ。喉元まで出かかった言葉を無理やり飲み込む。その言葉ごと、全てが酸性の液体で溶かされてしまえばきっとこんな思いなどしなくて済むというのに。
 ぐらぐらとした視界の中で、どうにか平静を装えるように近くにあった棚へ片手を添えた。小さく溜め息を吐いて、床に目線を移した瞬間、イチジに声を投げられる。
「どうした?」
「え……」
「浮かない顔をしている。懸念でもあるのか」
 壁に飾った剣に写った自身の顔を、は凝視する。確かに、ほんの少しだけ血色が悪いような気がしたが、それだけだ。一見しただけでは何も気付かないだろう。
「そう……でしょうか」
「瞳が揺れている。お前は本当に、視線でよく語る
 イチジとの間にある距離は、目算しても五メートルはあるはずだ。それなのに、イチジには瞳の微細な動きまで見えているらしい。は思わず顔を上げた。それ自体に驚く程の純粋さはもう失っている。ジェルマ最高傑作のイチジであればその程度は容易いのだと理解しているからだ。顔を上げた理由はそれではない。イチジがの些細な心の動きに気付いたからだった。機敏に疎いとは思っていないが、聡いというには情が足りない。イチジはそういう男だ。それなのに、何故気付かれたのか。何か間違った行動をしたのだろうか、それとも……。
 は眉尻を下げ、微笑む。何が正解なのか、もはや分かっていない。
「そうやって誤魔化そうとするな」
 ぴしゃり、とイチジがを制する。観念したように、は薄く唇を開いた。
「……もし」
 レイジュの言葉を、脳内で何度も反芻する。
 この先、ジェルマ王国に何か途轍もなく大きな危機が迫っているとしたら。遠くない未来、それも本当にすぐ先の、例えば、明日の結婚式だったり。
「明日世界が終わるとしたら」
 兵士の屍、崩れた城壁、燃える大地に、武器を持った軍勢と、見たこともない異様な能力を携えた海賊たち。はそれらを幻視する。
「殿下は……何を、思いますか」
 言い切った。イチジがこの手の話に関心など無く、問うても答えなど返ってくるはずがないと、知っていながら。
「何を言い出すかと思えば……」
「くだらないと、仰るのでしょう。けれど、私は知りたいのです。貴方がその時、何を思うのか」
「珍しく食い気味だな」
 イチジはそう言って、黙り込む。長い長い、沈黙のように感じた。実際に計測していたなら、たった数秒の間であるはずなのに。桜の花が無風の状態で地面に着くのをじっと見ているような感覚だ。宙をゆっくりと舞いながら、はらりはらりと落ちていく。それが地面に落ち切った時、イチジは何と答えるのか。
 明らかに正解でない事を、問うた自覚はある。表に出してはいないが、イチジは思案しながら何故このようなくだらない事に時間を割かせるのだと思っているに違いない。それが数秒だったとしても、無駄な事を嫌う彼にとっては無意味な時間を過ごしていると思うはずだ。感傷的になりすぎただろうか。サンジの影響かもしれない。こんな考えなくてもよい事が、延々と脳内を支配している。
 たまらずが口を開こうとした時、イチジは言った。
「……分からない」
 静寂な部屋に、イチジの声だけが響く。
「万が一の事を考えて動く事は無い。思いつかない、と言った方がより的確か」
 はイチジの返答に、そっと目を伏せた。そうして、ほんの少し微笑を携える。
「――そうよね。あなたはそう仰ると、思っておりました」
「ならば聞くな。……そろそろ時間だ、行くぞ」
 ええ、と小さく返事をし、イチジの後を三歩ほど間を開けて歩く。こつりかつり、とヒールと革靴が石タイルの上で規則正しい音を鳴らしていた。そこに一切の乱れはない。まるでよくできた戯曲のようだった。完璧すぎるがあまり不気味に思える程だ。が部屋を出るのと同時に、ゆっくりと扉が閉まっていく。舞台の幕が閉じていくように。きっとこれが、千秋楽さいごだ。ならば、最後までお飾りの妻らしく振舞うのがイチジに対する礼儀だろう。
 よく晴れた日だというのに、廊下に差し込む光はごく僅かだった。まるでこれからの行く末を表しているのではないかと思うくらいに。
(お気をつけて。……さようなら、あなた)
 バタン、と風もないのに勢いよく扉が閉まった。



***

 私が憂鬱だと感じた日は、何故かいつも空が晴れていた。天からも見放されているのではと、何度思った事だろう。雲一つない空が、いつもいつも恨めしいと思っていたわ。故郷の城へ初めて向かう時も、ジェルマ王国へ厄介払いをされた日も、いつもいつも晴れていた。ああ、綺麗な花には太陽の光が必要だからかしら? 馬鹿馬鹿しいわ、光だけでは枯れ果ててしまうというのに。
 私の為に造られ、整えられた部屋の中から遠くなっていく猫車をぼんやりと眺めた。北の海制覇の悲願がもうすぐ叶うとでも、思っているのでしょう。そうだったら、どれだけ良かったのかしら。できれば私もそう思いたい。けれど、相手は海賊なのよ。何が起こったって不思議じゃない。そういう経験が無いから、そもそもそうなったとてどうにでもできるという驕りから……人を疑うという事を知らないのね、あなた達は。私だって知っている事なのに。

 ――この国は、沈む鳥籠。
 きっと、そのうち水に飲まれて、誰もいなくなる。深い深い海の底で、錆びて、朽ちて、誰からも忘れ去られて、滅びを迎えるのでしょう。
 あなたはサンジを笑っていたわね。"冬の寒さにやられて野垂れ死ぬ"と。でも本当は、あの話には続きがあるのよ、イチジ様。醜いと思われていた雛は、白鳥だったの。自分が何者なのかも知らず、ひたすらに傷ついて、耐えて、そうしてようやく羽ばたいた。鳥籠にいる私たちでは到底届きもしないような大空へ、羽ばたいていったのよ。どう? 本当に滑稽なのはどちらか、言わずとも分かるでしょう。ジェルマの最高傑作のあなたなら。
 サンジはきっと、白鳥になって何処までも飛んでいくわ。心優しい仲間たちが、サンジを迎えにきて、こんな窮屈な世界から解放してくれるはずよ。あなた達を置いて。私たちは、それを知る事すら許されない。だってもうすぐ、海に沈んでしまうんだもの。

 あなたの傍にいたのは、ただの契約だった。名前を与えられただけの空っぽの関係。紙切れ一枚で繋がった夫婦。愛じゃない。同情でもない。ただ、隣に居ただけ。私はあなたの望む"飾り"を演じきれていたかしら。褒めてくださる事なんて一度も無かったわね。別に構わないけれど。そういうのは、私たちの間には必要のない事。分かってる、分かってたわ。だから何も言わなかったのよ、私。
 あの時が、きっと最期の会話だった。明日、この国は破滅するかもしれない。そんな気がしているの。あなたはその時何を思うのか、知りたいと思った。後悔? 未練? 怒り? それとも別の何か? ねえ、私、あなたの事何も知らないわ。いえ、知ろうともしなかった。それなのに、あなたのことを考えるだけで、こうして言葉が溢れてくる。私の怠慢ね。それでもあなたは、私を完璧な妻だと思うのかしら。言葉も何もかも足りなかった私を。

 私は……ずうっと心に燻っていたものがある。これを後悔というのかしら。きっとそうね。

 私は、あなたに言わなかった事がひとつだけあるわ。
 ――あの地獄から私を攫ってくれた事、これでもずっと感謝していたのよ。まあ、別の地獄に連れて来られたようなものなのでしょうけれど。でも、あの国にいるより、生きた心地がした。少なくとも、私はこの国で自由でいられた。息をする事ができた。それは紛れもなく、あなたのおかげよ。でも、感謝なんて、言葉にしなくていいと思っていた。あなたは、そういう人だから。情を示されても、それをどう扱っていいか分からないでしょう? だから、私は黙っていた。ごめんなさいね。でも、お互い様という事で、許してちょうだい。

 ねえ、これでいいでしょう?
 何も言わなかった事も、何も伝えられなかった事も、これが私たちの形だった。私たちはそういう関係だった。感謝も後悔も未練も、私たちには必要ない。言えなかったんじゃないわ、言わなかったのよ。

「今更……言えるわけないじゃない」
 ――ありがとう、だなんて。あなたには届かない。でも、それでいい。これが、私たちの"正解"でしょう?

 窓の外は、晴れていた。恨めしいくらいに、青く澄んで。

WCI編、ジェルマ襲撃前の話です。諸々対比の構成にしてみました。

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