火の契り、花の誓約


 ――あァ、苛々する。
 飴で固められ動けなくなったイチジが、最初に抱いた感情は怒りだった。



 鬱陶しいくらいに晴れ渡った空。胸焼けがしそうな程の甘ったるい匂いが冷えた思考を揺する。国全体を挙げて祝福ムードの中、イチジは周囲の参列者と会話を交わしながら今後の行き先を考えていた。
 肌に纏わりつく幸福の感情は理解できないので、適当にあしらっている。確かにめでたい日だとは思う。これよりジェルマ王国は北の海を制覇し、ジェルマ帝国復権の大きな一歩を踏み出す事が出来るのだから。出来損ないの弟の結婚など元から興味も無い。考えるべきはその後である。北の海制覇の基盤が出来上がったのなら、次はどうするか。出来損ないには少々持て余す美貌を携えたシャーロット家の娘は、ジェルマ王国へ嫁ぐ手筈だ。ビッグ・マムの子供らは籍を入れても姓を変えることはないのだという。それが誇りだとでもいうのだろうか。どうでもいい事だ……と一蹴したところで、サンジとその妻となる娘が空に浮かぶ雲とティーカップに乗って入場する。出来損ないは出来損ないらしい、締まりのないふざけた表情をしているが、あのような麗しい女性に寄り添われていればそうなる事も理解できない訳ではない。もちろんイチジはそのような失態を見せる事は無いが。
 自身が妻であると挙げた式とは大きく異なる様式で、とにかく祭りのように騒がしい。イチジとの式は、最初から最後まで厳かなものだった。イチジはともかく、はこのような騒がしく少々品に欠けた式典は嫌うだろう。そういえば、あれは今頃何をしているのか。どうせ普段と変わらず、土いじりでもしているのだろう。
 そんな事を考えていれば、シャーロット家の御付きの者に「どうぞ良い席で」と促された。見晴らしがよく、全方位邪魔の入る事もなく遮蔽物も存在しない空間。イチジ達は案内されるがまま席に着く。
「いいなァサンジのやつ。あれだけ美人ならおれが結婚しても良かった」
「バカ言え、ビッグ・マムの娘と結婚でもしてみろよ。どこかの誰かさんみてェになんぞ」
 ヨンジが面食らった表情で、ニジは妙に笑顔を携えながらこちらに視線を飛ばす。
「おれはあれに、ある程度自由を与えているつもりだがな」
 イチジは続ける。
あれサンジは生贄だ。結婚すれば一生をビッグ・マムに支配されるぞ」
「お前が言うなよ、イチジ」
「事実を述べたまでだ」
 ニジの揶揄を軽く流し、イチジはレイジュを見やる。何処か憂いを帯び、諦念までもを感じさせる表情が気に罹った。辺りを徐に見回して、考え込むように目を伏せる一連のその行動はどうにも、何も口に出す事が無い妻を見ているようだ。
「どうかしたか、レイジュ。落ち着きがないようだが」
 問えばレイジュは
「……何でもないわ」
 と返す。何もないのであればそれ以上掘り下げる必要もない。イチジはそう判断し、壇上へと目線を移す。結婚式にはお馴染みの誓いのキスの場面だった。自身の記憶が重なる。
 あの時、はどのような表情をしていたか。普段と変わらない、氷を彷彿させる表情だったような気がする。初めてを見た時と、全く同じ表情だった。何も感じる事なく、綻ぶ事もない、高潔で……けれど衝撃に弱く融けやすい薄氷の仮面。ヴェールを上げた時の、無機質なガラスの瞳には何も映ってはいなかった。自身もに対して思う事などはなく、ただただ、進行に沿って事を進めたという事実だけが残っている。ひとつだけ抱いた感想は"よく出来た人形"の一言だった。もちろん、の事は綺麗で美しいものだと理解はしているが、それだけだ。良い傀儡を手にしたものだと、を見る度に感じる。それ以上の感想を抱いた事は、一度もない。
 ふとサンジの方を見やる。出来損ないの弟は、あの瞬間に何を思い、何を感じているのか。徐にヴェールが上がっていく。
 美しい花嫁の全てが曝されて――――刹那の、事だった。
 御伽話もいいところの、菓子に塗れた式場に聞きなれた音が鳴り響く。青と紫の程よくグラデーションがかかった空と、結婚式という状況にあまりにも不釣り合いなそれは場を混乱させるには充分だった。思わずイチジも立ちあがる。レイドスーツも武器も持ち合わせていない今、敵意がある何者かに狙われては対処法が限定されてしまう上に存分に身を守る事さえできやしない。地響きが鳴り、何メートルもある巨大なケーキが倒れあろうことか中から飛び出してくる海賊の群れ。まさに不測の事態と言えるだろう。とはいえ、イチジ達がやれる事など何ひとつだってありはしない。
「あいつら、サンジを奪い返しに来たのか?」
「式はブチ壊しだなァ」
 怒りを隠しきれないジャッジをよそに、ニジとヨンジが我関せずとでも言いたげに呟く。遠くの方でビッグ・マムのソウルポーカスとやらが始まり、未来視が出来るという将星カタクリが何やら焦っている中、長子ペロスペローが妙に耳に障る足音を立てて近づいてくる。
「ご安心を……。この場は我々が収めますゆえ……」
 手持ちのステッキを演者のように振るいながら言葉を続けた。
「皆様の事はこのペロスペローがお守りします。確実に……ガッチガチに……!」



***

 反応すら出来なかった。油断をしていた訳ではないが、反抗できる術が何ひとつ無い時点で抗ったところで無駄だと思ったのだ。どうやらおれは、今日死ぬらしかった。
 ――それにしても腹立たしい。
 出来損ないを捧げ、父親の悲願への第一歩を踏み出さんとしたこの日に、なんと相応しくない感情だろう。そういった感情を抱いた理由はこの状況に持ち込まれた事半分、残りはその父親のせいではあるのだが。大声を上げ、気高き王である存在がみっともなく涙を流し、誇りもプライドもかなぐり捨てた姿を曝しているのは見るに耐えない。
「今更見苦しいぜ父上。もう絶対助からねェ」
 こんな事まで言わなければ伝わらないのか。この絶望的ともいえる状況を笑いながら分析している弟たちの方がよっぽど冷静だと思った。武器もレイドスーツも無く、周囲はビッグ・マムの息子や娘たちがこちらに銃口を向けている。なるほど、これは罠だったらしい。嵌められた。やはり海賊と組むのは間違いだったか。
 これから訪れる未来は"死"だ。そのこと自体は怖くも無ければ嫌でもない。さっさと撃ち殺せばいいものを、シャーロット家長子、シャーロット・ペロスペローは何が面白いのか延々と国王を煽っている。任務遂行に完璧を求めるイチジには到底理解できない行動だ。不確定要素はなるべく排除しておきたいので、対象を殺すのに遊びを入れた事は一度たりともない。

 さて、これからはただ死を待つだけだ。レイドスーツがあったとしてもこの状況では城を抜け出せたところで、無事に島を脱出できるのかさえ怪しい。いつまでも父上を煽って発砲すらしてこないペロスペローやビッグ・マムの子供らをよそに、手持ち無沙汰であるイチジは至極どうでもよい事を考えていた。今後の事は考えたところで意味がない。死ぬ者に未来は無いし、天国や地獄などの行き先にも興味が無い。今まで数多の命を屠り、踏みにじってきたが、いざ自身がその立場に立たされると命なんてものは随分と粗末なものだと思い知らされる。イチジが初めて戦場に出たのは、もうずっと昔の事だ。以来、何の感情もなくイチジ自身が生命を終わらせてきた人間共も似たような感想を抱いていたのだろうか? そういえば、ブロックコリーで止めを刺した男は「よくも妻を」なんて言葉を吐いていた気がする。
 ――妻。……妻、か。
 イチジは記憶の再生リプレイをやめて、国に置いてきたへ思いを馳せる。部屋を出る前に見せたの表情が、鮮明に浮かぶ。あれは何を伝えようとしていたのだろう。は言葉にしない分、視線でよく喋る。何を言いたがっているのか、何を考えているのか、イチジはいつもの赤い瞳を見て推測していた。けれど、最後に浮かべた微笑と憂いを帯びたあの瞳。あれが何を伝えていたのか、イチジには推し量る事が出来なかった。実装されていない情に分類されるものだったのだろうか。普段は王の妻に相応しく、余計な詮索も質問も一切しないが珍しく表情を若干崩して問い掛けてきた意味だって、分かっていない。考えれば考える程、という女をうまく掴むことが出来ない……否、イチジはという女を、よく知らないのだ。二年も傍にいたというのに。
 違う。よく知らない、というと語弊がある。好きな食べ物、花、宝石、ドレスの雰囲気、場所、趣味や性格、嫌う物、よく啼く場所、触れると存外柔い事、エトセトラ。の事は、何だって知っている……あれが抱く感情以外は。
 今、あれは何を思い、何を考えている? 何を言いかけた? あの視線の意味はなんだ? ジェルマ最高傑作の造りであるイチジの頭で考えても、答えなど一生出る気がしない。このおれに分からない事があるなんて、知りたくもなかった。ああ、嗚呼、腹立たしい。誰もが敬い、逆らわず、常に人を見下ろす立場に在る王が知り得ないものなど何ひとつあってはならないというのに!
 死ぬ事は怖くない。それが嫌だとも思わない。けれど、ここで死ねばもう二度とイチジはが抱える感情こたえを聞く事ができなくなる。それは、ここで死ぬ事以上に屈辱で、侮辱されているようで、イチジの冷静な脳内をこれでもかという程乱していた。おれは生き延びたいのではない。ただ、あれを理解せずに死ぬなどという、耐え難い辱めを受け入れたくないのだ。これが未練だとでもいうのか。ぼたぼたと勝手に零れる血反吐のように、どんどんと湧き出てくるそれはとどまる事を知らない。
 だが、それまでだ。頭でそう考えていても、身体も心も動く事は無い。足掻いて足掻いて、死に物狂いで助かろうなどという気は少しも湧いてこない。終わりは終わり。決して変わる事のない結末を、ただ待つしかなかった。
 イチジが押し黙っていると、ペロスペローが下品な笑みを浮かべて近づいてくる。無様に泣き叫ぶジャッジに飽きたのか、それとも何かしらの意図があるのか。どうでもいい事だが。飴が垂れているステッキを弄りながら、にやにやと厭味ったらしく口角を上げ、ペロスペローは囁く。
「あぁ、そういえば……ジェルマ王国には誰もが見惚れる程の美しい妃がいるそうだな?」
 騒がしい会場であるのに、よく響く声だった。イチジの目が見開かれる。
「傾城の魔女、だったか。齢十八にして、男女問わず見た者を決して逃しはしない、至高の美の化身……」
 身動ぎひとつさえ敵わないというのに、思わず拳を握りしめようとした。
「ヴィンスモーク・嬢。確か……ヴィンスモーク・イチジ、お前の妃だな?」
「……そうだとして、一体どうするつもりだ」
 口から出た言葉はあくまで冷静なものだったが、声は普段以上に威圧感のあるものだった。この状況に笑みを浮かべていたニジやヨンジまでもが思わず口を閉じる程に。
 ペロスペローはそれに気付いているのかいないのか、おどけた調子で話を続けた。
「安心するといい、彼女の美貌は存分に利用価値があるだろう。中古の人形である点は惜しいが……この国に未婚の兄弟は幾らでもいるのでね」
 バチ、と瞳の奥で火花が弾ける。
「お前が死んだ後、存分に可愛がってやるさ。殺しはしない、シャーロット家の為に身を捧げてもらおう」
 瞳孔が開くと共に、赤い閃光がペロスペローを穿つ。
「おれのものに――」
 刹那の事だった。
 突如、聞いた事もないような轟音が式場を支配する。音の発生源はビッグ・マムかららしい。膝をついて崩れ落ち、絶叫している。黒い稲妻と共に、その声だけで周囲の物も人間も何もかもを吹き飛ばし、中には耐えられず失神する者達も散見された。覇王色とやらも同時に発しているのだろうか。こんなに耳障りな音は生涯一度も聞いた事が無い。脳組織をぐちゃぐちゃにかき回し、脳漿が漏れだしそうな程強烈な頭痛に苛まれる。目眩のような感覚とプレス機なんて比ではないくらいの衝撃に顔を顰める事しかできない。
 暴力とでも言わんばかりの轟音に耐えていると、一瞬何かが耳に押し当てられ、煩わしい物音が消え失せた。同時に、飴の拘束がいとも簡単に粉々にされる。イチジと言えども、流石に脳の処理が追い付かなかった。白いスーツを纏った出来損ないサンジが燃える脚でテーブルの上に立つ。サンジの仲間である麗しい女に、奪われていたはずのレイドスーツ缶を手渡された。イチジはニジやヨンジ、レイジュへ視線を飛ばす。
 ――どうやら、まだ死ぬべき時ではないらしい。



***

 一体何が起こった?
 状況は絶望的だったはずだ。やはり多勢に無勢、四皇ビッグ・マムという名は伊達ではないらしい。その子らまでもが、ヨンジによれば名の付く賞金首だという。ある程度情報として記憶してはいたが、まさかこんな事になるとは思いもしなかった為、詳細には覚えていない。癪ではあるが、驕りと言われても仕方がない事だ。そう認める他ない。
 辺りに響いた重低音から察するに、何かが爆発したらしい。それが原因でビッグ・マムの居城であるホールケーキシャトーが根元から崩壊していく。爆発が起こる前の戦況は劣勢の一途だった。命を拾ったかと思えば、また次の刃が迫る。麦わらの一味の護衛という任務も碌に熟せず、腹の奥底に澱のような苛立ちが沈殿している。混乱に乗じてその場を抜け出せたはいいものの、変わらず状況は最悪だ。父上はビッグ・マムの攻撃で気絶しているし、我々も無事とは言い難い。可能なら今すぐにでも調整を行いたいところだが、アプリコッ湖に停泊中の城へ多くの軍勢が向かう姿を見た。そのような時間は与えられない。もしおれが向こう側の立場であれば同じことをしているだろう。無論、ここまで雑な指示などはしないが。

 ――あれは、どうしている。
 通信機器のひとつでもあれば即座に通信を繋いで、国民への避難指示と兵士への緊急配備発令を通告するが、そんなものはこの場に無い。あるのは短距離で繋がる子電伝虫だけ。恐らく我々よりも早くビッグ・マムの軍勢の方が城へと先に着いて、攻撃を仕掛けるはずだ。あれはひどく脆い。外骨格も無ければ、そもそも常人より遥かに劣る体力と細い肢体では人を傷付ける事さえ不可能だ。このおれが何度抱く時に気を遣った事か。観賞用の宝飾品に耐久性など必要ないと判断したのが、間違いだったのかもしれない。いや、そもそもおれは何処から間違っていた? 警戒を怠った事か? 備えを甘く見た? それを今更悔いて、何になるというのだ。腹が立って余計に気が散る。無駄だ。ならば考えない方がいい。城に着いた後の配置をシミュレーションしている方が余程有意義だろう。地下の研究施設はヨンジとレイジュに任せるべきか。あの場をあまり傷つけたくはない。ヨンジの能力を考えると多少危ういが、レイジュの毒だけでは不安が残る。ニジは城外に配置すべきだろうか。スピードと電撃を活かすなら内部より外部の方が圧倒的にやりやすいはずだ。ならばおれは……城内全域、有象無象の蠅共ならばおれひとりでも十分だろう。あれも恐らくは城内に居るはずだ。動乱に紛れて逃げ出すような女ではない。あれには情がある。国民を捨て置いて逃げる事などできやしない。
 馬鹿な女だ。ここで混乱に乗じて国を捨てれば、きっと何処へでも行けただろうに。

 あれの傍に居たのは、ただの契約だった。名前を与えられただけの空虚の関係。紙切れ一枚と肉体ひとつで繋がった夫婦。愛などない。おれには情が無いのだから、当然の事だ。おれはおれの望むがままに振舞ってきた。王が他者を顧みて寄り添うなどするものではない。ただひたすらに前を向き、黙ってあれが着いてきていればそれで良かった。もちろん、今でもそう思っている。おれ達の間に必要な物は支配と従属、それ以外の何物でもない。だから何も言わなかった。あれは……は物分かりのいい女だ。飾りの妃として、王の傀儡として申し分ない存在。だからあれを選んだ。傍にいる事を許した。それだけだ。それだけだと、思っていた。
 だが、違った。自分の事だというのに、自分の事が分からない。なぜこんなにも、死の間際でがちらつくのか。鬱陶しいほどに、あの姿が焼き付いて離れない。こんな時に、何を考えている。思考を止めれば収まると思ったが、そうではなかった。最後に交わした言葉に、は何を思った? 何を感じた? その答えを、ただただ知りたいと思った。の事は何でも知っている。知らない事など何ひとつとして在りはしない。だというのに、お前のことを考えるだけで、こうして例えようも無いぐちゃぐちゃな感情が溢れてくる。理屈では片付かない。合理的に説明付けようとしても、できそうになかった。

 おれは問うべきだった。理解する為に。そして、支配の構造を確かなものにする為に。あれが何を思い、何を感じて傍に居たのかを。虐げられていたとはいえ、は穢れを知らない女だった。本来であれば、科学で造られた世界ではなく、あれの好きな花に囲まれた世界で生きる、何よりも美しい可憐な少女で在るべきだったはずだ。それをおれは手折った。間違っているとは思わない。あれはおれの物であるのがこの世の条理である。だが、花は何もしなければ枯れてしまうものだ。がそうしているように、花には水や光を存分に与えなくてはならない。おれはそれを、しなかった。それでもは、おれの傍で変わらず可憐に咲き続けていた。何がお前をそうさせた?

 このままでいいわけがない。
 何も言わなかった事も、何も伝えなかった事も、これが我々の形だったと、それで納得などできるものか。それで終わるものなら、もうとっくに決裂しているはずだ。これでいいはずがない。なのに、ただ焦りだけが募る。
「お前は何故、何も言わない」
 お前の言葉なら、聞く耳くらい持っているというのに。それがおれに理解できないものだとして、だから伝えないというのは傲慢ではないのか。

 聞き慣れた音と嗅ぎ慣れた臭いが周囲を漂う。侵攻が始まっているらしい。蠅共が地を這い回っていた。空を見上げる。――ひどく、晴れていた。馬鹿みたいに、澄み渡った空だった。



***

 かつてないほど、地表が騒がしい。兵士たちが全員で訓練していたとして、こんなにも喧騒に満ちていた事は一度も無かった。は、攻め入ってくる海賊と自国の兵士たちの戦いをただ、ずうっと窓から眺めている。まるで別の世界で起こっている出来事を、透明な壁を隔てて見ているようだった。噴き上がる血飛沫も、悲鳴も、とても現実のようには思えない。視覚と聴覚でしか物事を読み取れないと、これが夢なのではないかと錯覚するのだろうか……と、は他人事のように思う。
 戦いの景色というものは、味気ない。そう思うのは、がこの場で唯一、傍観者であるからなのだろう。イチジもニジもヨンジも、この戦場で輝く光を"美しい"と感じるらしいがいまいち理解が出来なかった。そのような彩の無い世界を見ている理由は、面白いからでも、戦いを見たいからでもない。やる事が何ひとつとして無いのだ。刻一刻と迫っているであろう命の終わりを、ひたすらに待つというのはなかなか退屈な事だとは思う。
「ここに攻め入ってきたという事は……あの人達、もうこちら側にはいないのかしら」
 広く晴れ渡った空を見る。こんな時でも、空は晴れているらしい。本当に恨めしいったら。せめて雨でも降っていてくれたら、もう少し静かな気持ちで人生の幕を閉じる事が出来たかもしれないというのに。
 自身の人生に悔いる事は無い。その時その時を、うまく乗り切ってきたと思っている。家族ひとでなしに虐げられていた時も、ジェルマ王国に嫁いできた時も、それ以降の生活だって、特に問題なかったはずだ。そう思っている。
「……それにしても退屈だわ」
 は徐に椅子から立ち上がり、どこへ辿り着く事も無く部屋の中をふらふらと歩いた。本を読む気にもなれない。花を愛でるにしても、温室は城の外にある。まさかこの動乱の中で一歩でも外へ踏み出せば巻き添えを喰らうだろう。自身の立場と責任の重さは理解しているつもりだ。非戦闘員だとしても、無駄死にする訳にはいかない。せめて一般市民であるコゼットやエポニー、自身の侍女であるナスタたちの身の安全を守らねば、ここに残った意味が無くなる。己の命ひとつで彼ら彼女らの命が賄えるなら、それでいい。それが妃として、上に立つものとしての義務だろう。
「ノブレスオブリージュ。この国では機能していないのでしょうけれど……」
 結局、何をする事もなく今度はベッドに腰を掛けた。戦時中だというのに、この部屋は何も変わらない。普段と違っているとしても、数名待機しているはずの侍女が不在な事くらいだ。何だかひとり、世界に取り残されたような感覚に襲われる。小さく息を吐いたが、それすらも響いてしまうほどに、世界は静かだった。
 いっその事、眠ってしまおうかしら。
 そう思い、はそのままベッドの上へ倒れ込む。そうして、ゆっくりと瞼を閉じた。視覚の情報を閉じれば、聴覚が研ぎ澄まされる。先程までは聞こえなかった剣と剣がぶつかり合う甲高い金属の音や、乱雑な足音などが鮮明に耳に届く。それをただひとり、優雅にベッドの上で聞いているというのは状況としてあまりにも不釣り合いだ。狂っている。ジェルマ王国に二年も浸っていたせいだろうか――否、うつつへの関心の無さは今に始まったことではない。
 数分そうしていると、耳を刺すような足音と雑音が近づいてきている事に気付く。どうやら漸くお出ましのようだ。は徐にベッドから起き上がる。軽く手で髪を梳くとさらさらと水が落ちるように薄紫の糸が垂れていく。身に着けたアフタヌーンドレスは、ワインレッド。燃えるような赤ではなく、染み渡るような赤を選んだ。という存在が誰の物であるかを、ひと目で理解させられるから。背筋を正し、けれど固くはなく自然体に。右手はドレスの膝あたりに軽く添える。左手はベッドの縁にふわりと触れさせた。指先まで意識して伸ばしていく。両膝を揃え、足首はやや内側に寄せて、つま先は床に優しく添える程度にする。顔は扉をまっすぐ向かず、わずかに俯き加減に合わせ、目を閉じる。
 はぁ、と溜息を吐いたと同時に、静寂な空間が大きな物音と共に破かれた。
「居たぞ!ジェルマのこむ、すめ――」
 名も知らぬ海賊の一人が動きを止める。
 の赤いガラス玉が、ゆっくりと男を縫い止めた。そうして、薄桃色に彩った唇に弧を描き、ゆっくりと言葉を零す。
「……ようこそ、ジェルマ王国へ。シャーロット家の皆々様」
 徐に立ちあがり、シルクタフタの光沢を抑えた柔らかいドレス生地を両の手で摘まんで、洗練されたカーテシーを披露する。一礼とともに、ドレスの裾が血潮のように赤が床に流れ出す。陽差しが窓から差し込み、さらりとドレスを撫でた。かすかに赤黒く陰る織りで、レースや装飾部分は赤と黒の糸が印象的だ。そう、まるで……血管を彷彿させるような。腰から下はしなやかでゆったり広がるベルラインを保ちつつ、裾に向かって赤が徐々に黒みを帯びている。裾やトレーンが長く引かれていて、流れる血潮の跡を幻視させるものだった。光を浴びるたび、深紅のドレスはまるで心臓の鼓動を思わせるように脈動し、影に沈むと黒い奈落へと溶けていく。
 これ以上ない、フューネラルドレス――死装束――だ。
「私はヴィンスモーク・。以後お見知りおきを……」
 はそう言って、笑みを消す。微笑まない。必要以上に語らない。けれど、ただそこに立つだけで、すべての目を、すべての魂を引き寄せる。
「レディを待たせるだなんて、酷い人たちね。あぁ、退屈だった……」
 を前に、ビッグ・マム海賊団の兵士がぐらりと倒れた。並みの人間、特に初めてを目に入れたのならば、当然の反応だ。『傾城の魔女』と呼ばれるが所以の、あまりにも完成されすぎた美は見る者全てを狂わせる。
「おい、お前たち一体どうした!?」
 リーダー格であろう男が、後方で声を上げの前に現れる。一瞬、を前にたじろぐも、さすがはビッグ・マムの息子といったところか。圧倒的な美を前にしても屈する様子はない。それでも、縫い留められた視線は動かないのだから理解不能な何かに出会ってしまったという感覚はあるのだろう。
「……どなた?」
「敵国の女に語る名など、」
 男は倒れた兵士を横目に、を睨みつけた。タマゴ型の体型に長い髭と頭のてっぺんに生えた白い髪。人間にしてはアンバランスすぎるシルエットは、の美的センスからは大きく逸れている。恐らく人間ではない種族なのだろう。小さな丸い目を吊り上げて、手にした剣をに向ける。すると、先程まで倒れていた兵士が、剣を遮るように立ち、恍惚な笑みを浮かべて言う。
「こっ……この御方はシャーロット家十三男、お茶大臣のシャーロット・ドスマルシェ様です!」
「あら」
「なっ……貴様、何を……!」
 ドスマルシェ、と呼ばれた男が兵士の首元を掴み揺する。
「名前くらいよろしいじゃないですかァ……」
 酩酊状態であるかのように、兵士はふらふらと足元が覚束ない様子だ。はそれを目にし、口元に手を当てて喉を鳴らす。
「ふふ、ドスマルシェ様と仰るの。それで……こんな場所に大勢で、一体どうなされたのかしら」
 凛とした音が辺りに響く。透き通る程美しい声色が、聞く者の脳を蝕む。ドスマルシェは使い物にならなくなった数十人の兵士をよそにへ言い放つ。
「見て分からないのか? おい、いつまで惚けている! さっさとあの女を捕らえろ!」
「……縄で縛らずとも逃げなど致しません。ご用件は? 研究施設の場所を聞きたいのかしら。それとも私の首を刎ねに?」
 そう言っては己の首を指先でなぞる。表情を一切変えずに話すに、ドスマルシェは一種の気味悪さを覚えた。
「何なんだ、貴様は……」
「自己紹介はもう済ませましたでしょう?」
 はかつかつとヒールを鳴らし、自らドスマルシェらの方へ歩みを進める。ここで問答していても時間は稼げるが、稼いだところでどうにもならない。憶測でしかないが、ジェルマ王国の主戦力はもうここに帰ってくる事はないのだろう。結末エンディングを知る物語など、何の面白みもありはしない。できるならさっさと終わらせてほしいくらいだ。かつり、と小気味良い音が廊下に響く。見れば目測二十程の兵を従えているらしい。
(随分と下に見られているのね……)
 とはいえ、現在のジェルマ王国に主戦力となる者は誰ひとりとしていない。妥当な判断と言えばそうなのだろう。沸いてくる感想全てが、自分の事ではないと錯覚してしまう程に冷静だ。のやる事は、己の命で非戦闘員である一般市民を守る事だけ。どうせビッグ・マムも欲しているのはジェルマの科学力で、それ以外には然程興味は無いだろう。うまく交渉すれば一般市民は見逃してもらえるはずだ。情報によればビッグ・マムは魂を操作し、寿命を奪う能力を持っているらしい。寿命を差し出せば、関心のない一般市民くらい大目に見てもらえるだろう。ジェルマの使用人たちは総じてレベルが高い。小間使いとして雇う価値も全くないとは言い切れないはずだ。その後の事は……ただ、祈る事しかできないが。生き延びた者たちがどうか報われますように、と。現にジェルマが裏切られている以上、信用ならない相手であるし死んでしまえばにはどうする事も出来ない。
(私にできるのはそれだけよ、後は自分たちの力で何とかして頂戴ね……)
 そんな事を思っていれば、覚束ない足とぼんやりした表情の兵士が近寄ってきていることに気付いた。
「何?」
「あ……あァいえ!そのような高いヒールを履かれていれば歩くのにも苦労するかなと」
「……」
 兵士は、見様見真似の仕草での手を取ろうとする。の赤い瞳が鋭く兵士を捉えた。
「海賊の分際で、一国の妃の手を取れるとでも?」
 兵士を穿ったまま告げる。
「私の手を引ける方など、この世にたった一人しか存在しない。あまり勘違いなさらぬよう」
 言って、兵士やドスマルシェに背を向けた。そのまま数歩、ゆっくりと歩みを進めて半身だけ振り返る。
「さて……、行き先は何方かしら。地獄までの道すがら、案内くらいは致しますので」



***

 ドスマルシェは玉座の間に用があるらしい。
 玉座とは、当然だが国で一番位が高い人物が座る場所であり、それを取り壊す事で兵士の士気も下げられるし、何より玉座が破壊されれば国が落ちたも同然である。本来その場所に敵が入り込む事は無いのだから。国王であるジャッジがこの世にいないとなれば、その時点で国が落ちたとも言えるが、どうやらジェルマの王族たちは皆、生死不明らしい。イチジ城を出て、本城に向かい玉座の間を目指す道中、魅せられた兵士が聞いてもいないのに様々な事を話してくれた。それでもの意識は、湿った鉄の匂いと遠くの断末魔にばかりに向いているのだが。
 結婚式でサンジを仕留めようとしたが失敗したこと、麦わらの一味が現れサンジを連れ戻しに来たこと、ビッグ・マムが癇癪を起こし式場が混乱状態になっていること、ホールケーキ城が謎の爆発で崩壊したことなど。適当な相槌を打ちながら、半ば聞き流していた。甘い香りが消え失せ、硝煙や薄っすら血の匂いが漂う城内をはただ黙って歩く。玉座の間へ続く道の外からは、未だに金属音や悲鳴、雄叫びが絶えず聞こえている。城内は静寂が満ちているせいで、世界と隔離されているようだった。前を見つめながら歩いていると、ふと斜め後ろの方から声が投げられる。
「娘よ」
 ドスマルシェだった。
「……はい」
「貴様もあやつらと同じように感情を操作されているのか?」
「何故そう思うのです」
 は一切歩みを止めずに返事をする。ドスマルシェはのその振る舞いですら気味が悪いのか、戸惑いを隠せない様子で言った。
「貴様には感情というものが無いように見える。普通なら、もっと怯えてもいいはずではないか」
 ぴたり、とは歩みを止める。まあ、一般的な思考を持っていたらそう思うわよね……とどうでもいい事のように心の中で独り言ちた。
「普通……ね。ドスマルシェ様はこの国を普通だとお思いなのかしら」
「それはどういう」
 フッ、と嘲るような笑みを浮かべる。
複製クローン兵に、身体も心も科学で造られた王子、倫理観が存在しないこの国に、普通なんて存在するはずないでしょう?」
 別に、ドスマルシェに対して嘲笑を浮かべた訳ではない。内情を詳しく知らないならば、そう思うのが普通だからだ。ビッグ・マムもなかなかバケモノじみた存在だとは思うが、何処までいっても価値観は人間のそれ。この国のように大きく歪んではいないのだろう。
 そんな事を話している間に、王家の中枢、最奥の重厚な扉が静かに佇んでいる事に気付く。
「……あちらが玉座の間です」
 そう言えば、数人の兵士が我先にと扉に手を掛け、重苦しい音を立てながらゆっくりと、確実に開かれていく。二年程この国に住んでいるが、この部屋に訪れる機会はほとんどなかった。ヴィンスモーク家は家族で食事をする際に玉座の間を使用しているが、がその場に呼ばれることは滅多にない。食事は一人静かに済ませるのが常だった。仕事の報告をする事もほぼ無く、この部屋に用がある時は大抵、国王であるジャッジからの呼び出しによるものだ。ぐるりと一周、玉座の間を見渡す。二年越しにようやく、この空間の全貌を目にした。
 がじいと玉座の間を見つめる中、小さく
「王の居ない玉座か……虚しいものだ」
 ドスマルシェが呟く。そしての方へ身体を向けた。そのまま手にしていた剣先を突き付ける。
「さて、娘よ。貴様はこれからママの判断で生かすか殺すかを決められるわけだが」
「……」
「どうだ?ヴィンスモーク家を裏切って、シャーロット家へ下り未婚の兄弟と婚姻を結ぶとここで約束すれば……命は助けてやる」
 口角を上げ、余裕を含んだ笑みをに向けた。どう足掻いても、この場でドスマルシェや兵士を倒し逃げる事などに出来るはずも無い。勝ち目がないと見据えた上でドスマルシェはこの問いを投げかけてきているのだ。そういう趣味があるかどうかは知った事ではないが、ここで彼らが望んでいる事はみっともなくが命乞いをする事なのだろう。あの人よりも悪趣味ね、と心の中で呟いた。
 畳み掛けるようにドスマルシェが言う。
「貴様もそう易々と死にたくはないだろう? それにその美貌は、ここで失うには非常に惜しい」
 ちゃり、と音を立てながらドスマルシェはの細く白い首筋に剣先を宛てる。切れるか切れないかの絶妙な力加減でそれを押しあて、にやりと笑った。金属の冷たい感触が首筋を舐める。ふるりと身体が震えたが、決して恐怖を感じたからではない。冷たいものに触れると条件反射でそうなっただけの事だった。
 宛てられた剣にそっと手を添えて、は言う。
「まあ……。先程も名乗ったはずですのに、もう忘れてしまわれたの?」
 はぁ、と溜息を吐いた。
 光の差し込まない玉座の間でさえ、は輝いている。薄紫色の糸をさらりと垂らし、赤い瞳は少ない光を一身に集めてきらきらと硝子のように煌めく。桃色の唇は瑞々しく潤い、ほんのり色づいた頬。剣を向けられてなお、は笑みを携えている。その纏わりつくような表情は、どう見てもこれから死ぬ女の顔ではないし、それに恐怖する者の表情でもなかった。
 その圧倒的な美を前に、また数人の兵士がぐらりと膝を折る。はそれには一切目をくれず、ただドスマルシェを見て言った。
「……私の名は"ヴィンスモーク・"。ジェルマ王国第一王子の妻であり妃」
 その言葉と態度に、ドスマルシェは一瞬気圧けおされる。そうして
「それ以上でもそれ以下でもないわ」
 は言い切った。その様子に、ドスマルシェは悔しそうに歯を食いしばっている。ただそれも刹那の事で直ぐに先程までの厭らしい笑みを浮かべて言う。
「ふむ……聡明な女かと思ったが、どうやら違ったらしい」
 首筋に宛てられた剣に力が加えられていく。痛みはまだ感じない。けれど徐々に食い込んでいくのが分かる。もしかして、この場で殺される? まさかそんなはずは、と思うもどうやら少々海賊という存在を自身も見くびっていたらしい。ビッグ・マムの指示無しに殺されることはないだろうと高を括っていたが、元よりビッグ・マムが欲しているのはジェルマの科学力だ。それに関わる者以外はその場で殺したとて問題がない。この場で殺されてしまえば、非戦闘員の命が保証されなくなってしまう。けれど、今更命乞いしたところでどうしようもなかった。
「空虚な椅子と共に死ね、愚かな女よ!!」
 ごめんなさい、あなた達。どうか生き延びて……そんな願いを胸に、からの玉座へ視線を投げ――――目を、大きく見開いた。
 どうして、なんて驚きで言葉も出なかった。の目が、何かを訴えるようにかすかに震えた。そして、次の瞬間
「王なら居る!!!」
 耳馴染みの良い、聞きなれた声が凛と玉座の間に響く。
「なっ……!」
 ドスマルシェがより遅れてその存在に気付き、声を上げる。けれど、その声すらには届かない。ただ、その瞳を玉座に向け、唇をわなわなと震わせる。赤い瞳には炎のように燃える赤い髪、漆黒に染まったグラスを携えて、不敵に笑う絶対王者の姿しか映っていなかった。赤と白のレイドスーツとやらを着用し、玉座に腰を掛けるイチジの様はまさしく王に相応しい。
 すかさずドスマルシェが兵士に命を下す。
「何をしている! 早く撃て!!」
 不意を突かれた兵士が慌ててガトリング銃を手に持ち、イチジへ向かって連射する。一直線に雨のような銃撃がイチジに降りかかるも、ひらひらとしたマントでそれを防ぎ一斉に弾き返した。現実感の無い光景に、思考が一瞬だけ遅れる。一体、どのような素材を用いたら薄い布で銃弾を弾き飛ばせるのか。そのまま、己の撃った銃弾で倒れていく兵士をよそにイチジが加速装置を起動し、目にも留まらぬ速さでドスマルシェへ拳をめり込ませた。感情など一切宿らぬ表情で、ただ拳を振るう。バチバチと赤い閃光が迸る。の横を風よりも早くイチジが通りすぎた時、表情どころか瞳すら捉えられないはずなのに、火花が宿っているのを見た。
 ずしゃりと大きな音を立てて倒れていくドスマルシェを、はただ見ている事しかできない。このように間近で戦闘が行われる事など今まで一度も無かったからだ。足が竦んで動けない事は無いが、どうすればいいのか分からない。そのまま動けずにいると、一切の遠慮がない強引な動きで腕を引かれた。
 ふわり、と身体が舞う。引かれた力で浮いた身体は、想像していたよりもずっと優しい加減で抱き留められる。漆黒に浮かぶ赤と、ガラス細工の赤が交わる。自身の身体に触れている箇所から伝わる熱も、硬さも、掠める匂いも、その全てが懐かしいと思った。離れてたった一日も経っていないというのに。死の間際でさえ凪いでいた心臓が大きく鼓動する。身体じゅうの血液が流れていくのを感じた。耳の近くで、どくりと一際強い心音が鳴る。その音で、これが夢などではないのだと、淡い希望でなく、確かな現実であると思わせられる。生きている。思わず目が潤みそうになった。もちろん泣いている場合ではないので、堪えるけれど。数ミリの幅も無く傍にいるその命の名を呼びたいと言うのに、喉の奥でつっかえてうまく言葉が出てこなかった。

 静かな、けれど炎のように滾る声が自身を呼ぶ。喉に引っかかっていたものがそれでするすると抜けていく。その声に呼応するように
「イチジ様」
 儚くも凛とした鈴の音が鳴った。
「聞きたい事はあるが、まずはそこの蠅共を蹴散らさねばな。退いていろ、邪魔だ」
「……はい」
 イチジはそっとを玉座の前に降ろし、再度階下のドスマルシェの元へ降り立つ。倒れたドスマルシェは苦痛に顔を歪めながらも立ち上がった。悔しさの滲む目でドスマルシェはイチジを睨みつける。イチジはその目を向けられても尚、ただひたすらに笑みを浮かべていた。その余裕ある佇まいはドスマルシェの心を容赦なく甚振っている。
「妻が世話になった」
 弾ける火花を手に、イチジは言う。
「たっぷりと御礼はさせてもらう」
 口角を上げたのも束の間、イチジは一瞬の隙を逃さず地面を思い切り蹴った。赤い閃光が奔る。イチジが加速装置を発動させると、空気が震える音が一瞬だけ響き、その直後に姿が消えた。ドスマルシェが視線を上げる暇もなく、イチジは目の前に現れ、猛然と拳を叩き込んだ。顔面に一発。続けて二発、三発とただただ叩き込んでいく。ドスマルシェは剣を振るった。だが、それはただの空振りに終わる。目の前に現れたイチジの動きが速すぎて、反応する暇も与えられない。鋭い金属音が響く。ドスマルシェの顔に冷汗が滲む。
 に至っては、その場で何が起こっているのかさえ捉えられなかった。金属が引き裂かれる音が耳をつんざく。火花が飛び散り、熱が肌を刺す。窓など無いこの空間に、風が吹き抜けていく。視界の端で赤い火花が瞬いているのが確認できた。それはキラキラと舞い上がり、その光が一瞬戦場を照らす。ふと見えた白と赤のコントラストが、まるで祝事の際に使われる花火を彷彿させる。
「綺麗……」
 不謹慎だというのに、口から零れる言葉は戦いを称賛するそれだった。この美しさは残酷であると理解している。それでも、瞬く光や吹き抜ける風の音、甲高い金属音の不協和音が、途轍もない芸術作品なのではないかと錯覚する。が見惚れている間にも、戦いは終わらない。
 宙へ浮きながらもイチジはドスマルシェに拳や蹴りを的確に入れていく。イチジの瞳に一瞬、の顔が浮かんだ。無意識に力が入る。まずは肩。火花が散る。次に背。大きく引いた足で踏みつける。無駄を削いだ動きだ。最後に腹。青白い光と共に赤が素早く懐に潜り込む。勢いで後ろに大きく仰け反った瞬間をイチジは見逃さない。イチジの声と共に、真紅の閃光が視界を焼いた。赤い光を纏った拳が降り注ぐ。一発。二発。三発。四発。一発ごとに圧を増していく。反撃の余地など残されていなかった。熱を帯びない殺意を纏う。ドスマルシェの目に、怒りと恐怖が入り混じった光が宿る。自身の命が危険にさらされていることをようやく実感し、必死に反撃の機会を探す。だが、ドスマルシェは防戦一方で手が出せない。剣を盾にし必死で拳を受け流すも抑えきれなかった思い拳が一発、顔に叩き込まれる。
 痛みに顔を顰めながらドスマルシェは呟く。
「な、なんと速い動き……!!」
 は暫く宙を眺めていたがばきばきと骨が鳴る音で、漸くイチジとドスマルシェを捉える。壁にめり込むドスマルシェと、一切のダメージを受けず澄ました態度で立っているイチジがいた。静寂が広がる。イチジはまるで何事もなかったかのように冷徹な表情を保ち続けていた。
「もっと速くいこうか?」
「ほざけ!!」
 ドスマルシェが叫ぶ。
 ――これが、あの人の戦い……?
 は、ふと自分が手を固く握りしめていた事に気付いた。
 争いというものは、この世において最も不必要であるべきものだろう。例えそれが生業だったとして、むやみやたらに他を傷付けるのは非人道的行為である。だからレイジュは、この狂った国と"ヴィンスモーク"という名そのものを嫌悪している。もまた、レイジュほどではないにせよ、国の在り方を快くは思えなかった。慣れてしまった今、そのような反応をする事はなくなったが、戦争から帰還してきたイチジが硝煙と血の匂いを纏わせてきた時には、あまりの気持ち悪さにその場で倒れ込んだくらいだ。きっと言葉で言い表せない程、悪辣な行為をしているに違いない。血も涙もない、まさしく怪物や悪魔に相応しい行為を。イチジたちが歩む道は、積み重なった肢体の山と、生々しい血の匂いに死の香り、鮮血で彩られたカーペットで出来ている。それを、自分は遠くから見つめているだけだ。そう思っていた。否、そうであるはずだと、思い込んでいた。私は傍観者であると。けれど、違った。傍観者であるはずがない。も正にヴィンスモークの人間である。イチジと契約を結んだあの日から、血の道ヴァージンロードを歩いてきたのだ。だからこそ、イチジの戦いを"美しい"と感じている。
 目眩がする。吐き気すらした。けれど、イチジから目が離せなかった。ジェルマという箱庭の中でしか羽ばたけない金属仕掛けのあひる。それでもイチジは気高く美しい。同じ条件下で同じことを誰かがしたとして、がそう思う事はないだろう。
(どうしてあの人ばかりが、目を惹きつけて離さないの……?)
 吊り橋効果、もしくはストックホルム症候群とでもいうのだろうか。そうであれと思わずにはいられなかった。
 刹那、耳障りな金属音が響き渡る。の思考が現実に引き戻された。起き上がったドスマルシェが、イチジ目掛けて剣を振り下ろしたのだ。嫌な風がの頬を舐める。イチジはその腕一本で自身の何倍もあるだろう大きな剣を受け止めていた。
 眩い真紅の光が迸る。火花が散った。ひと際強く瞬いた刹那、ドスマルシェが大きく後退する。表情も呼吸も荒い。余裕がない事は明白だった。肩を上下させ、消耗を隠さないドスマルシェが両手で剣を構える。
「ドスマル奥義を見せてやる……!!」
 言って、剣の柄を合わせドスマルシェはそれを激しく振り回した。風を切る音がする。一振りの剣が、回転しながら空間を切り裂いた。まるで血塗られた円鋸。触れれば肉体など、紙のように散るだろう。
 だが、イチジは驚く様子もない。
「なんだ……隠し芸か?」
 ドスマルシェが大きく地面を蹴った。巨体で宙を舞う。あれは暴風を孕んだ断頭台だ。高速回転する刃が、空間そのものを裂きながらイチジへと吸い込まれていく。その風圧でがふらりと玉座に倒れ込む。一瞬目を離した隙に、宙を切る音が耳に届いた。赤く弾ける火花。空気が震える。刹那、光の輪からイチジの身体が投げ飛ばされるのを見た。鈍い音。硬い城壁が崩れる。イチジが壁に叩きつけられたのだと理解した。
 ドスマルシェが高らかに笑う。砂煙が舞った。イチジの姿は見えない。
「いち、」
 男を呼ぶ声が掻き消される。鋭い光。赤い稲妻が地を走った。その煌めきに一瞬目が眩む。地面を踏みしめる音と共に、イチジが姿を現す。感情を消した表情。だが、それも束の間だった。イチジは言葉も無く、右手の仕草のみでドスマルシェを誘う。それも極めて、余裕がある顔つきで。挑発しているのだと、にも理解できた。真っ赤な閃光がイチジの拳に灯る。
「切り刻んでやる!!!」
 ドスマルシェが再度剣を回した。風が周囲を覆う。互いに強く地面を蹴り、外骨格を削る金属音と赤い火花が弾けた。風が止む。音が消える。
 ――世界が、止まった。



***

「こちらジェルマの船。ヌストルテだ」
『兄貴! ジェルマの方はどうなった?』
 波の音。
「一万の兵で叩き潰した。国は壊滅状態であるからして」
『おぉ! さすがだ……しかし無茶を……』
 潮風が頬を撫でる。
「我々の力を以てすれば、容易い事であるからして……」
『言うじゃねェか、兄貴!』
 高く見上げる程積み上げられた肢体。硝煙の匂い、死の香り、血に塗れた石の地面。は然して気にする様子も無く、その上に立っていた。せっかくの衣装が汚れるのは忍びない為、ほんの少しドレスを持ち上げながら、空を見上げる。相変わらず、憎らしい程の晴天だ。後方でニジが何やら敵の幹部と話をしている。声帯模写と呼ばれる能力で、ニジが屠ったビッグ・マム海賊団の幹部の声を真似ているようだが、原理はさっぱり理解できない。見たままを捉えるならば、意識のない相手の喉に手を差し込み何やらやっているようではあるが。
 電話先の人物は、相手がジェルマの第二王子である事を知らずまんまと騙されているらしい。ニジはさり気なく麦わらの一味の居場所を聞き出す。どうやら西に向かったそうだ。西、と言われはホールケーキアイランドの地図を思い返す。様々な情報を傍受し整理すると、麦わらの一味の目的地はカカオ島なのではないだろうか。
「――と、言うワケだ」
 小型の電伝虫を手にし、不敵にニジが笑う。
「ルフィくんたち、無事なようね」
 嬉しそうに語るレイジュ。
「さて、どうするよこれから」
 戦闘後で興奮を隠し切れないヨンジ。
 皆の視線がイチジに向けられる。国王であるジャッジは、大きな負傷をしたらしく医療棟へ運ばれたらしい。つまり、現在ジェルマ王国の頂点にいるのはイチジだった。ふわりと白いマントが風に靡く。一瞬の静寂。けれど、にも何となく、イチジが言わんとしている事は理解できた。ふと、の視界に蝶が飛ぶ。それは真っ直ぐにイチジの背中へと吸い込まれていく。まるでイチジの背中を押しているように見えた。その一歩がすべてを告げている。
「行くぞ! 艦を出せ!」
「了解」
 イチジの声が高らかに響く。それぞれが被せる様に返事をした。



 イチジの命令が響き渡った後、王族は皆、兵士に連れられ一時的な手当てを受けた。は怪我一つしていなかったが、念の為と一緒に科学研究室に連れ込まれている。調整の時間がそこまでかからなかったレイジュが一足先に手当てを終え、が待機している部屋へ戻ってきた。
「……逃げなかったのね」
 レイジュは静かに言う。
「私も"ヴィンスモーク"の人間ですから」
 はそう言ってレイジュに微笑みかける。そうして、昨日レイジュに言われたことを思い返した。
『いい? 貴女にはこの国を出て自由になる権利がある。明日この国は滅ぶわ、ビッグマム海賊団の手によって。けれど、私はそれで構わないと思っている』
『逃げなさい。私たちと一緒に死ぬ事なんてないのだから』
 レイジュの青く煌めく瞳が、あの日と変わらずを見つめている。深い海を彷彿とさせる優しい目だ。
「理由はそれだけ?」
 沈黙が場を制する。レイジュは相変わらず優しい瞳をへ向けている。どうやら続きが望まれているらしい。は静かに目を伏せ、ぽつりと零すように話し始めた。
「死の淵に立たされて尚、全てに関心が向きませんでした。流されるままであろうと、その方が楽で……特に、生きることへの執着も無かったので」
「あら、最初から随分と物騒ね」
 困ったようにレイジュが笑う。も、我ながらそう感じていた。あの喧騒の中で、ただ死ぬ事だけを考えていたのは正常の精神状態ではない。例えそれが役割であったとしても、生への執着をは失っていた。
「けれど……たった一つだけ、心に秘めた言葉を思い出しました」
 あの時、イチジと別れた後に残った心の淀みを、は振り返る。
 何もかもどうでもいいと、感じる事を拒んできたが最後に思うのは"無"ではなかった。言えなかった――否、それは確かに心の中に在って、それでも言わない事を選択し続けた言葉たちが溢れていた。あの時はそれでいいと思っていたが、本当にそうだったのだろうか。生き延びたからこそ、確信から疑問に変わった。気にしていない事であればこうもわだかまりとなって残るはずがない。
 は、生かされていた。他の誰でもない、イチジの手で。今までも、そして今日だってそうだ。イチジが戻ってこなければあのまま死んでいただろう。何もかも狂ったこの国で、ひとりの人間としてを生かしていたのはイチジだ。
「私は、何ひとつあの人に伝えませんでした。……言っても、分からないと思って」
 レイジュが一瞬、寂し気な表情をする。弟たちとは違い、しっかり感情を持ち合わせてきたレイジュがこの国に居るのは心底辛かっただろうと思う。この人の優しさだって、あの人たちには一切伝わっていないはずだから。
「でも、ひどく……後悔しました。心に鉛ができたようだった」
 そっと胸の位置に触れる。今でも、言えずにいた言葉がこの場所で燻っている。
「このまま逃げたら、私は家族ひとでなしになってしまう。それだけは嫌だと、思いました。たとえ心を失っても、誇りだけは失いたくなかった」
 は顔を上げ、レイジュの方へ向き直った。柔い青の瞳がこちらを見ている。話を黙って聞いていたレイジュが、薄く唇を開く。
「優しいのね」
 一瞬、サンジが重なる。同じ事を言われた。その自覚は無いのだが。情など、とっくに心の奥底に沈めて凍らせたというのに、何故今になって他人からそう見られるようになっているのか。には理解できなかった。氷の仮面だって失ったわけじゃない。
「……そんなことは」
 ありません、と否定した言葉は機械音に遮られる。音が鳴った方を振り返れば、イチジが立っていた。こちらも対して怪我をしていなかったらしい。あれだけの攻撃を受けても微調整で済むというのだから、やはり自身の夫はただの人間ではないのだと思い知らされる。あの高速の断頭台のようなものを腕一本で受け止めていたのだからそれも当然なのかもしれないが。調整が終わる前でも、腕の損傷箇所など無かったように思う。そんな事を思いながら、は音もなく立ちあがり一礼をしようとする。
「この状況でも、礼儀を欠かさないんだな」
 イチジが感情を見せずに言う。慌てて頭を上げた。非常時でも長年の癖は抜けないらしい。
「……申し訳ありません」
「怒ってなどいない」
「言い方の問題じゃないかしら、イチジ」
 レイジュの鋭い指摘に、思う事があったのかイチジは珍しく口を噤む。珍しい事もあるものだとは思う。数秒、考え込むような仕草を取っていたがそれも束の間、イチジはの腕を急に引いた。思わずバランスを崩したが、イチジは難なく受け止める。何を、と反論をする前にイチジがレイジュに言う。
「用は済んだか」
「概ね……ってところかしら。いいわよ、夫婦だものね。積もる話くらいあってくれなきゃ困るわ」
「どういう意味だ」
「よく話し合いなさい、という事よ」
 レイジュはそのまま、ニジとヨンジの様子を見てくると言って再度処置室の方へ戻っていく。何をされるか分からないという不安ではレイジュを見つめたが、振り返ることなく行ってしまった。密かに肩を落とす。引かれたままの腕をそっと離そうとするも、イチジの力に到底敵うわけがなかった。
「あの、何か」
 は諦めて、イチジの腕の中で問う。
「言ったはずだ。聞きたい事があると」
 そう言われ、イチジが玉座の間に来た時の事を思い返す。確かに、聞きたい事があると言っていた。一体何を聞きたいのだろう。不在時の対応などだろうか。
「……お話しいただけるなら、何なりと答えるけれど」
 イチジがの腕を離す。掴まれていた箇所がじんわりと痛んだ。は軽くドレスを整え、イチジと向かい合わせになる。ほんの少し見上げれば、漆黒越しの深紅の瞳がそこに在った。戦闘時に見せていた激情を含むようなものではなく、ただ静かに燃える穏やかな赤だ。
「場所を移す。上にバルコニーがあったはずだ」
「……この艦の速度を考えても、カカオ島まで何時間もかかるけれど。休息に使わなくていいの? 疲れているでしょう」
「問題無い。行くぞ」



 相変わらず、言葉数の少ない人だと思った。もう少し説明くらいしてもいいのに。それとも、こちらが理解していると思っての事なのだろうか。その考えが過った時、は静かに頭を振る。イチジは相手を慮る事などしない。それでも理解しろ、とあまりに傍若無人な振る舞いの表れに違いなかった。
(不思議ね。面倒だと思うのに、それでも着いていってしまうのだから)
 ヒールの硬い音とレイドスーツの柔い音が妙なハーモニーを奏でていた。変な音。何とも思わないのかしら。戦時中だというのに、イチジが傍にいるだけでどうも張り詰めていた気が弛んでいる。先ほどまでは何も考えず凪いでいられたというのに、人間の感情というものは厄介なものだ。
 バルコニーまでの道は、一言も話さなかった。
 研究室からはそう遠くもなく、石壁の中から晴天の真下へ出る。状況が状況でなければ、素晴らしい空模様だと思う。それがふと下を見れば倒れた人の山があり、それを海に投げ捨てている兵士が見えるのだから滑稽だ。何ひとつとして、の見る世界に正常なものは存在していない。お菓子でできた国、洋菓子と化した城、地面いっぱいに広がる肢体、海に浮かぶ人。科学の国に、複製された人間たち。イチジがの前に立つ。この景色を見て、何を思うのだろう。イチジに倣い、も少し前に出た。そよぐ風は変わらず甘い匂いを運んでいる。時々、煙たい匂いが混じってあまり心地良くは思えなかった。そのまま風に吹かれて、無言の時が続く。ばたばたと動き回る兵士を見ていると、隣に立ったイチジが地平線を眺めながら問うた。
「お前は、何も言わないな」
 意外な言葉に、は視線をイチジに投げる。
「肝心な事ばかり隠す」
「……まさか、貴方からそれを言われるだなんて思いもしなかったわ」
 自分だって何も言わないじゃない、という言葉は飲み込んだ。言い合いがしたい訳ではない。視線をイチジから遠く、海と空の境に向ける。イチジも同じ方向を向いていた。
「お前ほどではない」
「あら、私だって貴方ほどではないわよ」
 売り言葉に買い言葉だった。だが、言葉ほど険悪な空気ではなく、むしろ二人の間には穏やかな風が吹いている。
「…………明日、世界が終わるとして」
 イチジが、遠くを眺めながら言う。喧騒がすっと消え失せて、静寂が訪れていた。
「お前は、何を思うんだ?」
 は大きく目を見開いた。紛れもなく、イチジと別れる際にが発した言葉だ。まさか、この人がそんな事を聞くだなんて。一体、どんな心境の変化なのだろう。死の淵に立たされて、何か感じ入る事があったのか。心臓が擽ったい。何と答えればいいのか、分からなかった。言うべき言葉はあって、けれどそれがぐるぐると頭の中を駆け回っている。考えているうちに、は無意識に唇を開いていた。
「……貴方の、ことを」
 目を伏せて、それからゆっくりと顔を上げてイチジの方を向く。
「貴方の事を、考えていました」
「へェ」
 イチジはそう言って、変わらず遠くを見ている。自分で聞いておいたくせに、随分と関心が無さそうな態度と返事だ。言わなければ、よかっただろうか。本当は心境の変化などなくて、単なる気の迷いだったのでは。心が陰る。イチジから目を離そうとした刹那、バチ、と弾ける音と共に漆黒を貫く程の鋭い赤がこちらを向いた。
「奇遇だな」
「……え?」
「おれもお前のことが頭に浮かんだ」
 時が止まる。イチジの声と、風の音以外聞こえなかった。闇のように暗いグラス越しで見つめているというのに、奥に在る滾った瞳がを捉えて離さない。グラスに映った自身の顔は、酷く動揺していた。人間らしい感情なんて要らないと思っていたのに、いざそれを真正面で浴びせられると、心臓が鼓動を早めるのだから人間というものはよく分からない。こんな時でさえ他人事のように感じてしまう自分が恨めしい。もっと素直になれていたら、この人が望む態度を取れているのかしら。
「あ……え、っと……。そう、……なのね」
 こういう時は、どんな顔をすればいいのだろう。ただただ静かに、イチジを見て頷く事しかできない。そうして直ぐに目を逸らした。何だか心持ちが悪くて、それを隠すように指先はドレスの裾をそっと弄ぶ。
「あァ」
 イチジはそれ以上何かを言うつもりはないらしい。再び柔い風が髪を撫でて去っていく。逸らした視線の先に、珍しい色をした蝶が飛んでいるのが見えた。それはイチジとの合間を縫うように舞って、イチジの肩に止まる。イチジ自身は気付いていないらしい。
 不思議な事に、その蝶を見ていると心が安らぐ感覚があった。まるで、そう、母の腕の中にいるような。今ならなんだって言えるような気がした。ほんの少しの勇気を携えて、は口を開く。
「あの」
「なんだ」
「ありがとう、ございます。助けていただいて……ついで、なのかもしれないけれど」
「ついで? それが条理だと思っただけだ」
 風が、二人の間を過ぎていった。何も変わらないようで、どこかが確かに変わったような静けさだ。
「――それと」
 大きく息を吸った。心臓が胸を大きく叩く。言わなければ。言わないで後悔をするより、言って後悔する方がよっぽどいい。死の淵に立つまでそんな事も分からなかっただなんて、本当に馬鹿みたいだ。
「今まで……その。私が今、この地に立っていることが出来るのは……他の誰でもない、貴方のおかげです。イチジ様」
 言って、微かに睫毛を伏せる。直接表情を見る勇気まではさすがに無い。指先が震え、思わずドレスの裾を軽く握った。
「息のできない汚泥のような場所から連れ出して、私に自由を与えてくれて……だから、ええと、ありがとう……ございます、なんて、今更よね」
 風が吹き抜ける。
ありがとう、か……その言葉を、お前から聞くとは思わなかった」
 イチジが呟くように言って、ふと視線を遠くに投げた。こんこん、とバルコニーの欄干を指先で叩く。
「……お前はおれの妻だろう?」
「そう、ね……」
「欲しいものは与えると言ったはずだ。おれはお前を奴隷として迎え入れた訳ではない」
 イチジの言葉は、どれも合理的なものばかりだ。理にかなっていて、少しのずれも生じない、機械のようなそれ。けれど、それがヴィンスモーク・イチジという男だ。は、その言葉ひとつひとつの中に、薄っすら光を見出している。表面上は合理的なそれだけれど、何となく秘められた何かがあるような。イチジの目を見れば分かる。冷ややかな炎ではなく、ほんの少しだけ温度を感じる灯火。
「言うべき事は言え。……お前の話を聞く耳くらいは持っている」
「それが私たちの形だと思ったの。それと……口にしたら、なんだか負けた気がするじゃない」
「誰にだ?」
 風が吹き抜けて、の髪がイチジの肩を撫でる。それでもイチジは表情を変えない短く問いかけられた言葉に、は少しだけ顔を背けた。
「貴方に決まってるじゃない」
「おれは、お前に勝ちたいと思ったことなど一度もないが」
「どうかしら。……でも」
 視線を合わせるのが悔しくて、空を見上げる。ひと呼吸置いて、は続けた。
「後悔、したわ。そのまま死ぬのが、嫌だった。ずっと死ぬ事ばかり考えていたというのにね。おかしいでしょう?」
「そう簡単に死なれても困る」
「……死の間際になってようやく気付いたというのに、不出来な妻だとは思わないのね」
「言ったはずだ。奇遇だな、と」
 イチジは、バルコニーの欄干に寄りかかるをちらりと見た。その瞳の奥で、何かが燃えている。
「お前が先にそれを言っていなければ……おれの負けだっただろうな」
「……何の、話?」
 思わず首を傾げた。話がまったく繋がっていないような気がする。イチジの中では繋がっているのだろうか。イチジの方へ顔を向ければ
「……言わせる気か」
 そう言って、イチジがの視線を感じる前に顔を背けた。一拍の沈黙。何を、言いたかったのかしら。うまく掴めない。けれど、どうしてか唇がほんの少しだけ綻んだ。深紅の声が心の奥に触れた気がした。
 喧騒がそっと戻ってくる。まだやり残した事があると分かっていても、どうしようもなく空は晴れていた。鬱陶しいくらいだというのに、青々とした空はイチジとを優しく見守っている。
「夫婦ともなれば、思考も似てくるのかしら」
「さァな」
「ふふ、そうね」
 顔合わせのあの日以降、こうして語らう事など、片手で数えるくらいしかなかった。振り返ればそれ程、イチジと向き合う事を避けてきたのだと思う。そもそも契約に始まった関係で、そこに愛など存在しない。それは、こうして語り合っている時でさえも感じる事だ。恋も、愛も、そんなものは全てまやかしだ。確証など無い。形のないものに縋るより、紙切れ一枚でも形あるものの方が信用できるというもの。名前を与えられただけだとしても、思ったほど空っぽではなかったらしい。ただ隣に居る、それだけで満たされる何かがあった事は、今更声に出して言う事でもなかった。不思議に思う事も無い。イチジの事を考えるだけで言葉が溢れるのは、そういう事に違いないのだから。抑えていたはずのものは、知らぬ間に蓄積していたらしい。幾重にも仮面をつけて、押し殺していたつもりだったけれど、蓋を開けて覗けば笑ってしまうくらいに乱雑だった。押し込めてきた感情は、ほつれた糸の塊のように胸の底で擦れていた。解こうにも手が追いつかない。でも、その全部がイチジに向いている――それだけは確かだった。
 輿入れ前の自分に会えるとするなら、きっとこの事を一番に伝えるのだろう。あなたはこの国で、あの人の隣でこそ生きていけるのだと。あなたが望むものは全て、あの人が与えてくれるのだから、と。
 そう思うと自然に笑みが零れていた。作ったものではなく、強張る事もせずに弧を描くことが出来たのは一体いつぶりだろうか。イチジの赤い瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
「そんな顔も出来るのだな、お前は」
「そうみたいね」
 イチジの手がの頬に触れる。無意識だった。外骨格でもないのに、陶器の白さを持つそれは随分と温かいのだとイチジは知っている。ほんのりと桃色に色づいた頬は、表情も相まって何処か歳相応のように思えた。普段の澄ました顔や佇まいも美しいし、もっと言えば組み敷かれて啼いている時の表情が一番の好みではあるが、の飾らない笑顔というのは、自身でさえ一瞬反応が鈍る程に麗しい。
 と結婚したのは、ただの契約だ。そこに愛も無ければ情も無い。自身はそういう存在なのだから、それは今この時も変わらない。だが、言葉にする事ができない感情が渦巻いているのも事実だった。政略結婚によって名前を与えられただけの関係だと思っていたが、どうやら違ったらしい。支配と従属、ただ傍に居る事だけを許した女にこうも思考を奪われるだなんて、屈辱でしかないのだが。けれどそれ以上に、の心を知らないまま死ぬのが嫌だった。そう思っても動かない身体を、あの時初めて煩わしいと思った。たかがどうぐの分際で、王の思考を乱すなど万死に値する。だというのに、すぐ手折れそうな首に手を掛けても壊れないように気遣う事しかできないのだ。
 この、誰よりも脆く儚い花が、手の届く距離に居る事が誇らしい。他の誰でもない、ヴィンスモーク・イチジただ一人に捧げられた人形。手放すつもりは微塵も無い。誰かが触れる事も許さない。一生自身おれの為に在れ。そう思っている。
 イチジがを見れば、未だに綻ぶように笑っていた。それを見ていると、自然にイチジの口角も上がる。
「……お前は、何を感じておれの傍に居たんだ?」
「そんな事を気になさるの?」
「そうらしい」
 イチジの問いに、は微かに睫毛を揺らし、けれどすぐに顔を上げて
「私は貴方の妻。ジェルマ王国第一王子妃、ヴィンスモーク・
 言った。漆黒を通して見ても、の赤い硝子に光が灯っている。
「あなたのどうぐなのでしょう? でしたらどうか、大切に扱ってくださる? いつか壊れるその日死がふたりを分かつまで……、私は貴方の為に在り続けるわ」
 イチジの瞳が、大きくなる。刹那、一際強い風が吹いた。油断していたせいか、思わず体勢を崩す。足元が揺れて前に倒れそうになったその時、ふわりと身体が舞う。風がの身体を攫うよりも早く、イチジが腰を抱いてそのまま引き寄せられた。漂う菓子の甘い香りと、イチジの匂いで目の前が揺れる。くらくらして、まるで目眩でも起きているようだった。
「熱烈だな。……それがお前の選ぶ道か」
「お嫌いかしら」
「いや……、悪くない」
 言って、イチジがの顎を指でそっと上げた。
 赤い瞳が交わる。互いを写しているはずなのに、輪郭が融けてこの世で一番美しい赤が瞳の中に在った。が静かに目を閉じるのと同時に、唇に柔いものが重なる。戻ったはずの喧騒が、また遠くなっていく。ただ触れるだけのそれは、結婚式の時に交わした誓いのキスよりずっと甘い。まるで絵物語のよう。熱と熱が混じりあって、ひとつになる。心臓の鼓動が聞こえてしまうのではと思うくらいにうるさかった。甘い風がイチジとをゆっくりと撫で、聞こえないはずの潮騒が遠くで鳴っている。数秒の出来事だと思うのに、ずいぶん前からこうしているような、不思議な感覚だった。時の流れが止まっていて、ふたりだけの世界にいるように感じる。触れている箇所が火花を持って、じんわりと融かされていく。仮面も氷も、問答無用と言わんばかりに。恐怖なんて少しも感じない。無理に割られる事はなく、けれど確かに、氷が水となって溢れていく。その感覚が心地よかった。
 温もりがそっと離れていくのと同時に、目を開く。イチジの悪戯じみた、けれど嫌味を一切感じない、階級も何もかもを置き去りにした相応の微笑みに、少しだけ頬が熱くなる。一瞬、何も考えられなかった。恥ずかしさのあまりイチジへ背を向けた。僅かばかりの寂しさを覚えながらも、小さく咳払いをして、再度イチジへ向き直る。
「あの、……やはり少しだけ休まれてはどうかしら」
 わざと話題を逸らす。休養を取ってほしい事も本音ではあるけれど。イチジは先程までの柔い表情から普段の無機質なものに切り替えて頷いた。
「戻るぞ。あまりに遅いと周りが喧しくなる」
「えぇ」
 くるりとに背を向け、イチジは一人バルコニーから部屋へと入っていく。石タイルの上を小気味よいヒールの音と気の抜ける可愛らしいブーツの音が不思議な即興演奏を奏でていた。状況には全く相応しくない、ずれた演奏なのにどこか美しい。終演へと向かっているというのに、部屋の先の扉は何かの幕開けのようにゆっくりと開かれていく。その先は光に満ちていて、これからの行く末を祝福しているようだった。
 その扉まで敷かれた赤いカーペットの上をイチジは歩いていく。堂々とした足取りで。その背は正しく、全てを統べる王であり、絶対的支配者の姿だ。それに相応しくある為に、もその後ろをゆっくりと歩く。
「――地獄の底まで、ついていくわ」
 静かに、けれどどこか芯のある声色では呟いた。返事はない。
 けれど一瞬、ぱちりと赤い火花が散る。まるで、そっと未来を照らしているようだった。

WCI編襲撃後の話。こちらも色々対比の構成にしています。

Back