グラス越しの世界


 

 重く、冷たい城の石壁に反響して、随分と遠くから名前を呼ぶ声がする。使用人らが何かを恐怖するかのように表情を曇らせ、未だ動かぬ女に目配せした。だが、女はそれに一切の反応を見せず、ただずっと遠くの海を眺めるだけだ。何を思うでもなく、まるで人形のように。

 

 再度、声がする。そっと振り返ると、安堵した表情の他に、頬を赤らめた使用人と目があった。、と誰かに呼ばれた女はふう、とひとつため息を零す。そう言えば、今日は彼が帰ってきているのだった。

「せっかく静かに海を眺めていたのに」

 夜風に、薄い藤色の髪を撫でさせつつは言う。深いルビーの瞳が、底の見えぬ暗さを宿す。が他人と話すときは、いつもこうして、瞳の明度を下げる。先ほどまでは月明りで輝いていた瞳が見る影もなくなったのは、それが理由だ。
 彼女は、他人を信じない。過去に嫌な目をみたからだ。血縁者による壮絶な虐めにあったのだ。

 ――は娼婦の娘だ。父は、国王である。
 貴族の男が気まぐれに訪れた夜街で、適当な女を買って孕ませる事など、が生まれた国では日常茶飯事であった。だから、は生まれの事に関してはどうとも思っていない。ただ、偶然に父が国王で、母が娼婦で、偶然その種と卵がくっついてとなっただけだからだ。母が自分を産んですぐに亡くなったらしい事も、父が母の死の原因となった自分を受け入れられなかった事も、そこまで気にしていない。それもそうか、と子供ながら妙に納得した記憶もある。確かに、亡くなった母親に自分はそっくりだ。面影を感じて苦しむ気持ちは理解できる。
 けれど。
 血を分けたはずの兄や姉からの虐待だけは、どうやっても消化――昇華というべきか――できなかった。は何もしていないのに"売女の娘"で"穢らわしい"からという、たったそれだけの理由で害されることは理解できなかった。自分が生まれたことに、非などないはずなのに。いじめられないようにと一人でひっそり影で過ごしていても、目ざとく見つけて、殴って、蹴って、唾を吐く。血が流れても、お構いなしだった。自分の生は、きっと母以外の誰からも祝福されていなかったのだと幼いながらも察せるほどに。
 おかげさまで、の表情はどんどん暗くなっていった。いつからだろう、感情という感情を表に出さなくなったのは。笑えばうるさいと殴られ、痛いと泣けば泣くなと蹴られ、何をしても暴力が返ってくる日々は、の心を着実に蝕んで、暗い闇に葬った。

 更に深い黒が、の瞳に宿る。誰も近寄るな、と言外に伝えようとした瞬間だった。

!」

 がし、と誰かが自分の腕を掴む。が徐に顔を上げると、真っ黒いサングラスと目が合った。

「……おかえりなさい、イチジ様。何用ですか」

 淡々と、目先の男に問う。
 この静かな夜に似つかわしくない、燃えるような赤が揺らめく。

「何故返事をしない」

 答えになっているようで、まったくなっていない言葉が返ってくる。こんなのは日常茶飯事だった。表情ひとつ変えず、イチジの返答になんと返せば正解なのかをは考える。正直に「人と話す気分ではなかった」と伝えたら、この、感情のない怪物はどんな反応をするのだろう。人間らしい情のひとつも持っていない目の前の男は、自分の夫だ。けれど、それ故に夫婦らしいことのひとつもイチジとは交わしていない。せいぜい経験があったとして、優秀な遺伝子を残すための行為くらいだ。それも、かなり機械的な。
 じい、と静かにサングラスの奥にうっすらと映る瞳を見る。元々寡黙な性格のようで、何を考えているかも分からないのに、素顔も隠されては察しようもなかった。

「夜風に吹かれていて、イチジ様の声に気付きませんでした」

 考えるのが面倒になり、は適当に嘘を吐いた。どうせ本音を話したところで、この男は何の反応も示さないのだろうと思ったからだ。自身の言葉で、少しでもこの鉄仮面を崩せたならそれなりにこの生活を面白いと思えるが、それはがこの男と笑いあえる未来を望むことくらいには無理な話で、期待するだけ無駄というもの。それに、この怪物が人間らしくなったら、今以上にはイチジにどんな反応をすればいいのか分からなくなる。怪物を相手にする方が、にとっては気楽だった。

「気付かなかったわりには、こちらを見ていたようだが」

 え、と思わず声に出す。まさか、こちらでは姿を確認すらできなかったのにも関わらず、この男には既に見えていたとでもいうのだろうか。

「意地の悪いお方。全部お見通しって事ですか?」

「何のことだ」

「イチジ様に言っても理解できないと思いますけど」

 夫婦らしさの欠片もない会話に、使用人たちが一歩足を引く。返事を待つも、イチジは黙ったままで特に何か言いたげでもない。掴まれた腕をそっと振り払い、は何も言わないイチジを見る。

「――誰とも話す気分じゃなかったんですよ」

「なら最初からそう言えばいいだろう。下手な嘘をつくな」

 相変わらず顔色ひとつ変えずにイチジは言う。なんだかはだんだんと苛立ちを覚えた。気分が良くない日に限って、どうしてこの男は絡んでくるのか。普段ならばが何をしようと、イチジは見向きもしない。お互いにそう約束をしたわけではないが、もとより政略結婚、愛も何もない。おまけに相手は無感情の怪物で、自分も同じくらいには感情の見えない化物だ。相手に対する気持ちもほぼないと言っていいので、接触する回数はゼロに等しい。
 それなのに、なんで今日に限ってこの男は。

「私の理由なんてどうだっていいじゃないですか。いつもなら何をしようと干渉しないのに今日は珍しいですね、わざわざ探しに来てくださりありがとうございます。では」

 口早にそう告げて、イチジの横を通り過ぎる。……が、再度その腕を掴まれた。さすがに抑えきれなくなったは、イチジに向かって声を上げる。

「――何なのです!今は誰とも話したくないと言っているでしょう!!そんなことも分からないのですか、ジェルマの最高傑作とやらも随分といい加減ですね!!」

 瞬間、びし、と空気が凍った。使用人たちがわなわなと唇を震わせてはこちらを見ている。別に怒られようが殴られようが、にとってはどうでもいい。そもそも「一緒に居たくない」と伝えたにも関わらず、話を聞かないイチジが悪いのだ。普段こそ怒りの感情さえ表に出さないだったが、何故かイチジに対してだけは時折こうして、感情を抑えつけることができなくなる。にでさえその理由は分からなかった。
 ずっと黙っているイチジは、の腕を掴んだまま後ろでうろたえている使用人に対し短く「ストールを持ってこい。身体を冷やされても困る」と伝え、ぐい、との手を引くとそのままバルコニーの柵ぎりぎりまで足を進めた。

「そんなに俺といるのが嫌か」

「ええ、嫌です。気分じゃないので」

「そうか」

 聞いたわりに去ろうともしないイチジを見て、だんだんと怒りを通り越し呆れたは、未だに掴まれたままの手を振りほどき観念してイチジと少し間を開けてその隣に立つ。少しだけ風が冷たくなってきたようだ。ふる、と肩を震わせていると、ちょうどよいタイミングでストールを抱えた使用人がやってきた。

「奥様、こちらを」

「ありがとう」

 がストールを受け取ったのと同時に、複数いた使用人がみな何かを察してバルコニーから出払っていく。さすがジェルマの使用人、言わずとも雰囲気だけをみてどう動くべきかを理解しているようだ。こんな王子たち相手では苦労することが多いだろうに、とは心の中で彼ら彼女らの苦労をねぎらった。
 再び、沈黙がイチジとを包む。先にそれを破ったのは、だった。

「――で、結局何の用です?わざわざメイドにストールまで持ってこさせて」

「用などない」

「なっ……」

 人を怒らせてまで引き留めたくせに、用などない?この男は自分が何を言っているのか分かっているのか?呆れさえ通り越して、もう何でもいいや、と半ば投げやりには深くため息をつくと、イチジを横目で眺めた。鬱陶しい程に燃える赤と、夜の闇よりも深いサングラス。顔は整っていると言っても過言ではないので、きっともう少し人に対する情があれば誰もが放っておかないのだろうとは思う。何も知らない人からすれば、誰もがを羨んでは口々に「幸せ」と言うのかもしれない。けれど、はそうは思っていない。自国にいた頃よりかははるかに"平穏"ではあるものの、それ以上でもそれ以下でもないからだ。ただ、そこにいても虐められないという点においては確かに幸せであると言ってもいいのかもしれない。そんな事を考えながらはイチジから目を逸らし、夜空を見上げる。星々がきらきらと静かに瞬いて、の目に落ちた。月明りが優しくふたりを照らし、うっすらと窓に影が映る。この戦争国家には似合わぬほどに、この景色は幻想的だ。
 けれど、サングラス越しに見たこの夜空は、いったいどのように映っているのだろうか。そんな事をふと考えたはイチジに声をかける。

「イチジ様には、この空がどう映っているのですか」

「どう、とは。普通に夜空が見えている。星と、月と、海だ」

「そういう意味ではありませんよ」

 何だかイチジの返しが面白くて、はふ、と口元を緩めた。

「サングラス、貸してくださる?」

「何に使うんだ」

「いいでしょう?減るものじゃあるまいし。それに……そう、イチジ様が見ておられる世界を私も見てみたいと思いまして」

 わざとらしく頬に手を当て、優雅に微笑むふりをする。きっとぎこちない笑みだろうなとは思う。こうして人に微笑むことなど、十八年生きてきても数えるほどしかないからだ。イチジはを一瞥すると、少し間を開けてそっと自らのサングラスを手放した。刹那、その髪色とまったく似た色の瞳と目が合う。ルビーを溶かしたかのように眩い赤。または、血液の色。ちかちかと星のように瞬くそれに、は少しの間不覚にも目を奪われた。それを悟られないように、軽く咳払いをするとイチジから渡されたサングラスを自分の目に当ててみる。瞬時に世界が影になった。星の瞬きも、月の優しい光も、遠くにさざ波を立てて揺れる海も、全てが黒に染まる。夜だという事もあるが、これでは暗すぎて、何も見えたものではない。試しに隣に立つイチジにも目を移したが、真っ赤に燃える赤もくすんで見えた。

「まぁ、なんて味気のない世界」

「お前にはそう見えるのか」

「えぇ。見たくないものも、見せたくないものも隠すには最適な世界が見えますわ」

 イチジはのその言葉には答えなかった。揶揄いのつもりで呟いたというのに、何の反応もないのは少々不服だったが、イチジの事だ。そもそもこの方が普段の彼の在り方だった。それはだけに限らず、誰が相手でもイチジは余計な事は一切喋らない。そう育てられたのか、またはそういう気質なのかはわからないが、仕方ないと割り切ってはそっとサングラスを外す。

「でも、この世の真理のようですね。どんなに美しく綺麗でも、グラス越しならばどう見えるかなんて、その人にしかわからないもの」

 価値観なんて人それぞれですしね、と付け加えては口を噤んだ。イチジの見ている世界は、にとっては味気ないものでも、イチジから見ればまた違う事は明らかだ。少しだけ寄り添ってみようと近づいてはみたが、結局イチジの事は何もわからない。このような理解しがたい感情を抱いた自分に、急に嫌気がさしてそろそろ中へ入ろうとしたその時だった。

「――そのグラス越しでも、お前の事は美しく見えている」

 の足が止まる。

「俺は特に、この景色を見ても何も思わん。星と月があって、遠くに海が見える。それだけだ。だが、不思議とお前は少しだけ輝いて見える事がある。何故だろうな」

「……イチジ様にも、そういう感情があるんですね」

 感情のない怪物が、一瞬だけその殻を破って中身が見えたような気がした。ああ、この人もきっとれっきとした人間なのだとは悟った。人間嫌いのにとっては不都合であるはずなのに、何故こんなにも胸が躍るのだろう。どうして、この人に感情の色が垣間見えた瞬間「嬉しさ」を感じたのだろう。自分の事なのに、まったく理解が出来なかった。その答えから逃げるようにしては緩く首を振ると

「さて、イチジ様。そろそろ戻りませんか」

 イチジも軽く頷いて、の後ろに立ち後に続くようにして部屋の中へと移動した。

「そういえば。用もないのに私を呼んだ理由は何です?」

 は当初から疑問に思っていた事を、いい機会だと感じてイチジに問う。あれだけ忙しなく呼んでいたというのに、用がないとはどういう事なのかさっぱり分からない。改めてこのジェルマ王国の王子相手に常識など通用しないのだとは静かに察する。じい、とイチジを睨むように見つめると、黒いサングラスが外れた鮮烈な赤い瞳がこちらを見返す。思わずどきり、と心臓が音を立てる。そう言えばサングラスを返すのを忘れていた。

「お前が部屋にいなかったから呼びに来た。妙に落ち着かなくてな。俺の道具ものだと自覚があるなら、俺が居る時くらい近くにいろ」

 何の疑問も持たず、ただはっきりとイチジは告げる。それに伴う感情など、どうせないのだろう。そう思っているのに、先ほどから鳴り続ける心臓がうるさくて煩わしい。は「そうですね」と短く答えて、サングラスを渡してから矢継ぎ早に部屋の中へ戻った。自室のソファに腰かけようとして、イチジに止められる。

「俺の部屋に来い。何のために呼びに来たと思っているんだ」

 言わなくても察しろよ、と言外にいいたそうな声色でイチジは言う。あれだけさっきは一人にしてほしいと伝えたのに、もう忘れたのだろうか。
 ――けれども、何故かもう少しだけイチジと会話をしてみたいと思っている。だから、特に否定する理由はもうないのだ。

「はぁ、色気もなにもない誘いをありがとうございます」

 適当に答えて、自室からはだいぶ離れたイチジの部屋に二人で向かう。長い長い廊下をただ口を噤んで歩いた。それからは当たり障りのない会話を数回交わしてから二人で同じベッドへ横たわる。ごく一般的な夫婦なら向かい合って寝るところだが、あいにく自分たちはそうではない。何の合図がなくとも自然と相手に背を向けて、黙って寝る事だけに神経を注いだ。「おやすみ」の一言くらい言えばよかったかな、と思いつつは先ほどのイチジの言葉を脳内で何度も反復した。

 美しい、美しい、美しい……。

 一般的な夫婦なら、きっと""ありがとう""の一言で終わるのだろう。一般的な夫婦なら、きっと気の利いた返しをするべきだったのだろう。しかし、とイチジは一般的な夫婦ではない。一般的な夫婦ではないのに、何故あの言葉がイチジから出てきたのか。ただの気まぐれ?それとも、ただ単にそう思ったのか、若しくは。
 ――感情のない怪物だと聞いた。人間としてあるべき情がないのだと。けれど、先ほどの一言は明らかに、きっと誰が見ても、感情が備わっていると信じて疑わない行動だった、ような気がする。そうっと後ろに目をやり、本人に聞こうとしても静かな寝息を立てていてはどうしようもない。は諦めて、目を閉じる。

 それにしても、がこうして他人の事に関心を寄せるなど今までにはなかった事だ。それがどういう事なのかにも分からない。そして。と同じように、自分が何故あんな事を零したのかとイチジが思いを巡らせていたこともには知る由もなかった。

WCI編前。急にOPのジェルマに落ちました。彼らの事を知りたいのに何もわからない……。無感情ってなんでしょうね。

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