灰に埋もれた華を摘む

 コツ、コツ、コツ。
 石造りの冷たい廊下に、ヒールの音が響く。壁の左右にかけられた照明に照らされる女がひとり。その後ろをメイドと思しき使用人が数人続く。誰もが口を噤んでおり、声を発する者はいない。敷かれたレールの上を歩くが如く、女はただ真っ直ぐに、奥にたたずむ扉へと歩みを進める。女――は今日を以て、生まれ故郷であるこの国から別の国へと旅立つのだ。他国の王子との、政略結婚によって。
 は、自国の一番下の王女だ。国王と娼婦の間に生まれた、所謂妾の子である。一般的な政略結婚であれば、その国の第一王女を出すべきだが、今回は異例だ。政略結婚の相手は、北の海で知らぬ者などいない、かの有名な悪の軍団ジェルマ66の第一王子だった。架空の存在だとは思っていたが、実在したらしい。の父、つまり国王はこのジェルマ66に陶酔したらしく、多額の資金援助をする代わりに自国の国土拡大に貢献してほしいそうで、この度ジェルマ66の傘下に下る事を決めた。それだけならば、がこの国を出てわざわざ結婚などする必要はなかったが、どうにも父はそういった事に対し昔から疑い深いきらいがあった。ゆえに、ジェルマ66と自国の結託を強めるため此度の政略結婚を推し進めたのだ。要はを生贄に差し出して、出来うる限りの恩恵を受けようという父の魂胆である。だから、この結婚にこの国の未来を背負う第一王女を出すわけにはいかないのだ。別にジェルマ側がそれを受ける理由はないと思えたが、とんとん拍子に事は進み、今日に至る。

 コツ。
 自国の城の中でも、ひときわ大きい扉の前では静止する。微かに漏れる声は、父の声だ。何を話しているかまでは分からなかったが、恐らく今回の結婚に関する何かだろう。は深いため息をついた。

「開けて」

 そう呟くと、使用人がの前に出て、静かに扉を開ける。ギィ、と鈍い音を立てて、扉が開いていく。部屋の中から漏れゆく光に一瞬目が眩む。完全に扉が開くと、白い大理石造りの大きな部屋の中に、三人の男が座っていた。一人は父、一人はジェルマ王国の現総帥、そして。

「――お初にお目にかかります、私は。お待たせして申し訳ございません。ヴィンスモーク・ジャッジ様、イチジ様」

 教科書通りの、丁寧なお辞儀をしては夫となるべき人物、ヴィンスモーク家第一王子のヴィンスモーク・イチジを静かに見つめる。暫くを黙って見ていたイチジだったが、すぐに指先、足先まで洗練された動きで立ち上がると軽い会釈を返してきた。

「お父様も、遅くなって申し訳ありません。少々ドレス選びに手間取ってしまいまして……」

「構わんよ、可愛い。私はまだ総帥殿と話すことがある。そうだな、イチジくん。よかったら私の娘と少しふたりきりで話してきてはどうかね?」

 可愛いなんて、一度も思ったことないくせに。
 は顔には出さず心の中で悪態をつく。にこやかな表情でを見る国王だったが、当の本人はそれが見え透いた嘘だという事に気付いている。縁談なんかよりも、父にとって重要なのはその後の話。ジェルマ王国総帥殿とさっさと契約の話に移行したいのだろう。若い二人は邪魔でしかない。まったく、これでも血を分けた親子だというのだから、血縁なんて馬鹿馬鹿しいとは思う。父の思い通りに動くことは癪だが、ここにいても仕方がない。

「まあお父様。なんて素敵な提案なの?イチジ様、ついていらして。私の部屋からは素敵な藤棚が見えるのよ」

 はにこり、と適当に取り繕った笑みをイチジに向ける。

「そうか。――では父上、失礼する」

「あぁ」

 イチジとは揃って会釈をして、部屋を後にした。ふたりの後を数人のメイドがついてくる素振りを見せたが、はそれを断り、今この場にいるのはイチジとだけ。写真でしか見たことのない相手といったい何を話せというのか。メイドがついてくれば尚更気を使わねばならない。だから、余計な気を使わぬように人払いした。まったく国王の無茶振りにも呆れる。が、知らぬ相手と二人きりにされるのを嫌悪している事さえあの父は気付いていないのだ。父がどれだけを見ていないのか、言わずとも理解できる。
 はぁ、と小さくため息を零しは自分の部屋へとイチジを招く。自国の話を軽くしつつ案内する間イチジは一言も話さなかった。まるで興味がないとでもいうかのように。もそれとなく察しているようで、余計な事は何一つ言わなかった。そもそもだって、人嫌いなのだ。話さなくて済むなら、そちらの方がいい。明日からは夫婦となるはずのふたりを、重い沈黙が包む。その沈黙を破ったのは、イチジでもでもなく、部屋の扉を開ける音だった。重苦しい音を立てて、は自室の扉を開ける。

「どうぞ。居心地悪いかもしれませんが」

「……随分と生活感のない部屋だな。およそ一国の王女が住む部屋だとは思えん」

 ようやく、イチジがまともに口を開いた。
 イチジの指摘通り、の部屋には必要最低限の家具しか置いていない。想像される王女が住む部屋とは大違いだった。天蓋付きベッドではなく、単調な造りの木造ベッド。大理石造りのテーブルはなく、質素な木のサイドテーブル。豪華絢爛な調度品が一つも見られないドレッサー。赤い絨毯ではなく、剥き出しの軋む床。どこを切り取っても、一般家庭の町娘の方がよっぽど贅沢な暮らしをしているといっていいほどの有様だ。そんな部屋の様子を見て、イチジが顔を顰めたのをは見逃さなかった。

「王族らしくない、とでも言いたそうな顔ですね。残念、これでも王族の血を引いているわ。半分だけですが。お父様……国王は私がこんな部屋に住んでることさえ知らないの」

 イチジの反応は待たずに、は続ける。

「もう知っているでしょうけれど、私は単なる生贄。ジェルマと自国の繋がりをより強固とするための、ね。私が思うに、あなた達にメリットなんてなさそうですが……どうしてこの政略結婚を受けたのです?かの有名な"戦争屋"なのですから、お金なんていくらでも有り余っているでしょう」

 それに、私に人的価値などないわと締めくくる。が今回の結婚に対して、一番疑問に思っているのはそこだった。
 ジェルマ66。世界経済新聞の『海の戦士ソラ』に出てくる名悪役。は幼い頃、ソラを応援する熱心な読者であった。だが、この作品が海軍による海軍のためのプロパガンダと知ってからは興味が失せ、読む事をやめた。約束された"正義"の勝利。何をもって正義なのか、悪なのか。見方を変えればどちらも正義になりうるし、その逆も然りなのだとは思う。閑話休題。
 かつての海の覇者、ジェルマ王国。三百年前に勝ち取った、六十六日間の栄光。戦争屋。四国斬り。北の海ではジェルマの名は悪の代名詞だ。圧倒的な科学力を保持する国だという知識はにもある。そして、それらを用いて様々な海で傭兵として活躍し、そういったビジネスを行っていると。話を聞く限りでは、金に困った様子でもなく、むしろ潤沢な方ではないのか。ただ金の為だけに、自国を傘下に置くわけではないだろうとは踏んでいた。それに、は娼婦の娘なのだ。第一王子の妃として迎えるにはそれ相応の人的価値が求められるはず。にもかかわらず、ジェルマ側は差し出された生贄に対し、異を唱えず受け入れた。確かに、はこの国の王族の中でも一番優れた容姿と教養を持っている。他にも、独学で身につけた知識をいくらか。けれど、先ほどのイチジの様子を見るに"王族"としての誇りやこだわりが強そうに感じられるジェルマがたったそれだけの理由でを娶ろうとするか。答えは否。絶対に、隠された意味がある。

「――ほう。あの国王の娘にしては頭が回るようだ。欲に飲まれた人間ほど愚かな者はいない。考える事を放棄した哀れな蠅の話は聞き飽きていたところだ」

「あら、これから妻になる女の父を蠅呼ばわりなんて。少しは取り繕った方がお互いの為なのでは?」

「そんな必要が何処にある?貴様の国は明日より我がジェルマの傘下。北の海制覇を夢見る、ジェルマの礎だ。"ジェルマの動かぬ国土として"北の海で戦争を起こしてもらう。それ以上でも、それ以下でもない」

 イチジは淡々と言い切る。我が国は道具でしかないと。
 普通であれば、ここで噛み付いてもいいのかもしれないが、あいにくはこの国に愛着がまったくない。たとえ戦争で国が滅びようと、血族が死のうとどうでもいい。民の事は少々哀れとは思うが、それが運命だというなら抗う事は無意味だ。強いて言うなら、この部屋の窓から見える藤棚と、そこへ遊びに来る動物たちのことは気掛かりではあるが。明日、これだけ持っていきたいと申告すれば何とかできるだろうか。などとおよそ国の一角を背負う王族らしからぬ事を考えていた。自分の生まれた国が道具と吐き捨てられても、自分が平常心でいられることには最低だ、とまるで他人事のように自嘲する。それだけ関心がないのだ。冷静に今後の展開を想像できるくらいには。

「……つまり、ジェルマの科学を使って我が国が国土を拡大する事によって、"ジェルマ王国の"国土が拡大していくと。確かに、国土を持たない海遊国家であるあなた達には、動かぬ国土がある事は利点でしかない。その国土が広がれば北の海制覇もそう遠くない話になる。是が非でもほしい土地だという訳ですね」

「そういう事だ。それに、我が国の科学はまだまだ未知数……我々が持ち帰るデータだけでは計り知れない事も多い。ちょうど多数のサンプルが欲しいと思っていたところだった」

 そこまで聞いては全てを悟った。表向きは利害の一致、なのだろう。自国はジェルマの科学力を用いて国土拡大を目指す。ジェルマ王国は我が国の資金援助を経て更なる研究に勤しむ。けれど、蓋を開けてみれば面白いほどにジェルマに有利な契約だ。多額の資金だけではなく、我が国が戦争で勝ち取った領土も後に奪い取るつもりなのだろう。それだけではなく、我が国が起こす戦争を土台にして、新しい化学兵器の効果や威力、副作用などをサンプルデータとしてあらゆるものを搾り取るつもりなのだ。おまけに、生贄として差し出されるは国一番の容姿と教養を持つ才女。生まれだけは第一王子の妃に見合わないが、その他は差し支えないと言える。いくら自国では価値がないとはいえ、ジェルマ王国の"飾り"にはうってつけというわけだ。恐らく――というよりも確実に、あの欲に塗れた下品な王は目先の利益に目が眩んで何も気づいてはいないのだろう。この国の行く末はどう転ぼうとも滅亡だという事に。

「なるほど。利害の一致は見せかけ、搾取できるものは全て残らず搾り取ろうという魂胆ですか。これは一杯食わされましたね。あの考えなしの父は」

「話が早いな。国一番の才女、という噂は伊達ではなかったか」

「お褒めにあずかり光栄です、第一王子殿」

 愛想笑いもなく、眉ひとつ動かさずは応える。これで、一見無意味に思える政略結婚に理由がついた。それを知ったところで、何かが変わるわけでもないが。はただ、国王の思うがままに動くだけだ。
 必要な話が終わったところで、再び沈黙が訪れる。しん、と静まり返った部屋の窓がかたかたと風に揺れた。そういえば、この部屋へ移動する仮初めの理由として藤棚をあげたのだった、とは思い出す。は、傍に立つイチジには目もくれずに窓へ近づいて外を眺める。辺り一面にある、薄紫の海。僅かな抵抗もせずに風に揺られるがまま藤はそこに佇んでいた。月の光を浴びて輝くそれらは昼間に見るものとはまた違った景色を見せる。

「好きなのか」

 唐突にイチジが口を開いた。

「えぇ、まあ。美しいものなんて、嫌いな方が珍しいでしょう。誰だって少なからず感動を覚えるものでは?」

「さあな。あいにく、俺にはその感覚がわからない」

 わからない?いったい、どういう事なのだろう。何かを目の前にした時に、一切心が動かないとでもいうのだろうか。まさか、感情のないロボットでもあるまいし。そんな心の声が伝わったのか否か定かではなかったが、が聞かずともイチジはそのまま話し続ける。

「俺――正確には俺と、二人の弟には感情がない。戦争に勝つために不要な感情は父が消した」

「はぁ。嘘みたいな話ですが、科学が発達した国の王子が言うのであれば本当なのでしょうね。それで?いったい何が不要の感情だとお父上は判断したのです」

「敵にかける情、哀れみ、優しさ。死への恐怖……あたりか。そう聞いている」

 そう、と短くは返す。イチジはのその反応が気になったのか、特徴的な眉を少しだけ動かした。

「これから夫となる相手の感情がない、と知った女の反応ではないな。俺が言えたことではないが、何故そうも無関心でいられる?」

 イチジがサングラス越しにを見つめる。ガラスから薄っすらと覗く、に似た赤々しいルビーを落としたような瞳はこの夜の薄暗い空間でもはっきりと視認できるほどに輝いていた。感情のない男にも関わらず瞳だけ爛々と輝いているのはなんとも不気味だ。逆に、感情がある人間でもガラスを嵌めたかのように無機質なの瞳にも同じことが言えるのだが。
 はイチジの問いに対し、その無機質な瞳を外に向けながら独り言ちるように答える。

「あぁ。私、人間が嫌いなんですよ。欲深くて、自己中心的で、美しくないから」

 はぁ、とはひとつ静かに吐息を零す。そしてそのまま徐に振り返り妖しい笑みを浮かべて

「その点、安心ですね。感情がないなんて、まるで怪物のよう。その方が都合がいいわ、人間を相手にするのは疲れるもの」

 そう言った。窓から漏れるすきま風がの色素の薄い髪を揺らす。の話を聞いて、イチジは固く結んだ唇をようやく緩めると口角を上げた。どうやらこの話はお気に召したらしい。そして、黙ったままローファーの音を鳴らしが普段使いしていたベッドにどさり、と腰を下ろすと言外に「もっと面白い話を聞かせろ」と強請ってくる。仕方がない、というようには目を伏せた。備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターとまだ栓が閉まったままのウィスキーボトルを静かに取り出すと、ベッド脇のサイドテーブルにことりと置く。次いで、冷えたグラスをふたつ手に取ると、それも同じようにテーブルに置いてはゆらゆらと揺れるロッキングチェアに腰を掛けた。

「ではひとつ、この国に住む化物の話でもしましょうか」

 はぽつぽつと、まるで子供に読み聞かせをする母親の如く語り始めた。

 ――曰く、その化物は娼婦の娘。王族との間に生まれ、母親は子を産んですぐ亡くなった。娘はそのまま父親に引き取られその後を王宮で暮らすことになるのだが、着いて早々、娘は父親の息子や娘、つまりは腹違いの兄姉にんげんたちに手酷い扱いを受けたそうだ。しかしこれは地獄のはじまりにすぎなかった。殴る蹴るは当たり前。笑えば平手打ちを食らい、泣けばうるさいと叩かれる。娘が、手の付けようがないほど我儘だった?否。苛め抜かれるような容姿と性格だった?違う。全ては娘が"卑しい血を引くから"であった。たったそれだけの理由で、娘はおよそ十数年間、来る日も来る日も血を分けたはずの兄姉から唾を吐きかけられた。
 その日々は娘の精神を蝕むには十分で、ついには娘はその環境に適する最善の方法として心を殺した。諦観し、あるがままを受け入れ上手に息ができるように。人間であったはずの娘は、心のない化物になった。あるのは、全てを飲み込む虚無であり空疎。感情という感情を押し殺し、痛みも哀しみも、何もかもを感じる事が出来ない人間ではない何か。
 いつしか、娘を虐めていた兄姉たちでさえも一歩引くほどの無機質な瞳と表情を身に着けた。そして。

「その化物と呼ばれた娘は、今日を以て他国の王子と婚約する。――言わずともお分かりでしょう。随分とお気に召したようで」

 半分ほど減ったウィスキーボトルを一瞥して、は言う。度数もそれなりに高いはずなのに、と思いつつも口には出さない。

「身分と自身の置かれている状況を弁えている奴は嫌いじゃない。父上が、ジェルマ王国最高傑作であるこの俺と、卑しい血が混じったお前との婚約を認めた時は正気を疑ったが」

 イチジはグラスに残ったウィスキーを一気に飲み干す。
 
「なるほど、随分と見込みのある女のようだ。容姿、教養、感性、どこをとってもお前は第一王子の妃として申し分ない。使えるな」

 強いアルコールの香りがの鼻を掠め、空気に溶ける。その匂いだけでは酔ってしまいそうだった。そのせいだろうか。サングラスに阻まれて見えないはずの瞳に、は光を見た。酒に弱いのかもしれない。だから、イチジが自分を認めたかのような発言をしたのも、きっと都合のいい幻聴を聞いただけなのだと思った。他の誰かがを認めることなど、決してない。自分は化物だから。けれどその方が、にとっては気が楽なのだ。綺麗すぎる水では魚でさえも、息ができない。その理屈と同じで、も泥が混じった水の方が上手に息ができるというのに。

「お世辞が……お上手ですね。私の事をそう評するなんて、相当な物好きくらいですよ」

 声が震えた。どんなに酷いことを言われて傷ついても、心の奥深くに感情を押し込めて笑顔で返せる程には仮面を被る事が容易なはずだ。寧ろそれはの十八番だった。どんな事をされても、どんなことを言われても、心とは違う感情の仮面を張り付けて生きてきたのだから。不出来な妹、薄汚い小娘、卑しい血の女。思い返すだけでも虫唾が走る言葉を散々浴びせられてきた。今まで一度たりとも、の事を「使える」などと言う輩は居なかったのに、今、目の前にいるこの男は何と言った?

「俺が世辞を言う様に見えるのか?それに、その顔はなんだ。この俺が褒め称えたというのに、沈んだ顔をするな」

 イチジの返答を聞いては窓ガラスに映る自分の顔を見た。薄っすらと映り込む顔は酷く怯えたかのような、困惑の色を隠せていない。ガラスに映るは、こんな顔も出来たのか、と自分自身でさえ思わせる程に見たことのない表情をしていた。

「なんっ……、そ、そんな事、あ、……ありません。ごめんなさい、少し、失礼します」

 言うよりも早く、はイチジの傍から逃げ出した。けれども、それはイチジが許さない。戦争屋の反応の速さに一般人、それも王族の娘が勝てるはずもなくはそのままイチジが座る場所へと引き戻された。そして流れるようにベッドへと押し倒される。藻掻こうにも両手を掴まれているので抵抗もできない。

「何ですか!?は、離して!」

 の話など聞かずに、イチジは徐に着けたサングラスを外す。現れた赤い瞳は、の心の中を見透かすようにじいっと見つめてくる。何故だろう、は視線を逸らすことができなかった。ちかちかと、天然のルビーを嵌めた双瞼がの心臓を射抜く。

「恐れ、怯え、戸惑い。おおよそ、今まで称賛されたことなどなかったか。卑しい血に見合わぬ容姿に教養……俺がお前の兄だったらと思うと気が狂いそうだ。出来損ないのくせに、とお前を唾棄した兄姉の怒りは相当だっただろうな。だが、それ以上に完璧である為の努力をしなかった兄姉の不甲斐なさにも反吐が出る」

イチジは淡々と、しかし確実にの心に言葉の棘を刺していく。じわじわと効いてくるそれはまるで毒のようだ。涼しげだったの顔に焦りの色が浮かぶ。目線に乗せた抵抗の声も虚しく、イチジは口角をあげて静かに告げる。

「汚泥に埋もれていたお前を見つけてやったんだ。その労に見合う程度にはジェルマの為に生き、この俺に相応しい妃と成れ、

イチジは強引にの手を引き、顔を覗き込む。ばちり、と音をたててイチジの目に火花が散った。科学で創られた赤い瞳。の顔にさらりとかかる赤い髪。それら全てがの目に映った瞬間、は思い切りイチジを押し返す。

「や、やめてください!」

 全身が震える。じわりと汗が滲む。ぱりん、と音を立てての何かが壊れる。イチジという存在が、誰しも破れなかったのガラスの仮面を、いとも簡単に破った瞬間だった。けれど、一枚壊れた程度で心が溶けるほど、の氷は優しくない。震える身体をどうにか抑え込んで、はあ、と深く息を吐く。呼吸を整え、はイチジに目を向けた。未だに赤い瞳はを離さぬまま、穿つ。
 しかしこの程度で怯むほどだって甘くはないのだ。たかが一枚仮面が割れたところで、どうという事はない。氷でこれでもかというほど固めたのだ、そんな簡単に壊せるものか。――――壊せて、たまるか。

「――失礼、しました。急に触れられたので少々驚きました。どうか今後は、ひとつ前置きでもあると嬉しいのですが」

 イチジはく、と小さく喉を鳴らすと

「本当にそれだけか?」

 と短く問う。はそれには答えずに、イチジへ背を向け扉の前へと足を進めた。おい、と不満げな声が聞こえたがは一切振り返らない。そのまま扉の前に立ち、ドアノブに手をかけた。

「さぁ、そろそろお父様と総帥殿の話も終えられた頃でしょう。どうか末永く、よろしくお願いしますね。第一王子殿」

 ぎいと軋む音をたてて扉が開いていく。差し込んでくるのは、光か、それとも闇なのか。後ろでその様子を伺っていたイチジはおろか、扉を開けたでさえ知る由もなかった。

WCI編前。結婚前夜の話のイメージです。イチジさまにどうやって興味を持ってもらうか……を永遠に考えていました。無感情……。

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