泥濘の華は摘まれ、血の海で咲く

 こつ、こつ、こつ。
 石造りの冷たい廊下に、ヒールの音が響く。壁の左右にかけられた照明に照らされる女がひとり。その後ろを侍女が続く。誰もが口を噤んでおり、声を発する者はいない。敷かれたレールの上を歩くが如く、女はただ真っ直ぐに、奥にたたずむ扉へと歩みを進める。女――は数日後、生まれ故郷であるこの国から別の国へと旅立つのだ。他国の王子との、政略結婚によって。
 は、一番下の王女だ。国王と娼婦の間に生まれた、所謂妾の子である。普通の政略結婚であれば、その国の第一王女を出すべきだが、今回は異例だ。政略結婚の相手は、北の海で名を知らぬ者などいない、かの有名な悪の軍団ジェルマ66ダブルシックスの第一王子だった。架空の存在だとは思っていたが、実在したらしい。の父、つまり国王はこのジェルマに陶酔したらしく、多額の資金援助をする代わりに自国の国土拡大に貢献してほしいそうで、この度ジェルマ王国の傘下に下る事を決めた。それだけならば、がこの国を出てわざわざ結婚などする必要はなかったが、どうにも父はそういった事に対し昔から疑い深いきらいがあった。ゆえに、ジェルマ王国と自国の結託をより強めるため、此度の政略結婚を推し進めたのだ。要はを生贄に差し出して、出来うる限りの恩恵を受けようという父の魂胆である。だから、この結婚に国の未来を背負う第一王女を出すわけにはいかないのだ。ジェルマ側がそれを受ける理由はないと思えたが、驚く程とんとん拍子に事は進み、今日に至る。
 こつり。
 城の中でも、ひときわ大きい扉の前では静止する。微かに漏れる声は、父の声だ。何を話しているかまでは分からなかったが、十中八九、今回の結婚に関する何かだろう。面倒だった。何もかも。あの父に期待するだけ無駄なのだと、もうずっと前に学んでいる。の意志などはお構いなしだ。は深いため息を吐く。
「開けて頂戴」
 そう呟くと、侍女がの前に出て、静かに扉を開ける。ギィ、と鈍い音を立てて、扉が開いていく。部屋の中から漏れゆく光に一瞬目が眩む。完全に扉が開くと、白い大理石造りの大きな部屋の中に、三人の男が座っていた。一人は父、一人はジェルマ王国の現総帥、そして。
「お初にお目にかかります、私は。お待たせして申し訳ございません。ヴィンスモーク・ジャッジ様、イチジ様」
 教科書マニュアル通りの、丁寧なカーテシーをしては夫となるべき人物であるヴィンスモーク家長男、ヴィンスモーク・イチジを静かに見つめる。目立つ赤い髪。整った顔立ち。容姿はどこを切り取っても無駄が無く、社交界に出れば必ず話題になるくらいだ。端的に言えば、容姿端麗。年頃の淑女であれば誰もが放っておかないはずだ。だが、には一つだけ気になる点があった。不気味に灯る赤い瞳だ。まるで感情の色がないように思える。
 暫くを黙って見ていたイチジだったが、指先から足先まで洗練された動きですくりと立ち上がり、軽い会釈を返してきた。
「お父様、遅くなって申し訳ありません。少々ドレス選びに手間取ってしまいまして……」
「構わんよ、可愛い私の。私はまだ総帥殿と話すことがある。そうだな……イチジくん。よかったら私の娘と少しふたりきりで話してきてはどうかね?」
 可愛いなんて、一度も思ったことないくせに。
 は顔には出さず心の中で悪態をつく。にこやかな表情でを見る国王だったが、はそれが見え透いた嘘だという事に気付いている。縁談なんかよりも、父にとって重要なのはその後の話。ジェルマ王国総帥とさっさと契約の話に移行したいのだろう。若い二人は邪魔でしかない。全く、これでも血を分けた親子だというのだから、血縁なんて馬鹿馬鹿しいとは思う。父の思い通りに動くことは癪だが、ここにいても仕方がない。
「まあお父様。なんて素敵な提案なの?イチジ様、ついていらして。私の部屋からは素敵な藤棚が見えるのよ」
 はにこり、と適当に取り繕った笑みをイチジに向ける。
「そうか。では父上、失礼する」
「あぁ」
 イチジとは揃って会釈をして、部屋を後にする。ふたりの後を侍女が数人、着いてくる素振りを見せたが、はそれを断った。今この場にいるのはイチジとだけ。写真でしか見たことのない相手といったい何を話せというのか。侍女が着いてくれば、尚更気を使わねばならない。だから、余計な気を使わぬように人払いをした。国王の無茶振りにも呆れる。が知らぬ相手と二人きりにされるのを嫌悪している事さえ、あの父は気付いていないのだ。父がどれだけ自分を見ていないのか、考えずとも理解できる。
 はぁ、と小さくため息を零しは自分の部屋へとイチジを案内する。自国の話を軽くしつつ、歩く間にイチジは一言も話さなかった。まるで興味がないとでもいうかのように。もその雰囲気をそれとなく察していたので、余計な事は何一つ言わなかった。どんな言葉がこの男の気に障るのか、まだ分からない。そもそもだって、人嫌いなのだ。話さなくて済むなら、そちらの方がいい。数日後には夫婦となるはずのふたりを、重い沈黙が包む。
 その沈黙を破ったのは、イチジでもでもなく、部屋の扉を開ける音だった。重苦しい音を立てて、は自室の扉を開ける。
「どうぞ。居心地は悪いかもしれないけれど」
「……随分と生活感のない部屋だな。およそ一国の王女が住む部屋だとは思えん」
 ようやく、イチジがまともに口を開いた。
 イチジの指摘通り、の部屋には必要最低限の家具しか置いていない。想定される王女が住む部屋とは大違いだった。天蓋付きベッドではなく、単調な造りの木造ベッド。大理石造りのテーブルはなく、質素な木のサイドテーブル。豪華絢爛な調度品が一つも見られないドレッサー。赤い絨毯ではなく、剥き出しの軋む床。どこを切り取っても、一般家庭の町娘の方がよっぽど贅沢な暮らしをしているといっていいほどの有様だ。そんな部屋の様子を見て、イチジが顔を顰めたのをは見逃さない。イチジの反応は予想通りだった。王族ならば当然の感覚なのだろう。はわずかに口元を歪めた。
「王族に相応しくないとでも? まあそうよね。けれど意外と住み心地はいいのよ、お父様……国王は私がこんな部屋に住んでることさえ知らないだろうけど」
 イチジの反応は待たずに、は続ける。
「――どうして此度の婚姻を承諾したの? 貴方の御父上は」
「どういう意味だ」
「言葉通りよ。私は生贄。貴方たちジェルマ王国と自国の繋がりを強固なものにすべく差し出された宝石のようなもの……」
 イチジを軽く見上げながら、更には言う。
「けれどこの結婚、貴方たちにメリットが無いわ。かの有名な戦争屋ですもの、資金なんて有り余っているんじゃなくて?」
 それに、私に人的価値などないわと締め括った。が今回の結婚に対して、一番疑問に思っているのはそこだ。
 ジェルマ66ダブルシックス。世界経済新聞の『海の戦士ソラ』に出てくる名悪役。は幼い頃、ソラを応援する読者であった。だが、この作品が海軍による海軍のためのプロパガンダと知ってからは興味が失せ、読む事をやめた。約束された"正義"の勝利。何をもって正義なのか、悪なのか。見方を変えればどちらも正義になりうるし、その逆も然りなのだとは思う。閑話休題。
 かつての海の覇者、ジェルマ王国。三百年前に勝ち取った、六十六日間の栄光。戦争屋。四国斬り。北の海ではジェルマの名は悪の代名詞だ。圧倒的な科学力を保持する国だという知識はにもある。そして、それらを用いて様々な海で傭兵として活躍し、そういったビジネスを行っていると。話を聞く限りでは、金に困った様子でもなく、むしろ潤沢な方ではないのか。ただ金の為だけに、自国を傘下に置くわけではないだろうとは踏んでいる。それに、は娼婦の娘なのだ。第一王子の妃として迎えるにはそれ相応の人的価値が求められるはず。それだというのに、ジェルマ側は差し出された生贄に対し、異を唱えず受け入れた。確かに、はこの国の王族の中でも一番優れた容姿と教養を持っている。他にも、独学で身につけた知識をいくらか。けれど、先ほどのイチジの様子を見るに"王族"としての誇りや拘りが強いのであろうジェルマが、たったそれだけの理由でを娶ろうとするか。答えは否だ。絶対に、隠された意味がある。
「どうなの?」
 はイチジを見上げながら問う。そうすれば、今まで一切表情を崩さなかったイチジが、静かに口角を上げ、喉を鳴らす。
「ほう、愚かな蠅の娘にしては頭が回るようだ。欲に目が眩む人間程、愚かな存在などない」
「あら、これから妻になる女の父親を蠅呼ばわりなんて。少しは取り繕った方がお互いの為じゃないのかしら」
 は貼り付けた笑みを浮かべて、イチジを見る。実の父を蠅と呼ばれたところで、何も思う事など無い。
「その必要は無い。貴様の国は明日より我がジェルマの傘下。ジェルマの動かぬ国土として北の海で戦争を起こす為の駒に過ぎん」
 イチジは淡々と言い切る。我が国は道具でしかないと。
 普通であれば、ここで噛み付いてもいいのかもしれない。だが生憎、はこの国に愛着が全くと言っていい程無かった。たとえ戦争で国が滅びようと、血族が死のうとどうでもいい。民の事は哀れとは思うが、それが運命だというなら抗う事は無意味だ。強いて言うなら、この部屋の窓から見える藤棚と、そこへ遊びに来る動物たちのことは気掛かりではあるが。これだけ持っていきたいと申告すれば何とかできるだろうか……などとおよそ国の一角を背負う王族らしからぬ事を考えていた。自分の生まれた国が道具と吐き捨てられても、自分が平常心でいられることには酷い人間なのだろうな、とまるで他人事のように自嘲する。 それだけ関心がないのだ。冷静に今後の展開を想像できるくらいには。
「……つまり、ジェルマの科学を使って我が国が国土を拡大する事によって、ジェルマ王国の国土が拡大していくと。確かに、国土を持たない海遊国家である貴方たちには、動かぬ国土がある事は利点でしかないわね」
 は思考を続ける。国土が拡がればどうなるか。ジェルマ王国の真の目的を探るように呟く。
「我が国が国土を拡げれば、北の海制覇もそう遠くはなくなる……」
「あぁ。それに、ジェルマの科学はまだまだ未知数……我々が持ち帰るデータだけでは計り知れない事も多い」
「サンプルが欲しいという訳ね」
 そこまで聞いては全てを悟った。表向きは利害の一致、なのだろう。自国はジェルマの科学力を用いて国土拡大を目指す。ジェルマ王国は我が国の資金援助を経て更なる研究に勤しむ。けれど、蓋を開けてみれば面白いほどにジェルマに有利な契約だ。多額の資金だけではなく、我が国が戦争で勝ち取った領土も後に奪い取るつもりなのだろう。それだけではなく、国が起こす戦争を土台にして新しい化学兵器の効果や威力、副作用などをサンプルデータとして用いる等、あらゆるものを搾り取るつもりだ。おまけに、生贄として差し出されるは国一番の容姿と教養を持つ才女。生まれだけ見れば第一王子の妃に見合わないが、その他は差し支えないと言える。いくら自国では価値がないとはいえ、ジェルマ王国の"飾りの妃"にはうってつけなのだろう。
 恐らく――というよりも確実に、あの欲に塗れた下品な王は目先の利益に目が眩んで、何も気付いてはいない。この国の行く末はどう転ぼうとも滅亡だ。
「利害の一致は見せかけ、搾取できるものは全て残らず搾り取ろうという魂胆かしら。あぁ……我が父ながら呆れて物も言えないわ」
「話が早いな。国一番の才女と謳われるだけはある」
「あら。お褒めにあずかり光栄です、第一王子殿」
 愛想笑いもなく、眉ひとつ動かさずには応える。これで、一見無意味に思える政略結婚に理由がついた。それを知ったところで、何かが変わるわけでもないが。
 必要な話が終わったところで、再び沈黙が訪れる。しん、と静まり返った部屋の窓が、かたかたと風に揺れた。そういえば、この部屋へ移動する仮初めの理由として藤棚をあげたのだった……とは思い出す。は、傍に立つイチジには目もくれずに窓へ近づいて外を眺める。辺り一面にある、薄紫の海。僅かな抵抗もせずに風に揺られるがまま藤はそこに佇んでいた。月の光を浴びて輝くそれらは昼間に見るものとはまた違った景色を見せる。は大きく息を吸って、吐き出した。この景色を見る事以上に落ち着く事など無い。家族――そう呼ぶのも憚られる――に痛めつけられた時や、どうしようもない感情を抱いた時にも精神安定剤の役割を果たしていたのは、この景色だった。の中で、唯一、穢れなかったもの。月明かりに浮かぶ紫色の海を、静かに眺める。
「……花を好むのか」
 唐突にイチジが口を開いた。は窓の外を見ながら答える。
「えぇ。美しいものを嫌う人なんているの?」
「おれにはその感覚がよく分からない」
 わからない? いったい、どういう事なのだろう。何かを目の前にした時に、一切心が動かないとでもいうのだろうか。まさか、感情のないロボットでもあるまいし。そんな心の声が伝わったのか定かではなかったが、が聞かずともイチジはそのまま話し続けた。
「おれと、弟二人には感情がない」
 その言葉を聞いて、は思わず振り返る。
「不要な感情は父上が消している」
「そう……」
 何かを思ったわけではない。感情がない、と言われその事実に一瞬驚いただけだ。けれどそれもほんの一瞬の事で、長引くものではなかった。は僅かに睫毛を伏せる。
「嘘みたいな話だけど、科学の国の王子様が仰るんですもの……本当なのでしょうね。御父上は一体、どの感情が不要だと判断されたのです?」
 口から出た言葉は、自分でも異様だと思える程に冷静だ。私、こんなにも感情の起伏が乏しかったかしら。どうでもいいけれど……と何処までも他人事のような感想しか出てこない。
「敵にかける情、哀れみ、優しさ。死への恐怖……辺りか」
 そうなのね、と短くは返す。イチジはのその反応が気になったのか、眉を少しだけ動かした。
「夫となる相手の感情がない、と知った女の反応ではないな。何故そうも無関心でいられる?」
 イチジがを見つめる。赤々しいルビーを落としたような瞳は、この夜の薄暗い空間でもはっきりと視認できるほどに輝いていた。奥底に弾ける火花のようなものを秘めた瞳は爛々とを穿っている。本当に不気味な瞳だ、と思った。尤も、感情があるはずなのに、ガラスを嵌めたかのような無機質さを感じるの瞳にも同じことが言えるのだが。はイチジの問いに対し、その無機質な瞳をまた外へと向けながら独り言ちるように答える。
「――嫌いなのよ、人間が。欲深くて、自己中心的で、美しさの欠片も無いもの」
 は、ひとつ静かに吐息を零す。そしてそのまま徐に振り返り妖しい笑みを浮かべて
「いいじゃない。……感情が無いなんて、まるで怪物のよう。人間を相手するよりよっぽど、有意義な時間を過ごせそうね?」
 言った。
 窓から漏れるすきま風がの色素の薄い髪を揺らした。月明かりが表情を照らす。人間みの感じられない、虚無を携えたその様子はより一層、の美貌を強調する。そうしてそのまま、は妖しげに微笑んだ。
 イチジは喉を小さく鳴らす。どうやらこの話はお気に召したらしい。イチジは黙ったままローファーの音を鳴らし、が普段使いしていたベッドにどさりと腰を下ろすと、言外に「もっと面白い話を聞かせろ」と強請ってくる。
 は目を伏せた。
 備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターと、以前を気に入った貴族から贈られた、栓が閉まったままのウイスキーボトルを静かに取り出すと、ベッド脇のサイドテーブルにことりと置く。次いで、冷えたグラスをふたつ手に取ると、それも同じようにテーブルに置いてはゆらゆらと揺れるロッキングチェアに腰を掛ける。
「……この国には、化物が住んでいるのよ」
 はぽつぽつと、まるで子供に読み聞かせをする母親の如く語り始めた。

 ――曰く、娘は王族の血を引いていた。しかし、誰も彼女を"姫"とは呼ばなかった。
 王族との間に生まれ、母親は子を産んですぐ亡くなった。娘はそのまま父親に引き取られ、その後を王宮で暮らすことになるのだが、描いていたような幸せな暮らしは全て幻想となる。
 王宮へと続く道は、祝福ではなく呪詛に満ちていた。」
 娘は父親の息子や娘、つまりは腹違いの兄弟姉妹ニンゲンたちに手酷い扱いを受けた。殴る蹴るは当たり前。笑えば平手打ちを食らい、泣けばうるさいと叩かれる。
 娘が、手の付けようがないほど我儘だった? 否。
 苛め抜かれるような容姿と性格だった? 違う。
 全ては娘が"卑しい血を引くから"であった。たったそれだけの理由で、娘はおよそ十数年間、来る日も来る日も血を分けたはずの兄弟姉妹から唾を吐きかけられた。
 その日々は娘の精神を蝕むには十分で、ついには娘はその環境に適する最善の方法を見出す事となる。地獄の中でも、あるがままを受け入れ上手に息ができるように。人間であったはずの娘は、やがて"心"を手放した。それは剥がれ落ちるように、あるいは静かに消えていくように。残ったのはただの抜け殻であった。全てを飲み込む虚無であり空疎。感情という感情を押し殺し、痛みも哀しみも、何もかもを感じる事が出来ない人間ではない何か。
 兄弟姉妹たちは、ある日気づいた。彼女の瞳には何も映らず、表情には一片の揺らぎもないことに。誰かがその様子を"化物"と呼んだ。それ以来、彼女はずっと化物として生きてきた。
 そして
「その化物と呼ばれた娘は、転機を迎えるのです……。どうやら、娘を大層気に入った王子様がいるのだとか」
 は、半分ほど減ったウィスキーボトルを一瞥する。度数もそれなりに高いはずなのに、と思いつつも口には出さない。
「彼女はその王子様と結婚して――、幸せになれるのかしらね?」
 どうして、この話をイチジにしようと思ったのか。気付いたら口に出していた。語る必要性など、何処にもないのに。は微かに伏せた瞳をイチジに移す。目に入ったのは嫌味な笑みだった。嘲り、見下しているような、そういう表情だ。
「ハ、何処かで聞いたことのある与太話だ」
 その返事に、どういう意味を持つのかは問わなかった。イチジがどう思おうが、には関係のない話だからだ。嘲笑されようが、哀れみを抱こうが、それがどう影響するというのだろう。殺した心に言葉など届くはずもない。に向けられるものは全て、罅割れた箇所からぼろぼろと零れ落ちていくだけだった。
「身分と自身の置かれている状況を弁えている奴は嫌いじゃない。父上がジェルマ王国最高傑作であるこのおれと、卑しい血が混じったお前との婚約を認めた時は正気を疑ったが」
 イチジはグラスに残ったウィスキーを一気に飲み干す。
「――想定より、見込みのあるどうぐだな。飾り程度にはなるか」
 強いアルコールの香りがの鼻を掠めて、空気に溶ける。その匂いだけで酔ってしまいそうだった。そのせいだろうか。感情を伴わない、イチジの暗く深いルビーの瞳には光を見た。酒に弱い自覚はある。
(……何を、言われたの)
 だから、イチジが自分を認めたかのような発言をしたのも、都合のいい幻聴を聞いただけなのだと思った。他の誰かがを認めることなど、決してない。自分は化物だから。醜く愚かな、人間になりきれない異端児。けれどその方が、にとっては気が楽だった。綺麗すぎる水では魚でさえも息ができない。その理屈と同じで、も泥が混じった水の方が上手に息ができるというのに。
「ごめんなさい、よく……聞き取れなかったわ」
 声が震えた。
 どんなに酷いことを言われて傷ついても、心の奥深くに感情を押し込めて、笑顔で返せる程に仮面を被る事は容易なはずだ。寧ろそれはの十八番だった。どんな事をされても、どんなことを言われても、心とは違う感情の仮面を張り付けて生きてきたのだから。卑しい血の女、薄汚い娘、不出来な妹。思い返すだけでも虫唾が走る言葉を散々浴びせられてきた。今まで一度たりとも、に価値を見出す者など居なかったのに、今、目の前にいるこの男は何と言った?
「聞き取れなかった割に、随分と動揺しているようだが」
 イチジの返答を聞いて、は急いで窓ガラスに映る自分の顔を見た。薄っすらと映り込む顔は酷く怯え、困惑の色を隠せていない。ガラスに映るは、こんな顔も出来たのか、と自分自身でさえ思わせる程に見たことのない表情をしている。これは何だ。こんなものは、知らない。
「そ、そんな……事は、な、無いわ」
 失礼しますと言うよりも早く、はイチジの傍から逃げだした。あの表情は一体何なのか。理解が出来なかった。このままでは、何かが壊れる。そんな予感がした。なぜ、どうして、私の仮面が外れかけているの。
「何処へ行く」
 けれども、逃げる事はイチジが許さない。
 戦争屋の反応の速さに一般人、それも王族の娘が勝てるはずもなくはそのまま腕を引かれ、イチジが座る場所へと引き戻された。そうして流れるようにベッドへと押し付けられる。藻掻こうにも両手を掴まれているので抵抗もできなかった。
「何をッ……!」
 の話など聞かずに、イチジはじっと品定めをするようにを見つめる。火花の散る赤い瞳は、の心の中を見透かしているようだった。
(やめて、私の心を勝手に覗かないで、入ってこないで、早く出ていって!)
 そう思っているはずなのに、何故だろうか。は一切、視線を逸らすことができなかった。ちかちかと、天然のルビーを嵌めた双瞼がの心臓を射抜く。
「恐れ、怯え、戸惑い。大凡、今まで称賛されたことなどなかったか? そうだろうな、卑しい血に見合わぬ容姿に教養……おれがお前の兄だったらと思うと気が狂いそうだ」
「……だったら、何だと言うの!?」
 は負けじとイチジを睨みつける。ガラスの瞳に、怒りを纏った。
「お前を唾棄した血族の怒りは相当だろうな。だが、それ以上に完璧である為の努力をしなかった蠅共の不甲斐なさにも反吐が出る」
 イチジは淡々と、しかし確実にの心に言葉の棘を刺していく。刺さった箇所から熱が伝わり、心が悲鳴を上げる。ばちばちと弾けるような痛みは、火花を彷彿させた。涼しげだったの顔に焦りと苦痛の表情が浮かぶ。視線に乗せた抵抗の声も虚しく、イチジは口角をあげて静かに告げる。
「汚泥に埋もれていたお前を見つけてやったんだ。その労に見合う程度にはジェルマの為に生きて――」
 イチジとの視線が混じり合う。感情を伴わない瞳と、空疎を宿した瞳が互いを映してばちばちと火花を散らしていく。
「おれに相応しい妃と成れ、
 ばちり、と音がした。赤い閃光が、を穿つ。
 全身が震えた。恐ろしい、怖い、痛い、気持ちが悪い。じわりと額に汗が滲む。ぱりん、と音を立てての何かが壊れる。イチジという存在が、誰しも破れなかったの氷の仮面を、いとも簡単に融かした瞬間だった。けれど、一枚失くした程度で心が融けるほど、の氷は優しくない。失ったらまた増やせばいいだけの話。震える身体をどうにか抑え込んで、深く息を吐く。呼吸を整え、はイチジに目を向けた。未だに赤い瞳はを離さぬまま、穿っている。
 しかし、この程度で怯むほども甘くはないのだ。たかが一枚仮面が外れたところで、どうという事はない。氷でこれでもかというほど固めたのだ、そんな簡単に壊せるものか――――壊せて、たまるか。
「……失礼、しました。急に触れるのはやめてくださる? 驚くから」
 イチジはく、と小さく喉を鳴らすと
「本当にそれだけか?」
 と短く問う。はそれには答えずに、イチジへ背を向け扉の前へと足を進めた。不満げな声が聞こえたがは一切振り返らない。そのまま扉の前に立ち、ドアノブに手をかけた。
「そろそろお父様と総帥殿の話も終えられた頃じゃないかしら」
 冷静に、仮面を着けてはようやっと振り返りイチジを見た。そこに先程の焦りは一切無く、普段の、氷よりも冷たく海の底よりも深い無の表情が張り付いている。
「どうか末永く――よろしくお願い致しますね、ヴィンスモーク・イチジ様」
 ぎいと軋む音をたてて扉が開いていく。差し込んでくるのは、光か、それとも闇なのか。後ろでその様子を伺っていたイチジはおろか、扉を開けたでさえ知る由もなかった。

本にすべく『灰に埋もれた華を摘む』を加筆修正しました。最初からイチジ様の解釈が変わっておらず安心しています……。

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