冷えた石畳。獣の唸る声がそこら中に響く森。廃れた館。
おおよそ、昼間でさえ誰も近寄らない場所にイチジとはいた。目前には重厚感のある大きな扉。だというのに、ふたりは開けようとはしない。
「二度は言わない。いいか、今回は偵察任務だ。おれは暫くしたらお前の傍を離れる。その間お前は」
「ターゲットである伯爵に取り入って情報を少しでも多く入手する」
は気乗り薄気に呟く。イチジはその様子を見て苛立ちを覚えた。以前、それこそイチジが生まれ物心がつくかつかまいか、その頃から誰しも王であるイチジの話を遮ることなど一度たりともなかった。気性の荒い弟、ニジでさえイチジの話は遮らない。何故なら、イチジはジェルマ最高傑作である第一王子であり、王になる男だからだ。それ以外の理由などない。王には王たる条理がある、とイチジは信じて疑わないが、それを覆すのはいつだって自分の妻であるだった。
「話は最後まで聞け」
「任務は最高効率で済ますのが得策では?問題ありません、これでもこういう事には慣れてますから」
売り言葉に買い言葉。が素直にイチジの話を聞くことなど滅多にない。王たる自分に歯向かってくる姿勢は不快だが、イチジはのそういった態度を存外好いていた。気の強い女は嫌いじゃない。寧ろ此方の機嫌を伺って口先だけの言葉を並べる輩の方がイチジの神経を逆なでするのだ。
初めこそ操り人形のように見えたは、興味なさげにしていてもしっかりと自分の意見を持っているが、余計な事や自分が向かない領分は弁えており、非常に優秀だった。故郷では唾棄される存在だったが、ジェルマでは彼女ほど優秀な駒はいない。あの時、何故ジェルマいち優れた兵器であり最高傑作の自分が、卑しい血が混じった女を妃にしなければならないのかとイチジは不愉快であったが、今思えばほど自分に最適な女はいないと評価を下している。今日のように、急に体調を崩した姉レイジュの代わりに動くことが可能な女など片手で数える程度だ。
はイチジにとって、使い勝手のいい道具だった。それ以上でもそれ以下でもない。そんなことを考えながらイチジはの澄ました――無表情とも言える――横顔を一瞥する。月明かりに照らされた薄紫の絹髪は透き通り彼女の人形のような妖しさと美しさをより際立たせている。うっすらと開かれた目には無機質ながらも赤い宝石を彷彿させる瞳が埋め込まれていた。感情のないイチジでさえ、の容姿は"美しい"と思う程に整っている。けれど、それだけだ。美しさは時に武器になるのだと、イチジは知っている。しかしの美しさは武器ではなく飾りなのだ。元々そのつもりで娶ってはいる。だが、もう少しうまく立ち回ればいい兵器になるという事も理解している為、惜しいと思う部分があるのも本音だ……などと、およそ自分の妻である者に向ける考えではない事をイチジは頭に浮かべながら目を離した。
「実力に関しては不安などない。お前が対象に接触次第、任務開始とする」
「かしこまりました、旦那様」
は軽い調子でそう返事をすると、ひとり屋敷の中へと入っていった。イチジはその後ろ姿を見つめる。偵察とはいえ、任務は任務だ。危険は必ず伴うものであり、下手をすれば命を落とす事もあり得る。此度一番身の危険があるのはだ。――にも関わらず、飄々と言葉を交わしするりと屋敷の中に恐れも抱かず入っていくのはやはり彼女が化物である所以か。
が入っていった後も暫く扉を見ていたイチジであったが、イチジにもやる事がある。思考を切り替え、正門から裏口に回り侵入口を探す。事前に屋敷周りを調査していた為、それは容易く見つける事が出来た。物音ひとつ立てずに、イチジは侵入口から屋敷へと入り込む。今晩は名のある貴族や王族が、その正体を隠し普段の重圧から解放されるべく集った夜会だ。皆、本能のままに歌い、踊り、欲に溺れる様は見ているだけでイチジは気分が悪くなる。上に立つ者として、そのような無様な姿を晒す事になるなら死んだ方がマシだ。男の下卑た視線、女の自惚れた表情。考えただけでも吐き気がする。
侵入口を抜け、イチジは誰もいない廊下へとたどり着いた。奥の扉からは人々の浮かれた声が響いてくる。
「随分と手薄な警備だな。所詮はその程度の地位でしかないということか。馬鹿馬鹿しい」
そう独り言ちて、目的の客室へと向かう――向かおうとして、ふとイチジは先ほどの客間から漏れる声に足を止めた。こんな事をしている場合ではない。ないはずだ。任務に失敗などあり得ない。イチジはニジやヨンジと違って、任務に遊びを入れたりはしない。どんなことがあっても、例えば、自身の身内が敵に捕まろうと、やられようと、任務遂行が第一優先だ。
だから、そう。この時のように、の憂うような声が聞こえていようと、お構いなしに客間へ向かうべきだ。分かっている。だが、肝心の足は動こうとはしない。
ぎぃ、と歯車の狂うような音が聞こえる。規則正しく、一寸の狂いもなく動くイチジの歯車は、ジェルマの最高傑作であるが所以のもの。狂うなんて事象はほぼあり得ない。あり得ないのに、そう感じるのはいったいなぜなのだろうか。イチジには分からなかった。だが、その原因がであることだけはイチジにも理解できる。イチジは、不機嫌を隠さずため息を吐き、静かに会場の扉に近づいた。音を一切立てずに、扉をほんの少しだけ開けて中を確認する。
(集まっている王族はみな土地の確保や飢えに苦しむ国ばかりか。なるほど、依頼主もそうだが、この世には頭の悪い蠅共が多すぎる)
ち、と舌打ちを零す。国同士の戦争を終わらせたり、頭を暗殺したり、内容が難しくなればなるほど任務の報酬は跳ね上がる。だが、此度はただの偵察。正直、イチジのような実力者がするようなものでもなかった。集まっている者たちも、ジェルマとは比べ物にならない程度の存在だ。そのような者達と同じ空気を吸うなど、気色が悪い。政略結婚とはいえ、この中に、妻がいるというのもイチジの高いプライドに傷がつく。本当に最悪な気分とはこのようなことを言うのだな、とイチジは悟った。
ジェルマの科学で常人以上の視力を持つ目を会場に這わせる。ぐるりと一周することなく、イチジはを見つける事が出来た。普段ならば、人と関わる事を避けるべく、自ら壁の花になりにいくのだろう。だが、今回は違う。無機質な瞳に情欲を宿し、ぷってりとした赤い唇に三日月を描いて妖艶に男を誘う女がそこにいた。のそのような表情は、夫であるイチジでさえ見たことがない。にも関わらず、彼女の目の前にいるターゲットがそれを独り占めしている状況だ。思わずイチジは目を見張った。まるで浮気されているような、そんな気分に陥る。女など、有象無象であり使い捨ての道具だと思っていたのに、この体たらくはなんだ。笑わせる。どうやら自分はやはりどこか狂ってしまったらしい。
(チッ……)
イチジは不快感を覚え、サングラスを押し上げつつ扉に背を向けた。の事も、あの様子なら特に問題ないだろう。癇に障る部分はあるが、あれこれ文句を垂れている暇もない。目的の客間に向かうべく、イチジは長い廊下へと再度足を向けた。足音が響きやすい大理石の廊下を、物音を一切立てずに歩く。客間に鍵などはかかっておらず、対象が使用している部屋にも簡単に入ることができた。こちらにとっては都合がいい事この上ない。
念の為、罠や用心棒などがないか息を殺し確認するもそういったものも一切見当たらなかった。一国の将来を担う立場でもあるはずの標的の、その間抜け具合にはイチジもため息すら出てこない。このような雑な相手であるならば、ジェルマ最高傑作の自分でなくてもどうにでもなったはずだ。とはいえ任務は任務。今回のような質の悪い任務だとしても、完璧に遂行させる気概はあった。
何もないと分かっていても、警戒だけは怠らない。科学で造られた最高級の視聴覚でぐるりと部屋を見渡す。質素で味気のない部屋。力任せに殴れば割れそうな薄い窓。使い古した不衛生極まりない布で作られたシーツ。隙間から覗くベッドの脚はシーツにお似合いな品質だ。身なりを整える為のドレッサーはない。そして、一瞥しただけでわかる、質の悪い木目模様のサイドチェスト。
「これだな」
イチジは他の物には一切の関心も寄せず真っ先にそれに近づいた。もちろん鍵などあるはずもなく、引けば簡単に開ける事が出来る。中には雑に投げ入れたかのように頁数がバラバラな資料がいくつか。ジェルマの現国王である父が欲していたものだ。イチジはじっくり読もうともせず、ただただ上から下までじい、と眺め数秒もかからず資料から目を逸らした。一言一句違わず頭に入れるには苦労しない内容だ。とある国で製造が予定されているらしい新兵器。その設計書。次男のニジでは速攻で投げ捨てるような、末弟のヨンジではぐしゃりと資料を握りつぶしてしまうような、つまらない中身だった。そう考えればこの資料を完全に、安全に、かつ悟られないように持ち帰るにはどうやら自分が適役だったらしい。持ち主はこの設計書を用いて、此度の宴会に参加している協定国と共に他国へ戦争を仕掛ける魂胆なのだろう。運がいいのか悪いのか、どの国も秘密裏にジェルマが始末することが決まっている。その国らにとって運がいいと考えるならば、纏めて滅びるのだから労をかけずに済むという事くらいだろう。いずれ復権するジェルマの礎になるという意味では光栄とも言える。だが、国の行く末として語るならば、途轍もなく運が悪い。
――圧倒的強者に利用されるのは、弱者の運命。弱いやつが悪い。
そう考えるイチジは、見知らぬ国家に住むか弱き人間に温情や哀れみをかける心は生憎持ち合わせていない。端的に言えばどうでもいい。これで任務の八割は完了した。あとは、情婦に扮したが国の内部情勢や派閥さえ聞き出せていれば完全遂行と言えるだろう。
イチジは後に対象と共にこの部屋に来る、お飾りの妻を待つことにした。お飾りとはいえ、妻は妻。自分の手段だ。優秀な道具は壊れた時が一番困る。そう簡単に代えががきく代物ではないからだ。はまるで人形、人間らしい感情を携えておらず……否、見せず、夜の月明かりだけを頼りに生きているような女である。何かあれば金切り声で騒ぐ蠅とは違い、イチジが鴉は白いと言えば多少の口答えはすれど白と言い、青と言えば青と返す傀儡。ジェルマにとってこれ以上に好都合なものは存在しない。おまけに学があるキレ者ときた。唾棄すべき点は卑しい売女の血が混じっていることくらいで、そんな欠点は些細な事だ。
イチジにとって、などその程度の認識だった。優秀だから仕方なく護衛をし、使えるから手放さない。たったそれだけの事だ。それだけの、筈だ。
「――……」
そう思うイチジの脳裏に浮かぶのは、先ほど見た彼女の表情だった。火照った頬は作りものだとしても、あの、情に満ちた蕩ける目は一度も見たことがない。よく知らぬ、もっと言えばイチジより見目も地位も、何もかも劣る男相手に、欲を抱かせるあの目を。夫であるはずの、イチジは知らないのだ。向けられた事もなかった。
身体を重ねたことがないわけではない。数えられる程度ではあるが、経験はある。がよく鳴く場所も、最中に魅せた表情も、覚えている。子を成す為の義務とはいえ、否、義務だからこそ、完璧に行おうとするきらいがある。妥協や逃げは許されない。手を抜いたわけでもない。けれど、あの表情は知らない。
イチジは不愉快だった。それも、極めて。――――不愉快?何故。分からない。
そうして考え込んでいる間に、扉の奥から対象の耳障りな声が聞こえてきた。反応が遅れる。普段ならもう少し早めに気づけた筈だ。少しの焦燥感を抱きつつも、イチジは冷静さを保ち静かに物陰へと潜んだ。同時、部屋の扉が音を立てて開かれる。
「いや、すまないね。どうにも主催が部屋代をケチったみたいだ」
「……まあ!公爵さまったらいやだわ。たとえ引き立て役だとしても、この質素なお部屋で私を暴くおつもりだったの?」
は口元に手を当て、ふぅ、とやけに扇情的な息を吐く。じろじろと人の物を下卑た目で見る対象の男。明らかに自身に対して欲を向けられているにも関わらず、は物怖じひとつさえもしない。寧ろ堂々と女を魅せつけて男をその気にさせる様子は、イチジの感情に悪質なコードを植え付けていく。気に食わない、許せない――不快。妻であるはずの女の一挙手一投足も、声も、紡ぐ言葉も、それに一喜一憂しては品のない笑みを浮かべる対象も。本来ならば……否、いついかなる時も妻のすべては王である自分に捧げられるべきだ。ああ、思えばあの扉を開けた時から全てが狂っている。会場の悪い空気にあてられて、酔っているのだ。大量のウイスキーボトルを空けても平然としていられるのに。
そもそも場所が悪い。陽の目を見ない立地、森の奥、廃れた館。キャストも、ジェルマ最高傑作の舞台を飾るには質が最低だ。俗に塗れた蠅共、警戒ひとつさえしない対象、品のないドレスに身を包んだ我が妻。挙句の果てに、有象無象に色目を使う妻の演技ときたら……!悪趣味、以外の感想が出ない。何もかもがおかしい。馬鹿げている。
――理解できない。気持ちが悪い。なぜだ?やはり不純物が混じっているに違いない。
イチジは喉元まで込み上げた不快感をどうにか飲み込み、逸る胸を押さえた。
どさり。何かが落ちる音でイチジの思考は底なしの沼から引きあげられる。
視界の傍らを見ると、対象に押し倒され薄汚いベッドの上で妖艶に微笑むの姿があった。
「気が早いお方。……先程までのお話、楽しかったわ。公爵さまの御国のことを知ることができて、光栄です」
男は答えない。を押さえる腕に力が入る。じぃ、と男を見つめるの目に、先刻までの情欲は存在しなかった。いつもの、イチジを見る光のない赤い瞳。傀儡の眼。イチジの狂った歯車が、正しい音を立てて動き出す。
「最後に、ひとつだけいいかしら」
目を細め、彼女は言う。
「公爵さまは、どのような死に様がお好き?」
刹那、イチジは男の背後に立った。片や人を殺す術に長けた戦争屋の巧手。片やただの一般人。反応など出来るはずもない。どちらが勝つかなど、一目瞭然。愚問中の愚問である。
鳥肌さえ立つ間もなく、男は飛び上がった。はそれを瞬きひとつせず見つめる。まるでよくできた映画の一幕だ。常識ではあり得ない程にめり込む拳。骨が砕けたであろうひしゃげた顔。一切の情もない硬く結んだ唇。薄ら赤く発光するサングラス。ばちり、と眩い火花が走った。次の瞬間、浮いた男の身体が壁に叩きつけられる。白と赤に染まる視界。そこで初めて、イチジとの視線が交差する。心臓を貫かれるような気配――殺気。全てを焼き尽くしてしまいそうなほどの熱と光がサングラスの奥から放たれていた。は思わず息を飲んだ。
――怒っている。
べちゃり、と音がした方を見ればイチジが壁に叩きつけた男があるものの、地に着く前に既に事切れていた。
「……殺さず気を失わせるだけ、ではありませんでしたか?殿下」
「お前が悪い」
イチジは未だに殺気を纏っている。グラスの奥から覗く、赤色の光。光の弾ける音は未だ途絶えない。それはイチジがその気になれば、目の前にいる女を殺められる事を意味している。
だが、当の彼女はそれを正面で浴びながらも微動だにはしなかった。明らかに機嫌が悪いイチジに対して、悪びれる様子もなくは窓の外に目を向けた。
差し込む月明かりがを照らす。薄紫の絹糸を垂らし、透ける桃色の頬が見える。ゆったりとした淑女らしい可憐な仕草、柔く囁くような声色、何もかもが完璧だった。ありとあらゆる美を詰め込んで作られた絵画。或いは、ガラス細工。先程事切れた男を相手していた女は、こういう女だった。抗う事さえできない、一目見ただけで脳裏に焼き付く程の美は、いきすぎれば毒となる。並の人間であれば、ただの人間であったなら、気を失ってしまうだろう。燃えるような殺気と纏わりつく妖香に抗う術など持ち合わせていないのだから。
ここにいるのは、毒を纏う美の結晶と、眩い光を放つ殺戮兵器だ。
「私が?それは……理解しかねます、殿下。殿下の仰る通りに行動しただけですわ」
「売女に堕ちろとは言っていないはずだ」
「売女だなんて、幾ら殿下であれ非常識な発言でしょう」
「黙れ」
バチ、イチジの眼が赤色に輝く。
こちらが不愉快な気分でいることを分かっていて尚、そうして軽口を叩いている。は死を恐れない。ああ、嗚呼、苛々する。これがでなければ、イチジはとうに火花を散らして消している。溢れそうになる激情や衝動を抑えるのに精一杯だった。珍しく額に汗が伝う。目を見開き、メキ……と、およそ人間の皮膚が発するはずのない金属が潰れる音を静寂な部屋に響かせながら、ジェルマの最高傑作は思案する。
ここで衝動のままにを殺すのは容易い。けれど、この女は簡単に代えがきく物ではないし無駄に暴れれば如何に警備が薄い屋敷でも人がやってくるだろう。全てを破壊してしまえば問題はないが今回の任務はあくまで偵察。そんな大それた事をやらかせば、父であるジャッジが黙っていないだろう。任務も失敗に終わる。イチジは完璧な男だ、任務の失敗など有り得ないし、仮に失敗するときがあれば任務の最中に死んだ時くらいだ。死ぬ事などどうでもいいが、与えられた任務を全うできないなど出来損ないにも程がある。それでは遠い昔にジェルマを去った、サンジのようではないか。あれが自分と同等の存在だなんて虫唾が走る。
イチジは、自分の衝動や怒りを簡単に鎮めかつも手にかけない、周囲への被害も最小限に抑える方法を持てる知識を総動員して、脳内で何度も何度も思い描いた。一秒もかからなかった。ジェルマの科学が誇る人間兵器は、常人では到底たどり着くことのできない領域へいとも容易く足を踏み入れるし、事もなげにやってのける。
そうして、閃く。
イチジは、逸る――何故そうなっているのかは理解していない――心臓と殺戮衝動を抑え、の近くへ徐に歩み寄った。
「」
名を呼ぶ。と目が合う。その赤い瞳に映った自分の姿を見て、イチジは思わず喉を鳴らした。何だこの顔は。王の威厳を感じられない、正真正銘”男”の顔が、そこに在った。ああ、何もかもが狂っている。やはりメンテナンスが必要だ。イチジはかけていたサングラスを思い切り床へ叩きつけた。はそれにすら反応せず、ひたすらにイチジの顔を見つめている。
「お前といると、おかしくなる。何かおれに盛ったのか?不具合と解析不可が多発している。どう償ってくれよう」
「何も盛っていませんし、何に償えばいいのやら」
は小さく、ため息を零す。それも、わざと妖艶に。
「気に食わないなら、そこの男の様に殺していただいて」
最後まで、は言い切ることが出来なかった。言葉はイチジの喉奥へと吸い込まれて、消えてしまったからだ。普段は薄桃色のグロスを塗っている唇は男を誘う為の下品極まりない媚びた赤に変わっている。イチジはそれを荒く己の唇で拭う。何度も、何度も、何度も、何度も。角度を変え、深さを変え、時には舌を使って。息継ぎなんてさせなかった。死にたいらしいから、この程度で死ぬなら勝手に死んでいればいい。不愉快さと怒りをの口内へ流していく。
――もっと貪れば、気が済むのかもしれない。
そう思った矢先、イチジの胸が強く叩かれる。痛くも何ともないが、口内に流れ込んできた塩気のある水を不快に思ったイチジがを解放した。
「ぅ、げほっ……、はぁっ、はぁ……、酸欠に、なるでしょう……!」
「殺してほしいと言ったのは貴様だろう」
「それは、そう……だけれど!苦しみたいだなんて、言ってないわ!」
の澄ました顔が、一瞬にして崩れた。この豹変具合が、の面白いところだ。無表情で淡々とした女が、己がたった一つの行動で乱れる様は滑稽でイチジも気に入っている部分である。大凡、第一王子妃として申し分ないがその皮を脱いで女になる様を見るのが、イチジは”好き”なのだ。もちろんそれに付随する感情は無い。恋とか愛については辞書で言葉を引き調べる程度の知識はあるが、その本質など知る由もないし、その感情は王に不要なものだ。
「我儘な妻だ」
そう零し、再度口付けを交わす。先ほどのような、怒り任せの接吻ではなく、イチジ自身が快楽を得たいが為に使う、丁寧で柔らかく、それでいてどこか官能的なキスを、へ贈った。の瑞々しい唇を食み、舌で彼女の整った歯列をなぞって、口内を静かに襲う。遠慮がちに差し出されたの舌を容易く迎え入れ、味わうように己のそれと絡ませた。は、という短く吐かれた息が絶え絶えに聞こえてくる。見れば、の顔は既に溶けていて、王子妃の高貴な姿は見る影もない。
「ふはっ……女だなァ、」
「だ、れが……!私は、こんな事では堕ちないわっ……!」
「ほう?反抗的だな。悪くない」
イチジはそう言って、の着ていた悪趣味なドレスを一瞥した。胸元が大きく開いており、丈も娼婦の如く短い。あまりの品の無さに笑いがこみ上げてくる。
「くくっ、これが王子妃の着る物か?あァしかし、今のお前にはお似合いだな。もっとらしくしてやろう」
唇を離し、再度近づける。今度は、その大きく開いた胸の隙間に。刹那、の身体が数度跳ねた。華奢な身体に程よくついた乳房と鎖骨の部分に、赤く鬱血痕が残る。白い肢体に点々とついたそれは、しなやかで品のある彼女の身体に不釣り合いの、甘美で艶やかな欲の花だ。はっきりと視認できる場所に、敢えて残した。愉快だ。ここで娼婦のように手酷く抱いてやってもいいのだが、イチジに売女を抱く趣味はないし、こんな劣悪な環境で事に及ぶなんて品位に欠ける。
男が死んだ以上(自分が殺したのだが)、任務も九割九分達成しているので愚劣な館にいる理由もなくなった。さっさと帰還し報告を済ませて、男が暴けなかった分までを暴いてやるとしよう。
「帰るぞ、」
「こんな状態で人前に出ろと?嫌よ」
「騒ぐな」
「貴方のせいなのだから、貴方がどうにかして。尤も、第一王子妃が辱しめを受けただなんて噂されたいようでしたらご勝手に」
全く、調子が狂う。イチジは仕方なく、その辺に落ちていた薄いシーツを手に取っての身体へ雑に巻き付けた。そうしてそのまま、を抱えて窓の外へと飛び立つ。は何か言いたげにイチジを見たが、それも一瞬の事で空を見上げる。今宵はどうやら、満月らしい。月なんて、ただの衛星で美しいなど思う事は無いし、星に対しても同様だ。けれど。
それらの光を一身に受け止め、赤い瞳の中に映る月を、イチジは存外綺麗だと、そう思うのだった。
籠の中の夜想曲
二年ほど温めてました。偵察任務って夢があっていいな……。