先輩と後輩(とわれさん宅)

 ガラ、と教室のドアを開ける。シン……と静まり返った教室の中に、ぽつんと佇む一人の女生徒を見つけた。現時刻はとっくに下校時刻を過ぎた午後7時。自身の部活動を終えた後に、今日提出された課題を教室に忘れてきた事に気づいて取りに戻ってきたのだ。当然、教室に人がいるなど思ってもいなかったのだから思いがけない出来事に思わず小さく悲鳴をあげた。普段の性格や言動から、怖いものなしだと周囲に思われることが多い私だが、そんなことはない。むしろそういったオカルトに分類される事は大の苦手だ。ビビリだ、と評されるかもしれないが変に冒険心を抱いて痛い目にあってからでは遅い。そう考えると物事に対して慎重であるという事は悪くないと自身に言い聞かせている。
 ……だから、変に触らぬ方がいい。
 そう考えそっと教室のドアを閉めると、中から「誰ですか?」と声がした。聞き覚えのある声だった。

「――もしかして、ユキ?」

 再度ドアを開けてそう問うと、彼女はゆっくりした動作で振り向く。同時にふわりと茶のストレートロングを揺らしこちらを見ると「裕香先輩」と名を呼ばれた。彼女――ユキは私たちが通う中学校のひとつ下の後輩だ。文武両道、大和撫子を彷彿させるほどに落ち着いた立ち振る舞いは今時の中学一年生には珍しい。性格もかなり大人しく、だからこそ周囲にうまく馴染めないのか自ら「友だちはいません」と以前話していたのを覚えている。
 なぜ私たち二年生と絡むようになったかは、彼女の想い人であるたけしの存在が大きい。卓郎ならまだしも、あの頼りなさげで気弱なたけしに心を奪われるだなんて当初はかなり変わった子だと思っていた。……今でも多少そう感じる時がある。

「何してるの、もう下校時刻過ぎてるわよ?ご両親、心配しているんじゃないの?」

「連絡は入れています。少し用事があって……裕香先輩こそどうしたんですか」

「課題を忘れたのよ、数学のね。やらないと色々煩いのよ先生が……」

「そうでしたか。てっきりひろし先輩のことを待っていて置いていかれたのかと思ってました」

 しれっとした顔でユキは言う。……ひっぱたくぞこのやろう。

 彼女はその後、たけしの机の前で立ち止まり何か探しているようだった。
 数学の課題を自分の机から取り出したあとに、ユキの隣へ移動する。するとユキはぴたりと探し物をやめ、すくりと立ち上がった。

「どうしたの?何か探してるのなら手伝うけど」

「いえ。探し物じゃありません」

「えっ、そうなの?じゃあ何してたのよ。たけしの机なんか漁って……どうせ適当に突っ込んだプリントとか残念な結果の答案用紙くらいしかないわよ」

「詳しいですね」

 だいたい察しつくでしょそれくらい、と軽く流すと彼女はほんの少しだけ厶……と納得がいかない顔をしたようだったが、一瞬にして元の無表情に戻ってしまった。ふと視線を下ろすと彼女がなにか小さな袋を大事そうに持っていたことに気づく。なんとなく察しがついた私は、なるほどね、と小さく呟いた。彼女はというと、こてんと首を傾げる。何がなるほどなのか、という様子だった。

「それ。そーれ。……なぁに、プレゼント?たけしも随分いいご身分になったわね」

「違……います。プレゼントではありません」

「いいから照れなくて。アンタ分かりやすいのよ」

「照れてません」

 頑なに自分は照れてなどいない、と否定する彼女であったが、先程まで無に等しい表情をしていたのがみるみるうちに紅潮し落ち着きのない様子を目の当たりにしてしまえば誰にでも察しがつくというもの。それほどわかりやすく動揺していても気づかない男が知り合いにはいるが、その話はさておき。

「どうかしたの?誰にも言わないし、私に話せることなら相談に乗るわよ」

「……」

「喧嘩でもした?うーん、でもたけしの奴、特に変わった様子はなかったからなぁ……。誕生日もまだだし、何かのイベント?」

「……お礼です」

 きゅっと固く結んだ口を解き、彼女から出たのは"お礼"という言葉だった。お礼ならばむしろ彼女のように美しい少女に相手をしてもらえているたけしが言うべきなのでは、とも思ったのだが、そこは何も言わずに彼女の言葉を待つ。

「あの、たけしく……たけし先輩に、この間ヘアピンを戴いたんです。前髪が伸びてしまって、美容院に行こうにも数日行けなくて……」

 彼女が言うには、そうして自身の前髪を鬱陶しそうにしていたのを見たたけしが見兼ねてヘアピンをくれたのだという。たけしにそのような気遣いが出来るとは思っていない。恐らく杏奈や美香に唆されてそういった行動に出たのだろう。なんて単純な奴だ、と感じたがそのように単純かつ明快な彼の性格は長所として捉えている。どの方面から見ても分かりづらく複雑で捻くれた知り合いを相手にしていると嫌でもたけしの性格は褒めるべきものだと自覚させられる。

「そっか。……でもなんで今なの?直接渡せばいいじゃない」

「え。だって恥ずかしいじゃないですか……」

「恥ずかしいって……。あのねぇ、そういうものは直接渡さなきゃ意味がないの!別にたけしの事だし机に女子からのプレゼントがあれば大喜びするだろうけどさ、そういう問題じゃないでしょ?」

「そ、そういうものでしょうか」

「当たり前でしょ」

 そう言い切ると、彼女はハァ、と小さくため息をついた。そして、たけしの机を離れ、すたすたと上履きを鳴らしなかまら私の目の前に歩いてくる。目の前にきて立ち止まると、彼女は黙って私の背中の方を指差す。
 何かいるのか!?と焦り急いで振り向くと見知った顔がそこに在った。他のクラスメイトに比べると線は細いが、確実に私よりも身体つきがしっかりしていて、スラリとした長身の男子生徒。白く美しい髪と女よりも長いのではと思わされる睫毛。学年一の頭脳を持つ秀才と名高い、腐れ縁の彼――ひろし。

 ユキはひろしを指差しながら、彼に聞こえぬようこっそりと私だけに耳打ちをした。

「――ならばお手本を見せてください、先輩」

「は?」

「そこまで言うなら、見せてください。大丈夫です、逃げませんので」

「いや、え!?どういう事!!?待って私、今何も持って――」

 ない、とは言い切れなかった。思い出したのだ。そういえば昨日、あとで食べようと思い帰宅前にコンビニに寄り、アーモンドチョコレートを今持っている鞄に忍び込ませたことを。
 その事を黙っていれば良かったのだが、かわいい後輩に「先輩として手本を見せてくれ」なんて頼まれては断れるはずがない。そうこうしているうちに、こちらに気づいたのか、ひろしはドアの向こうで「何をしているのですか、そんなところで。帰りますよ」と声を上げた。
 ひろしの言葉を聞いたユキがやたら口角をあげニヤニヤとこちらを見ている。……あぁこれはきっと"へえ。先輩たちいつも一緒に帰っているんですね。仲が宜しいことで"みたいな事を思っている顔だ。私は目だけで"家が近いだけよ!"と返し、ひろしの方へ歩みを進めた。

「ごめんごめん。教室に課題忘れちゃってさ。そっちは?」

「裕香を探していました。一人で帰っても良かったのですが、時間も時間なので」

「あっそ、そこは素直に"待っていた"って言えば?」

「そちらこそ"待っていてくれてありがとう"くらいあってもいいと思うのですが」

 ――あぁもうこの男は。ああ言えばこう言うとはまさにこの事で、何かケチをつけるとすぐに正論でストレートパンチをかましてくる。彼に口で勝つには相当の知識を身につけるか、若しくは彼を黙らせるほどの筋の通った話をするくらいしか手段がない。どちらも私には到底できるはずがなかった。諦めて小声で「……ありがと」というと相変わらずの表情ではあるがどこか満足したような雰囲気を纏い、くるりと背を向けた。
 謎に羞恥心を覚え、ふいに目線を逸らすとひろしに負けず劣らずの面持ちでユキがこちらを見ていた。全くこのふたりときたら。彼女が何を言いたいのかはだいたい察しがつくので、さっさと渡すものを渡そうと心に決める。前を歩こうとするひろしを、ちょっと、と肩を叩くと彼は歩みを止めた。

「どうしました。また忘れ物ですか?」

「違う……」

「珍しくはっきりしませんね」

「……あ、あのさ」

 喉元まで出かかっているのに、なかなか言葉が出てこない。ひろしがこちらを怪訝そうに見つめている。私は見えないが、きっとユキは無表情ながらも心中では笑っているだろう。あれだけ他人に偉そうな口を叩いた私が、実際自分でやるとなるとこうも情けない姿を晒しているのだから。
 だが、笑われてばかりでは本当に格好がつかない。すぅ、はぁ……と深呼吸をしてから、私は一息に告げた。

「こ、これ。アンタにあげる」

「……アーモンドチョコレートですか?唐突ですね。貰う理由が思いつきませんので、受け取れません」

 そう言って、ひろしは私が差し出したチョコレートを受け取らなかった。しかし、ここで引くような私ではない。

「受け取れません、じゃない!いいから。……お礼って事にしてて。待っててくれた」

「はぁ。別に今更なので気にしていませんが……まあそういうことなら。ありがとうございます。チョコレートに含まれているテオブロミンは集中力を高めるので――」

「あの、ひろし先輩」

 チョコレートを渡した時点で、またひろしの長ったらしい話が始まるな、と覚悟したがそれは唐突に終わった。私の後方にいたユキが、ひろしに話しかけたからである。

「ユキさん。先程からいるのは知っていましたが、だんまりを決め込んでいたのでどうしたものかと思ってましたよ」

「それこそいつもの事じゃないですか?ひろし先輩。ところでお聞きしたいことが」

 はい、なんでしょう。とひろしは答える。ユキは、彼の目を真っすぐ見ながら、数秒黙り込んだあとにこう言った。

 ―――今、チョコレートをもらってどう思いましたか?と。

 はぁ!?と思わず私は声を上げた。ひろしとユキが若干びくり、としながら此方を向いたが気にしない。ユキは天然なところがあると以前から思っていたがまさかここまでとは思っていなかった。普通、チョコレートを渡した直後、本人がいる前でそういった質問をするだろうか。ひろしもひろしで答えようとする素振りを見せていたのも頭を抱える。

「裕香先輩どうしました?そんな声を上げて」

「そうですよ、もう下校時刻をとっくに過ぎています。あまり騒ぐのはよくありません」

「そういう問題じゃないから!!ふ、普通本人いる前で聞く!!?恥ずかしいでしょ!?」

 そう伝えるとふたりは「なぜ?」と言いたそうな顔でこちらを向いた。私の気持ちを無視し、ユキは私の横を足早に通り過ぎるとひろしの横に立つ。「で、どうなんですかひろし先輩」と改めて問うた。私の話を聞いていたのかと言いたくなったが、口は挟まず、黙ってひろしの回答を待つことにした。彼はうぅん……と一瞬悩んだ様子を見せたが、すぐに顔を上げ、ユキの方をみて答えた。

「そうですね、特になにかをプレゼントされるような事をしていなかったので、びっくりしました」

「それだけですか?」

「いいえ。―――自分でも驚いているところですが、気分がいいです。何故でしょうね?」

「ふうん……なるほど。ありがとうございます、ひろし先輩。参考にします。裕香先輩も、無茶振りに答えてくれてありがとうございました」

 そう早口にいうと、彼女は颯爽と廊下を駆け抜け、階段を降りて行った。ひろしはそんな彼女の様子を不思議そうに目で追っていたが、直ぐに此方を向いて「さあ、帰りますよ」と手を差し出した。
 私はというと、ひろしの言葉を聞いてまともに彼の顔を見れずにいる。―――気分がいい、なんて答えが返ってくるとは思っていなかったのだ。それが嘘でないことは一目瞭然で、どことなく彼が纏う雰囲気がそれを物語っていた。なるべく目線をあわせず、彼が差し出した手を取り、微妙な距離間を保ちながら、私たちは昇降口へと向かった。

「……市販のチョコレートくらいで気分上がるなんて、安い男ね」

「いけませんか?でも、僕自身も驚いていますよ。こんな気持ちを抱く自分に。不思議な感覚ですね……、以前の僕では考えられないことばかり感じてしまう。本当に、何故でしょう?裕香は分かりますか?」

 淡々と彼は話しているが、そんな彼とは正反対なほど私の心臓はずっと高鳴っていた。―――それってアンタ、恋してるからじゃないの?なんて言えるはずがなく「さあ、私はアンタじゃないから」なんて当たり障りのないセリフを小さくつぶやくことしかできなかった。

 ……後日、たけしが妙に元気で、朝の会から終わりの会までずっとニヤニヤしていたことをユキに伝えた。彼女は「……そうですか」と言葉とは裏腹に、心底嬉しそうな笑顔を私に向ける。その笑顔はとても眩しくて、普段の彼女からは想像のできない程に輝いていた。
 直接渡して正解だったでしょ?と言えば、また彼女は満足そうにハイ、と返事をした。

頂いた漫画のお礼に書きました。たけユキちゃんはいいぞ。

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