誠実な愛を君へ(琴さん宅)

 からんころん、と入口についたベルが鳴る。薄暗い道にひっそりと建つバーの、閉店作業に取り掛かっていた俺は、せっかく来ていただいたのに心苦しくもあったのだが、入店お断りの意を込めた「すいません」を言いかけ、ハッとした。

「……幽雫先生?」

「四四八くん?」

 営業時間終了を目の前に現れたのは、俺が通う学校の先生だった。学校教師の定時時刻はとうに過ぎていたはずだが、先生は今日身にまとっていた小綺麗なスーツを今もそのひとつも無駄のない洗練された身体にまとっている。残業していたのだろうか。先生がスーツを着ているのではなく、スーツが先生に着てもらっているといった方が正しいと思うほどよく嵌っていた。身体だけではなく、男の俺でも一瞬目を奪われるほどに先生は美麗――つまり超がつくほどイケメンである。
 俺と同じくらいの長さの髪は、女性よりも艶やかで美しく、その鳶色、というよりは江戸茶色に近い瞳は見据えられるとどんな人間でも背筋を伸ばすしかなくなるのだろう。それ程、幽雫宗近という男は美しいのだ。同じ男ではあるが、なんだか隣に立つ事さえ烏滸がましいようなそんな気持ちさえ湧いてくる。なんとみっともない事だろう。正直、自分も周囲の反応をみるにそこそこ整った容姿をしているような気はするが、先生はその比ではない。その容姿にふさわしく性格もこれといった非が見つからない。そのため、学校内での女生徒からの人気も高く男子生徒からはそういった意味では妬まれている。そういえばこの間の数学の授業で、俺の大切な仲間で恋人でもある秋月弥生も、俺ですら滅多に見ることもそうさせることもできない、頬を赤らめた可愛らしい笑顔を先生が「さすが秋月」と頭を撫でただけで惜しみなく晒していたことを思い出した。――正直、あの時ばかりは嫉妬せざるを得なかった。

「先生、どうかなさったんですか?」

「いや、ちょっと飲みたくなってね。柊はここでバイトをしているのかい?」

「ええ、まあ……」

「様になってるよ、閉店近くなのにすまないね、出直してくるべきだったかな」

 少し考えたが、ここの店長がわりといい加減な人で経営その他は俺が任せられていたのもあり、看板だけ閉店とし、先生を迎えることにした。不躾ではあるが、先日幽雫先生の恋愛事情を垣間見た俺としては気になることもあるわけで。先生を席に案内して、カウンターをはさんで対面する。やはり、残業あがりでも先生は変わらず美麗で……弥生が頬を赤らめるのも……いや、わかりたくない。わかってしまってはなんだか負けた気がして男のプライドが廃ってしまう。
 そういった考えを無理にでも払拭する為に、オーダーを聞く。すると「柊のおすすめがいい」とのこと。ちょっとした悪戯心が働いたが、変に強い酒を勧めて潰れてしまって話が聞けなくなるのも困るので、ほろ酔い程度に落ち着けるものをチョイスした。ウォッカ、ブルー・キュラソー、レモンジュースをシェイカーに注ぎ、バーテンダーがよく行っているシェークの動作を数回繰り返した後に、シャンパングラスに注ぎ直す。オレンジやレモンなどのフルーツを丁寧に飾り、最後にストロベリーを添えて、完成だ。それをそっと先生の前へ差し出す。

「……ブルーラグーンかい?」

「ご存知でしたか?あぁ、それとも……」

「お察しの通りだよ、指導とはよく飲みに行くからね。彼女に付き合わされてると嫌でも覚えてしまうからな」

「指導先生、ザルですもんね。そういう噂は耳にしていましたけど、この間見たときは正直……」

「引くほど飲むからね。いや、それで潰れないからいいけど……」

 いや、良くないだろう。という突っ込みはさておき、先生にいつ話を切り出すか悩みどころだ。恐らく何かを考えるためにこうして酒に頼ることを選んだに違いない。察するに、先ほど会話にも出た指導先生との関係についてだとは思うのだが。俺が出したブルーラグーンを一口飲み、ふぅ、とため息をつく。その憂いな仕草は彼の彫刻のような美しさを倍増させる。ここに弥生たちがいなくて本当に良かったと思う。幽雫先生のことは尊敬しているし、俺も情けない嫉妬心で嫌いになりたくないからな。俺が考えていたことが不本意ながらに伝わってしまったのか、先生の口が弧を描き一切嫌味のない穏やかな微笑みを浮かべ口を開く。

「――そういえば、カクテルを作る動作、随分と洗練されてるじゃないか柊。さすがだな……秋月も惚れ直すと思うよ」

「なっ……、あいつのことはいいでしょう!」

「良くないだろう、顔に書いてある」

「先生もなかなか意地が悪いですね……。俺なりに気持ちはしっかり伝えているつもりなんですけど、どうやらあまり効いていないというか……女心って難しいですよね」

「ははっ、青春しているようで先生は嬉しいよ。……そうだな、女心か。難しいよな……俺も未だにどうすればいいかわからない」

 どうやらお互いに心に浮かべた女の話をしているうちに、思い通りというか、本題にようやく入ったというか……。とりあえずバーテンダーとして、客が話したがっている内容を自然な流れで見つけてその心に溜めた思いを吐露させることに成功したので、自分を褒めることにした。先生は知らぬ間に半分ほど減ったブルーラグーンの入ったグラスを見つめている。
 ――難しい心境だろうな、と学生の身分ながら思わずにはいられなかった。先生には、家柄的にも切っても切れない関係にある生徒がいるのだ。名を辰宮百合香。俺たち千信館学園の現総代で、れっきとしたお嬢様である。そして、先生は辰宮百合香を以前から気にかけており――好いていた。本人は兄のような感情、と思っていたようだが実際にはそれだけではなかった。百合香のほうも先生に淡い恋心を抱いていたようだが、もうひとり気になっていた男もいたようで、先生はつまり……その男に負けた、というべきか。まったく、女ってものは随分と身勝手だよなと心で悪態をつく。男をその気にさせておきながら、女側にはまったくそんな気などなく、挙句の果てには己に向けられたその感情を容赦なく切り捨てる。もちろん、そのような女ばかりではないことは百も承知ではあるが。
 話を戻し、簡単に言うとフラれたばかりの先生には昔から傍にいた女性がもう一人いる。指導先生だ。幽雫先生と指導先生は、聞けば俺たちが通っている学校の大先輩、つまりOBで当時から付き合いのある仲らしい。しかし、なぜかそういった男女の関係に発展することはなく、幽雫先生には別の想い人ができ、指導先生も普段はそうでもないのに、色恋沙汰になると妙によそよそしいというか、一線を引いてしまうらしく煮え切らない関係のまま今に至る。俺からすれば、そこまでわかっているならばさっさとその線を越えてしまえばいいのに、とも思うのだが、若い俺たちには想像もできない所謂大人の世界、というものが存在しているのだろう。
 グラスに入った残りの酒をぐい、と一気に先生は流し込む。度数があまり高くないとはいえ、あまり急におなかに入れるとすぐに酔いがまわってしまう。大丈夫ですか、そんな急に飲んでと声をかけたが、それには答えず「同じのをもらえるかな」とだけ返ってきた。

「こんな話を学生にしても、まだしっかり理解できないと思うんだけれど。まあ柊なら周りより若干大人びているし、そうでもないのだろうか。俺は、指導が、春来がきっと好きなんだと思う。春来は――俺が自惚れていなければ、多分同じ気持ちだ。でも」

「指導先生が引いた一線をどうしても越えられない、と」

「そう。……何故だろうな。この間も百合香に”二人で旅行にでも行ってきたらどうか”と言われてね。まあ立場上、強制命令に近いものだったんだが……最初は俺も悩んだのだが、答えを見つけられたらいいと思って俺から再度誘ったんだ」

「それで」

「快く受け入れてくれたよ。それでまあ、色々思い出を作ったんだけど、結局何も――いや、少しは進展したと思いたいんだが」

 つまり、先生の話はこうだ。答えを見つける為にも旅行に誘ったが、結局またなんやかんやで曖昧な結果になり進んだのか進まなかったのかわからないままだ、と。嗚呼本当にこの二人は……。いや、他人の恋愛事情に口を出せる身分ではない。なんせ俺も自分の恋愛事には全く自信がないからな。この間も弥生が如何にも機嫌が悪そうな声で「本当に四四八ってお人好しっていうか、バカね」なんて言い放ってそれ以来口を聞いてくれない。理由は単純明快、石神の事だろう。アレはたしかに俺も悪いとは思ったのだが……俺にも譲れない信念があって……いや、まあそれは今回は置いておくとして。
 先生はまたもや空になったグラスを手で揺すりながらため息をつく。これで何度目のため息になるだろう。相当参っているようだ。背中を押してやりたい気持ちで一杯なのだが、きっとそんな単純な話ではないのだ。そうでなければ、幽雫先生がここまで思い悩むことも、指導先生が思わせぶりな態度をとりつつも一線を引いてしまうこともないだろうから。先生の心境を写すかのように、いつの間に降り出したのか、さあさあと音をたてて店内までも雨音で満たされる。さて、どうしたもんかと悩んでいると先生がばつが悪いといった風に口を開く。

「……少し勢いで飲み過ぎてしまったな、もうそろそろお暇するよ。すまないね、短時間で帰ろうと思っていたけどだいぶ時間をおしてしまっていてようだ」

「大丈夫ですか?なんだかこちらこそすいません、結局お力になれず」

「気にすることはないよ、こうして話を聞いてもらえただけで満足だ」

「……雨降ってますけど、傘はお持ちで?」

「いや、濡れて帰りたい気分なんだ」

 風邪を引かないでくださいね、と声をかけ、見送ろうとしたその時だった。俺はふと、弥生が口にした言葉を思い出した。――押してだめなら引いてみろってことわざ、あるでしょう。あれって押すのも引くのも同じ力じゃないとだめだと思う。
 彼女が何を思ってそう発したのかはわからなかったが、その場面を思い出すと、彼女の視線の先には指導先生がいたような覚えがある。それってつまり……あぁ、なんだ。そういうことか。弥生は、基本的に一歩離れたところから皆を見ているために些細なことも見逃さず、的確に状況を把握しそれにあった行動や発言をするのだが、当時は珍しくその状況とは全く外れた話をしだしたものだからみな不思議がっていた。アイツ、俺たちにではなくて先生に向かって言った言葉だったんだな……。
 とすると、俺がやるべきことは明確だった。入口のベルを再度ならして帰宅しようとする先生を引き留める。どこか悲し気な表情を浮かべてこちらを見る幽雫先生に、俺の自慢の恋人が言った言葉を俺なりにアレンジをして紡ぐ。

「先生、押してだめなら引いてみろってことわざ、ご存知ですよね?――それって、押すのも引くのも同じ力じゃないと釣り合いが取れないと思いませんか」

「……柊、どうしたんだ急に」

「ですから……先生、釣り合いが取れていないんじゃないですか?先生が押した分よりも、指導先生が引く力のほうが強いんじゃないでしょうか。一線を越えられないのも、つまりはそういうことです」

「何となく言いたいことはわかるけど、いまいち掴めないな」

「……俺から言えるのはここまでですよ。俺は学生だし、大人の世界っていうものがどういうものかまだわかりません。あとは、幽雫先生次第です」

 ――そうだね、ありがとう。と少し困ったような笑顔を見せ、先生は出て行った。やるべき事、言うべき事はもうない。きっと幽雫先生の事だから、俺が告げた言葉の意味は内心わかっているのだろう。どう転ぶかは、二人の行動次第で決まる。どうか少しでも、いや、あそこまで答えがわかっているのなら良い方向に転がってもらわないと困る。とっくにすぎた閉店時間のわりに片付けが全く終わっていないので、急いでそれらを片していく。とりあえず、先生の話はこれで一息ついたところで、次は自分の番だ。未だに口を聞いてくれない恋人にどう謝ろうか。変なプライドが謝るという行為を邪魔してくるが、謝らないままでいるわけにもいかないし、愛想を尽かされて「別れる」何て言われたら晶たちに笑われるどころじゃ済まない。
 片付けを終えた俺は、こんな時間にどうかとも思ったが弥生に電話をかけることにした。待ち歌が流れ数秒後に『なあに?』とご機嫌斜めな弥生の声が聞こえる。数日ぶりに聞いた愛しい彼女の声を聞きながら、店を閉め、俺は帰路につく。いつの間にか降り出した雨は止み、かわりに見事な星空が頭上で輝いていた。

タイトルはカクテル言葉です。琴さん宅のくらはるちゃんは身体に良い……。

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