鯉とブローディア(鯉登音之進)

 青く澄んだ空に映える白い雲。初夏らしく、じわじわと肌を焼きつつ周囲を照らす太陽は、今は都合よく雲の中でかくれんぼをしているようだった。ふわり、と己の髪をなでて去っていく風を見送りつつ、視線を屋根の上に移す。そこには、とっくに終わったであろう、こどもの日を祝うための鯉のぼりがゆらゆらと空の海を泳いでいる。
 ――鯉のぼり。女である自分からすれば、こどもの日はあまり関係のない祝い事ではあるが、ある年からはどの祝い事よりも大切な行事となった。それは……。

?……また鯉のぼりを見ていたのか」

「あっ、すいません音之進さま!……つい」

「ほんのこて好いちょっな……。そんなに珍しいものでもないだろう」

「だって……鯉のぼりを見ると音之進さまを思い出すものですから」

 なんじゃそれは、と返して、自分の先を歩く愛しい人の背を慌てて追う。
 彼――鯉登音之進はかの北鎮部隊、最強と謳われた第七師団の陸軍少尉の位に就いている。家柄もかなり良く、根っからの軍人家系で、父親は海軍少将だ。きっと船酔いさえしなければ彼も父親の背中を追っていたのではないかと思う。……彼が心酔している上司の存在も気になるところではあるが。これだけでも彼が、いわゆるエリート街道まっしぐらで、お坊ちゃんであるかがわかるだろう。自分はその許嫁、というわけだ。
 彼との出会いは、彼がちょうど士官学校を卒業する少し前に、父親同士が決めた婚約によってだった。初めは乗り気ではなかったが、親同士が決めた事に口を出すのは御法度というもの。私たちに断るすべもなく、関係は着実に淡々と決められていった。不平不満はもちろんあり、すんなりと受け入れるにも時間を要したが――それはまた別に話すとして。

 今日は、一週間ほど前からこちらに帰省している彼と待ちに待ったお出かけの日。お出かけ、といってもどこかに遠出するわけではなく、東京の街へ出て散策するだけではあるが。それでも、彼となかなか会うことができずに日々過ごしていた私にとっては大変なご褒美である。この日のために新しい洋装も買ったし、靴も新調した。……それに気付くような人ではないけれども。それでも、彼の目に映る私は誰よりも華やかで美しくありたい。淡い恋心を募らせ、速足で彼の元へ駆け寄る。

「わいが街へ出ろごたっちゅうで来たんじゃろうに……。あまり彷徨っな」

「はい……申し訳ございません……」

「あ、いやっ……ちごっ!……心配になっで」

 余程恥ずかしかったのか、そっぽを向きながら答える彼はいつもより幼く見えた。こうしてみるとなるほど、軍人少尉もさながらまだ若き青年なのだと思わざるを得ない。それが伝わったのか、彼はこちらを不服そうににらみつけていた。それすらも愛らしく見えてしまうから、困りものだ。心なしか、しかめっ面でこちらを見つめる彼も、小動物を見るかのような目で自分を見ているように思えた。
 そうしたやりとりをしつつ、並んで歩いているとふと目についたものがあった。

「音之進さま~!」

「ん……どげんした」

「見てください、あそこ!ほら……あの紫色の……」

「んん~?どれだ……」

あれです、あれ。と道端に咲いていた、とある花に向けて指をさす。それは、花弁が青と紫がほどよく混じりあい、中心にいくにつれて儚い彩りを形成する、美しいブローディアであった。園芸植物であるため、道端に咲いているのは珍しい。きっとどこかの庭から、昨年できた種子が旅をしてきたのだろうと思う。綺麗な青紫の六枚の花弁が放射状に開いており、夜空に輝く星を彷彿させる。あたり一面にはブローディア以外にも、色とりどりの花が我を見よ、といわんばかりに美しく咲き誇っていた。しかし、その中で控えめに咲くブローディアは、控えめだったからこそ逆に目を惹いた。
ようやくブローディアを見つけた彼は、おお、と感嘆の声を漏らした。

「名はなんちゅう?」

「ブローディア、といいます。園芸植物ですが、きっと種が風に乗ってここにたどり着いたんでしょうね……。」

「なっほどな……。良か色をしちょっ。みごっかじゃらせんか」

「そうでしょう?綺麗な青紫ですよね」

は物知りじゃな……。ちゅうこっは、花言葉とやらも知っちょるんか?」

「花言葉……。そっ、そこまでは……私も存じ上げていないです」

 そうか、と少し残念そうな表情を浮かべ、彼は話に区切りをつけてまた前を向いて歩きだした。
 ――嘘をついてしまったな。
と彼の背中の後ろで少しの罪悪感に襲われる。実は、ブローディアの花言葉を私は知っている。ただ、どうにも伝えるのが憚られたので、咄嗟に知らないと口走ってしまったのだ。先を歩く許婚の背中を再度見る。つい先ほどまで隠れていた太陽が、また顔を出し始めたようだったが、ちょうど彼が太陽と私の間を遮る形で歩いていたために私を避けて日光が降り注ぐ。
 別に隠すほどの花言葉でもなかったのだが、どうにもちっぽけな……私の乙女心、とでも表現すればいいのだろうか。それが邪魔をして、言うに言えなかった。花言葉に乗せて気持ちを伝えるのも悪くないけれど、どうやらまだ私には早かったようだ。
 ――
 そう一言、音之進さまは私を呼ぶ。太陽の逆光だけではなく、恋の魔法にかかった私からみた彼の顔はどうにも眩しくて、直視することができなかった。
 先を行く彼から少しだけ目をそらし、もう一度ブローディアを見る。そよ風に吹かれるブローディアは、遠くに見える背の高い向日葵から見ればどれだけ儚く小さな存在なのだろうと思いをはせる。まるで……、そう、私と音之進さまのように。ブローディアは私、背が高くて、太陽を追いかける向日葵は音之進さまだ。
 どれだけ頑張っても、背の低いブローディアでは向日葵を支えることを許されない。でも、それでもこの想いだけは。この、胸に秘めた想いだけは――。

ブローディアの花言葉は淡い恋。

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