頑なに拒む両手(グラジオ)

 ――オマエも一緒に来ないか?

 ……ばちん。鈍い音がした。差し出された彼の手を、咄嗟に叩いてしまったのだ。
 自分でも、なぜこのような行動をしてしまったのかわからない。ただ、反射的に、伸ばされた彼の腕を振り払った。幼い子が嫌いなものを食べたとき、それを即座に吐き出したり、熱湯が手にかかったときにすぐ手を引くのと同じだった。
 嫌な汗が背中を伝う。彼の顔が一瞬曇ったのを、私は見逃さなかった。

「……。」
「あ、その……。ご、ごめん……」
「……いや。悪かったな、無理に誘って。」

 違うんだ、そうじゃない。否定の言葉を口にしようとも、喉につっかえて言葉にならない。
 彼の気持ちはむしろ嬉しくて、否定する気など更々なかった。彼は、きっと私のことを思って誘ってくれたはず。
 彼が誘おうとしたのはシンオウ地方への旅行だ。旅行といっても、バカンス目的ではなく、エーテル財団代表として研究目的の旅行であった。シンオウ地方とは、熱帯なアローラとは反対に、寒冷で地方の北部や、テンガンと呼ばれる山には雪が降り積もる神秘的なところだ。シンオウ地方にはある伝説が残されており、その伝説と彼――グラジオの所有する対ウルトラビースト用に人工的に作り出されたポケモン、タイプ:ヌルとの関係性を詳しく調べるために、シンオウ地方へ赴こうとしているのだ。
 そして何より、シンオウ地方は私の出身地でもある場所だった。最も、親の顔も名前も知らない私には、関係のないことではあるが。――そう、関係ないのだ。それなのに、どうしてもこの両手が、心が、その地方へ足を踏み入れることを拒むのだ。
 あの時から、既に克服したと思っていた。島巡りを終わらせコオリタイプのキャプテンの候補にも選出され、物理的にも、精神的にも強くなったと、そう確信していた。以前から探していた自分の生きる意味だって見つかった。以前の弱く、脆い私と違ってひとまわりも、ふたまわりも大きくなったというのに。
 それなのに、まだ私はその地方へ赴くことに恐怖を感じる。私が私でなくなってしまうような、知りたくないことまで知ってしまうような感覚にとらわれるのだ。

「ちがっ……、グラジオ!」
「違わない。さっきの反応がその証拠だ。……まだ怖いのだろう?」
「そ、そんなことないよ!怖くなんて……」

 口ではそう言いつつも、いざ行かんとすると身体が強張るのは明白だ。アローラにいる今ですら、こうして恋焦がれる彼の手すらとれないで、立ち往生する始末。前に進まなければいけないのはもちろんわかっている。いやな思い出を克服しなければ私は私が思う「強さ」を手に入れることができない。これさえ乗り越えられれば、私はきっと、全てを信じて歩んでいくことができる。しがらみからも解放される。けれども、私は私の全てを知るのが怖いのだ。
 もし、私が私の全てを知ってしまったら。それがどんなに醜くて、汚れた存在であっても、それは「私」として受け入れなければならない。それくらいならなんてことはないが、それを他人に知られてしまうのが怖い。それを知った周りが自分を見捨てるのが怖い。――彼に見限られるのが、とてつもなく恐ろしい。
 嗚呼、なんて無様なのだろう。反吐がでる。こうして行き所のない怒りを己にぶつけるしかできない自分が、憎らしい。

「無理をするな……。オマエ、今どんな顔をしているかわかるか?」
「え……?」
「せっかくの美人も台無しだな」

 ぐ、と彼が私の眉間に人差し指を充てる。彼が気にするほど、険しい顔をしていたのだろうか。ふと目線をあげると、彼の整った顔が目に映った。突然のことで、思わず目線を逸らしてしまった。そっと目線を戻し、彼の方を再度見る。彼の目は、私の弱さを見抜いている感じがした。何もかも見透かされているような心地だった。でも、決して悪い気にはならなかった。
 そのまま人差し指を充てながら、彼の口許が弧を描いた。

「いいんだ、ゆっくりで。オマエは何ごとも急ぎすぎだ。」
「でも」
「そうやって、第三者の意見を聞けない時点でお察しだな……」

 やれやれ、といった動作をしながら彼は呆れたように笑った。オマエはオマエのペースがあるのだから、無理に合わせることはないと彼は言う。そのような彼のやさしい言葉にまた甘えてしまう自分がいる。彼は優しいから。寡黙で常に己を高めることにストイック、故に冷たい人間に思われがちだが、本当は人一倍情が深い性格なのだ。今も、その性格が垣間見える。
それに甘えては強くなれない、なれるはずがない。そうわかっているのに、この両手は彼が差し出す手を拒み、彼にしがみつく事を求めるのだ。ぎゅ、と彼に抱き着くと清潔感の中に少しのスパイスと、それでいて包容力を感じさせる甘いムスクの香りがした。やっぱりこの場所が一番落ち着くな、なんて思いながら彼の心音を聞き、目を閉じる。
 きっと、今の私は母親にすがる駄々っ子なのだろう。口先だけ大人になって、それを行動に移せず、母の愛に包まれる子供なのだ。母の愛なんて受けたことがない故に、想像でしかないのだが。彼の目にはどう映っているのだろう。まだまだ子供だとでも思っているのだろうか。それとも、決心のつかない私に内心呆れているのか。
 呆れられても、一時の不安と恐怖から逃れられるのなら、それでもいい。今は誰かに……いや、目の前の彼にしがみついていたい。
 私の心情が彼に伝わったのか、そうっと彼も私の背中に手を回す。

「……細いな」
「え?」
「別に……オマエは強くならなくてもいいんじゃないか」
「ど、どういうこと……」

 驚いた。まさか彼からこのような言葉が出るとは思ってもいなかったからだ。少なくとも、以前の彼ならこんなことは言わない。ならば、何故?きっと今の私は彼が嫌う「弱いヤツ」だと思っていたのに。否、おそらく彼もそう思っている。
 だが彼はよりいっそう強く、私を抱いた。それは私と同じ、何かにすがりつく子供の動作だった。多少の痛みすら感じる程の強さで、だがそれを拒む気持ちにはなれなかった。
 嗚呼、この人も私と同じなんだ。怖いのだ。また独りになってしまうことが。寂しさを感じることが、誰かに見捨てられることが、どうしようもなく怖いのだ。私たちは、「独りになる」ことには慣れている。今までそうやって生きてきたからだ。これからも、そうやって生きていくのだとそう思っていた。しかし、私たちは「独りではない」ことに毒されてしまった。故に、「寂しい」という感情がうまれるようになった。私は今まで、この感情は不要であると認識していた。寂しいなんて感情は人を弱く脆くする呪いだ。それなら寂しがらなければいいと、育て親が亡くなったあの日からそう誓って生きてきた。それなのに、私は出会ってしまった。失いたくないと、そう思わせる人達に出会ってしまったのだ。もちろん彼も例外ではない。 それどころか、今一番失いたくない人へと変わっていた。目の前の彼を失うようなことがあったなら、と仮定するのも恐ろしい。このような感情を持ってしまうのなら、色のない世界を見続けていたほうが遥かにマシだというのに。

「無理して強くならなくてもいい。強くなれないなら誰かに守ってもらえばいい。怖いんだ、オマエが強くなってしまったら、オレの傍を離れていってしまう気がして」
「そんなことは……」
「ない、なんて言いきれないだろう?」

 私はなんて返せばいいのか。否定すればいいのか、肯定すればいいのか。
 私はずるいから、何も言わなかった。何も言わなければ、きっと彼はこれからもこうして、自分を見てくれると確信してしまったから。何も言わない私を彼はどんな心境で抱きしめているのだろう。ごめんね、なんて誰に向けて言っているのかわからない言葉を心の中で呟く。いつの間にか降り出した雨が、私と彼を濡らしていく。雨宿りする気にもなれなかった。ただ二 人でその場に立ち尽くすことしかできなかった。
 雨の冷たさの中に、たしかに存在する彼の温もりは、私をその場に縛り付けるのには十分で。
 その様子は、空から、前に進めない理由を教えられているような感じがした。

 ――困ったな。どうやら私が強くなれないのは自分のせいだけではないのかもしれない。彼の手を拒んだ両手は、まだ彼を抱くことしか許してくれない。

グラジオくんが果たしてこんな事言うのかどうか考えて書いてました。

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