ずっと一緒に居られると、大きな勘違いをしていた(ノベル版青鬼:ひろし)

「ちょっとひろし!?アンタねぇ……」

 だいたいその言葉の次は、自分にとっては至極どうでもよい事が紡がれる。僕はそんな毎日が少し憂鬱だった。朝起きて、学校へ行く支度をして、玄関のドアを開けると仏頂面の彼女が立っている。「おはよ」と短く呟く彼女―――は所謂"幼馴染"だ。しかし、辞書を引くとそういう関係であるというだけであって、僕も、そして多分彼女も幼馴染だとは思っていない。僕にとって彼女の存在は特に興味もないものだったし、彼女も顔を合わせれば何かと小言をかましてくるくらいだ。きっと僕を疎ましく思っているに違いない。それなのに彼女は僕の傍を離れないのだから、よくわからない関係だと我ながら思っていた。
 けれども、そのよくわからない関係が、いつも当たり前だったから。彼女が、僕の隣から消えてしまうことなんてないと、無意識のうちに"きっとそうだ"と僕らしからぬ非論理的な思考に至っていた。だから、この時は咄嗟に動くことすらできなかったのだ。

 ―――どんっ、と思い切り突き飛ばされる。突然の事でうまく反応できずに思わずよろけたが、何とか持ち堪えて無様に転ぶ事は避けられた。ハッとして後ろを振り返ると、全身が青い怪物が、彼女……の腕をがっしりと掴んでいるではないか。彼女は苦しげな顔をしつつも、瞳の光を失うことはなく、怪物を睨みながら叫ぶ。

「っ……、何してるの!早く逃げなさい!!」

「あ―――」

「逃げなさいって言ってるでしょ!?アンタまで死にたいの!?」

 死にたくない、なんて言葉よりも先に頭をよぎったのは「君を失いたくない」という言葉だった。
 僕は、驚いていた。今までありとあらゆる人間に興味を持てず、人間関係の構築を放棄してきたこの僕がその思考に至ったことに。他人の心というものを理解できず、人間以外の、ひたすらに好奇心が揺さぶられたものにだけ熱心に追い求めていたこの僕が。特に興味もなかった彼女を失おうとしている事が、途轍もなく恐ろしいことに思えてならない。どうすれば彼女を救い出せる?どうすれば、どうすれば―――。
 化物が目の前にいるというのに、一歩も動けなかった。それを察した彼女が僕の名前を呼ぶ。

「ッ……、ひろし!」

 ―――ハッとして、顔を上げる。僕と目が合うと、苦しげな表情から一瞬にしていつもの、あの元気で明るい……僕が無意識のうちに惹かれていたあの笑顔に変わった。

「ひろし、アンタは生きるのよ。もう私が居なくても―――」

 大丈夫でしょ、と最後まで言葉が紡がれることはなかった。青い怪物は、彼女の最後の言葉すら僕から奪っていった。

 ……僕はただ前を見て走る。骨が砕かれるような鈍い音と、肉を咀嚼するような音に耳を塞ぎながら。辺りを埋め尽くす、鉄と酸の独特な臭いが鼻をつき、思わず立ち止まって胃の中を物を全て吐き出しそうになるのを懸命に耐え、足を動かす。彼女が、が化物に喰われているという事実を信じられず、何度も後ろを振り返りそうになるが「アンタは生きるのよ」という彼女の言葉がそれを許さなかった。
 振り返っている暇などない、僕は今、あの化物に捕まって死ぬわけにはいかないのだ。彼女が救ってくれたこの命を無駄にしてはならない。

「僕は―――僕は、生きなければ」

 暫く走り続けると、あの鈍い音や臭気は消え失せ、辺りは己の心臓の鼓動が響く程に静かになっていた。目についた部屋のドアを開け、あの化物やその他の生物がいないことを確認し、頭の中を整理すべく地べたに座り込む。刹那、考えないようにしていたことが次々と脳内を駆け巡り、どうしようもない感情に心が支配されていく。

 ―――はもう居ない。

 見るのが憂鬱だったあの仏頂面も、僕にとっては至極どうでもいい事が彼女の口から紡がれることも、呆れたように自分の名を呼ばれることも―――あの笑顔が見られることも、ない。もう二度と。
 改めてそれを実感すると、まるで心に大きな穴が空いたかのような虚無感と止めようもない涙が溢れてきた。

 何をしているのだろう、僕は。感傷に浸っている時間はない。そもそも僕は彼女にそこまで興味がなかったはずなのだ。彼女だって、そうだった。それなのに何故僕を助けた?そう問うたところで、彼女はもう居ないのだから返事などあるわけもなく、宙に虚しく消えていく。



 彼女の名前を呼ぶ。

……」

 もう一度。返事はない。
 彼女が傍にいるという僕の"当たり前"は、一瞬にして消え去ってしまった。当たり前の事なんてこの世に存在するはずがないということを、僕は知っていたはずなのに。"其れ"が当然だったから、ずっと大きな勘違いをしていた事に何時までも気づく事ができなかった。人はいつも失ってからその大切さに気づく。後悔しても、もう遅い。

「全く大丈夫ではないですよ、っ……!」

 置いていかないで、と無意識に吐いたその言葉は、静寂に包まれてまたたく間に姿を消してしまった。

これをフォロワーが漫画におこしてくださったんですが、めちゃめちゃ良かったです……。宝物になりました。

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